さよなら、黒瀬くろ
扉が閉まったあの夜から、
くろは完全に“夜の女”ではなくなった。
銀座にも、戻らなかった。
スマホも電源は切ったまま。
滝沢から来ていた数件のメッセージには、目を通さなかった。
それよりも、
今の彼女には――“沈黙”が心地よかった。
日中、カーテンを開けることはなかった。
食事もせず、
鏡の前にも立たなかった。
クローゼットに吊るされたドレスたちを、
ただ静かに見つめる日々。
艶やかな黒、深紅、シルバー、
どれも“黒瀬くろ”を象徴していた色。
でも――
今の彼女は、
それを手に取る指すら動かなかった。
ある夜、
ひとりきりの部屋で、化粧台に座った。
目元は腫れていない。
頬もこけていない。
ただ、表情がどこにもなかった。
「……私、こんな顔だった?」
声を出すのも、久しぶりだった。
数日後、退店届を出すため、
くろは店に一度だけ足を運んだ。
夕方前、店が開く前の静かなホール。
そこにはもう、
自分の香りも、笑い声も、
何一つ、残っていなかった。
カウンターの奥、
藤島店長が驚いた顔でこちらを見た。
けれどくろは、何も言わず、
封筒だけを差し出した。
「黒瀬くろ 退職願」
それを受け取った店長の手が少し震えたのを、
彼女は見なかったふりをした。
帰り際、ふと壁に飾られたランキング表が目に入る。
そこには、
白石ゆかが微笑むポスターと――
“指名数No.1”の文字。
くろは、それを見て、
初めて――笑った。
それは、自嘲でも、怒りでもなく、
どこか“許したような”静かな笑顔だった。
「そっか。
この街は、“私”を忘れる気なのね――」
その夜。
帰宅後、くろはひとつの荷物をまとめた。
愛用の香水。
ブランドのドレス。
数々のジュエリー。
そして、
黒瀬くろという名前が刺繍されたローブ。
それらを、
大きな段ボールに詰めて、処分した。
“あの世界”にいた証。
今は、もう要らない。
夜明け前、
一台のタクシーに乗って、
彼女は東京を離れた。
どこへ行くのか、自分でも分からない。
でも、もう――
“黒瀬くろ”ではいられなかった。
“さようなら、私。”




