最後の扉
土曜の午後。
風の強い日だった。
くろは、鏡の前で最後のリップを引いた。
赤。
深く、艶を含んだ、男を誘う色。
黒のスリットドレス。
背中のカットは大胆で、
ハイヒールは艶のあるバーガンディ。
香りはディープバニラとホワイトムスク。
すれ違う人々が、
思わず足を止め、視線を奪われる“完璧な黒瀬くろ”。
この姿が、わたしの証明だった。
理央のマンションに着いたのは、夕暮れ時。
重たいエントランスの前に立ち、
震える手で呼び鈴を押す。
“ここを開ければ、もう一度始まる。”
そう、信じていた。
「……誰ですか?」
ドアが開くと、
そこには無防備なTシャツ姿の理央がいた。
驚きと警戒が混ざった目が、
くろを捉えた瞬間――眉がわずかに歪んだ。
「……黒瀬さん?なんでここに――
ていうか、どうして家を知ってるんですか?」
「そんなことどうでもいいの」
くろは笑った。
“完璧な笑顔”を、崩さずに。
「“こんないい女が、わざわざ会いに来てあげた”のよ?
普通なら、感謝して跪く場面じゃない?
……ねぇ、理央。今から、いい店行かない?」
声は甘く、
でもその奥には鋼のような必死さがにじんでいた。
理央は言葉を詰まらせた。
その時――
部屋の奥から、ひょこっと女性が顔を出す。
「どうしたの、理央?
……誰か来てるの?」
それは、
くろがなろうとして、なれなかった女だった。
落ち着いたワンピース。
メイクは極力控えめで、自然な眉に艶のない唇。
細く小柄な身体に、くろとは違う“安心感”が纏われていた。
まるで、
あの“白石ゆか”の私生活を見ているかのようだった。
理央は慌てた様子もなく、
ただくろに背を向けるように答えた。
「……何でもないよ。大丈夫」
そして、
くろに振り返ったその表情には、もう迷いはなかった。
「……帰ってください。
もう二度と、僕の前に現れないでください」
そして――
扉は、音もなく閉じられた。
風が吹いていた。
ドアの前に立ち尽くすくろのドレスが、静かに揺れる。
ハイヒールの先で石畳を踏む音だけが、耳の奥で反響する。
彼女の中で、“すべて”が崩れた。
「……また、“負けた”のね」
静かに呟いた声に、
感情はなかった。
涙も出ない。
怒りもない。
あるのは――
空っぽの敗北感だけ。
“こんないい女が来てやったのに”
“完璧だったのに”
“あたしがナンバー1だったのに”
でも。
それでも。
あの扉は、もう二度と開かなかった。




