私は、もういない
出勤停止を言い渡された夜から、
くろはずっと、自宅のソファに沈んでいた。
カーテンは閉じられ、
スマホも、電源が切られたまま。
食事も適当で、口にしたコンビニサラダの味すら覚えていない。
時間だけが、
ぬるくて湿った空気のなかを、無音で過ぎていった。
3日目の午後。
くろは、なぜかドアを開けていた。
ドアを閉めた記憶はあった。
けれど、足元にヒールを履かせたのは無意識で、
気づけばネイルオイルまで塗っていた。
そして、
気づけば――
銀座の街を歩いていた。
夕暮れ時、
店の前に辿り着く。
「L’Eclipse」
煌びやかなロゴとガラスの扉。
そして――その横にある看板。
以前は、くろの姿があった。
艶やかなドレスをまとい、挑発的に笑うナンバー1の女――黒瀬くろ。
だが、その写真はもうなかった。
そこには、
白いワンピースをまとった白石ゆかの姿があった。
穏やかで、どこか控えめな笑顔。
男たちが“癒される”と言った、あの顔。
その看板の下には、小さく書かれていた。
「現在指名数 No.1」
くろの中で、
何かが崩れる音がした。
「あの子が……?
あの、何も持ってなかった子が、
私の場所を――」
歩道に立ち尽くしたまま、
涙も出なかった。
代わりに、
“怒り”と“悔しさ”がゆっくりと沸いてきた。
「全部……アイツのせいよ……」
そのまま街を歩いた。
記憶の糸も切れていて、
気づけばバーの角を曲がったところで、ある男と鉢合わせた。
「……くろちゃん?」
滝沢だった。
小さな紙袋を片手に、仕事帰りのようだった。
くろは立ち止まり、視線を彼に向ける。
「……滝沢さん、ちょうどよかったわ。
あたし、綾瀬理央の住所が知りたいの。」
滝沢は明らかに顔を曇らせた。
「……いや、さすがにそれは……」
「お願い、教えて」
くろの声は、低く、感情が抜け落ちたようだった。
「無理だって……あいつ、今ほんとに忙しいし、
第一、何のために……」
「全部、あの男のせいなのよ」
くろは言った。
「無視されて、ブロックされて、
あたしが自分を見失って、店を休んで、
そして――ゆかに、負けた」
「理央は、何もしてないだろ……」
「そう。何もしなかったから、壊れたのよ。
あたしが“求めた”のに、アイツは“何もくれなかった”から――
ここまで、狂ったの」
その目は、
焦点が合っているようで、何も見ていなかった。
滝沢は数歩下がりながら、
息を呑んだ。
「……わかった。
近づきすぎないようにだけ、してくれよ……」
くろは微笑んだ。
笑っていたけれど、
その笑顔に、もう“あの頃の艶”はなかった。
滝沢は、スマホの連絡先をスクロールして、
理央の最寄りの駅名とアパートの特徴を、
一枚のメモに書いて、くろに渡した。
手渡された瞬間、
くろはその紙を見つめ、
何も言わずに、それをバッグに入れた。
「ありがとう、滝沢さん。
やっぱり、あんたは使える男ね」
そして、
そのまま夜の雑踏に、
黒瀬くろは消えていった。




