となりにいるけど、とおい人
くろが、あの夜泣き崩れてから数週間が経った。
静かな地方都市の片隅で、
滝沢はある決断をした。
「転職」
そして――
「引っ越し」
「……え、マジで?東京の職場やめんの?」
「うん。
もともと俺、仕事にそこまで未練ないし。
むしろ、これからの方がずっと大事だと思ったんだよね」
退職日、理央が声をかけてきた。
「なんかあったのか?
いや……なんか“誰か”か?」
滝沢は曖昧に笑って、はぐらかした。
「まあ、人生ってのは流れがあるからな。
住所の件はごめんな。
お前も彼女、大事にしてやれよ。
ちゃんと、ちゃんと手放すなよ」
理央は少し目を伏せて、
小さく頷いた。
そして二人は、それきりだった。
その後、滝沢はくろの暮らす町に引っ越し、
くろのアパートの隣――
いや、もう一つの鍵を作って、同じ部屋で暮らすようになった。
最初の数日は、ぎこちなかった。
「おはよう」
「……うん」
「ごはん、食べた?」
「あとで」
そんな簡素な会話だけが交わされ、
くろは何度も、
“この人も、いつか出ていくんじゃないか”
と心の中で繰り返していた。
彼の優しさが、
あたしを“赦すための仮面”なんじゃないかって、
ずっと疑っていた。
一方の滝沢は、
毎朝コーヒーをいれ、
洗濯をして、
一言も急かすことなく、ただ隣に居た。
何も求めない。
押しつけない。
ただ、“生活を整える”だけ。
それが、かえってくろを不安にさせた。
「ねえ……滝沢、
ほんとに、あたしと一緒にいて楽しいの?」
そう聞いたある夜、
滝沢は、湯呑を拭きながら、優しく答えた。
「“楽しい”ってのとは、ちょっと違うかもな。
でも――“そばにいてほしい”って願う人が、
そばにいてくれることが、
すげえ幸せだよ」
くろはその夜、
何も言わずに背を向けた。
けれど、布団の中で
そっと涙が滲んでいた。
そんなある日。
滝沢が、手帳を片手に言った。
「くろちゃん。
……一緒に、カフェやらないか?」
くろは、驚いた顔で振り向いた。
「カフェ……?」
「うん。前に、お前が淹れたコーヒー美味しかったし、
俺も喫茶店回るの好きでさ。
なんかさ、
“誰かが安心できる場所”――
二人で、つくれたらいいなって思って」
くろは、すぐには返事できなかった。
“お客を迎える”、“笑顔で対応する”
そんな日々は、遠い過去に置いてきたものだった。
でも――
滝沢の瞳は、どこまでもまっすぐで、
彼女の“現在”だけを見ていた。
「……今は、まだ無理かもしれない」
「うん、わかってる。
だから、いつかでいい」
「……気が変わったら」
「それで十分」
そのやり取りのあと、
静かな時間が流れた。
でもその沈黙には、
少しだけ、光が含まれていた。




