涙の向こうに、初めてのぬくもり
それは、雨が降り出す直前の夕暮れだった。
その日も、滝沢はいつものように、
くろのアパートの扉をノックした。
「……くろちゃん。今日も、来たよ。
返事しなくてもいい。
声を出さなくてもいい。
ただ……聞こえてたら、それだけでいいから」
言葉のあとに、
しばらく静寂が続いた。
それから――
彼は、一度、深く息をついてから、背を向けた。
トントン、と階段を降りる小さな足音が、
だんだんと遠のいていく。
部屋の中で、
くろは静かにその音を聞いていた。
胸の奥が、きゅうっと痛んだ。
(行った……)
心の中でそう思った瞬間――
どこかほっとする自分がいた。
“これで、もう来ない”
“あたしを見なくていい”
“苦しまなくていい”
だけどその直後――
なぜか、涙がこぼれた。
震える手でソファを支えにし、
くろは立ち上がった。
視界がぼやける。
喉が詰まる。
なのに、足が勝手に動く。
「……行かないで……」
声にならない声を胸に、
ドアノブを回した。
扉が開いた。
冷たい風が吹き込んでくる。
靴も履かず、
パジャマのまま、
足裏の冷たさを気にもせず――
くろは、駆け出していた。
マンションの角を曲がると、
もう少しで見えなくなる滝沢の背中があった。
「――っ、待って……!」
声にならない声を吐きながら、
くろは地面を蹴るように走った。
「……滝沢っ……!」
その背に、腕を伸ばす。
ぎゅっ、としがみついた。
何も言えなかった。
言葉なんて、出てこなかった。
ただ、震える身体で彼にしがみついて――
くろは、声を上げて泣いた。
抑えていた想いが全部、決壊したように。
これまでの痛み、孤独、悔しさ、
すべてが涙となって溢れた。
滝沢は、
驚いたように立ち止まり、
しばらく何も言わなかった。
けれど――
やがて静かに、
その華奢な背中を、しっかりと抱きしめた。
「……泣いていい。
何も言わなくていい。
俺、全部、受け止めるから」
くろの肩が、彼の胸元でびくびくと揺れる。
その音も震えも、
滝沢は、
ひとつ残らず、抱きしめて受け止めた。
二人の上に、
ぽつり、ぽつりと雨が降り始めた。
でもくろは、
そのぬくもりの中で――
初めて、人の胸で泣いた。




