女王の誤算
銀座の夜。
ネオンが空気を歪ませ、艶やかなドレスが人の欲望を映し出す。
その中心――高級クラブ「L'Eclipse」(レクリプス)。
その奥、ひときわ目を引く黒のスリットドレスを纏った女が、白い脚を組み替えていた。
黒瀬くろ。
完璧な外見と緻密な会話で、男たちを翻弄し支配する夜の女王。
彼女の周囲にはいつも金と欲が渦巻いていた。
「笑わせて」「癒して」「惚れさせて」――そう懇願する男たちを、くろはいつもこう見下していた。
「どうせ全員、壊れるか、飽きるのよ。」
銀座、午後10時。
夜の街に溶けるネオンの光が、車のボディを妖しく照らしていた。
高級車が横付けされたその瞬間、扉が開き、若い男が不機嫌そうにため息をついて降り立つ。
「……俺、こういうとこ無理って言ったろ」
「まぁまぁ。いい女見たら考え変わるって、理央~」
隣にいるのは、理央の会社の先輩であり、悪名高い遊び人・滝沢だった。
「接待なんて建前だって。お前、人生損してんだって。
銀座には、ハンパないのいるから。な?俺の言うこと、間違ってねぇって」
理央は小さくため息をついたが、何も言わずにその場に従った。
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その夜の「L'Eclipse」は静かに賑わっていた。
その最奥に――黒瀬くろがいた。
深いスリットの入った黒のドレス。
血の通わないような白い肌に、深紅のリップ。
男たちの視線を集め、支配し、そして飽き飽きしている彼女の前に、滝沢が座る。
「やっべ、今日ナンバー1いるじゃん!マジで写真よりエグいな、ホンモノじゃん…!」
くろは口元に笑みを浮かべ、軽くグラスを傾ける。
「それで?今夜の“お人形さん”は、どちら?」
「こいつ。うちの理央。初体験なんだよ、銀座。
マジで真面目すぎてさ。こういうとこ、ぜ〜んぜん慣れてないの」
くろは理央に視線を向けた。
整ったスーツ。整えられた髪。だが、目が違った。
全くこちらを見ていない。むしろ興味なさげに、グラスの水滴を指でなぞっていた。
「ああ――これは、面白いわ。」
「初めてなんですね、こういう場所」
くろは甘く声を落として、距離を詰める。
「……ええ、まあ。」
「怖くないですか?急にこんな…美人が隣に来て」
そう言いながら、わざと髪を耳にかけて首筋を見せる。
そして、胸元から少し身を乗り出す。
指先が、理央のグラスの縁を軽くなぞった。
「ねえ……あなたのこと、もっと知ってもいい?」
色気と熱のブレンドされた言葉を吐きながら、スカートの裾をわざと直す仕草を加える。
だが、理央はただ一言。
「……あまりこういう場所に興味がないんです。」
それだけ言って、視線はグラスの底に落とされたままだった。
しばらく沈黙が続いたあと、くろは珍しく“感情”のようなものを浮かべる。
「ふぅん……じゃあ、せめて名前だけでも教えてもらえる?」
「……綾瀬です。綾瀬理央。」
「理央……いい名前。なんだか、冷たそうで」
「よく言われます」
と、微かに口角を上げた。
くろは、喉の奥で笑った。
「ふふ……やっぱり“面倒”なのは、あなただったのね」
そう。
彼女にとって、名前を聞くのにこんなに色気を使ったのは初めてだった。
その夜、会話は弾まなかった。
理央は必要以上に話さない。
笑わない。
くろを“商品”としても“女”としても見なかった。
会計後、滝沢が去ったあと、くろは最後に微笑みながらQRコードを掲げた。
「……連絡先、交換してくれます?」
「……形式として、ですね」
理央はそう言って、スマホを差し出す。
そして、それ以上何も言わずに、去っていった。
くろはカウンター席に戻ると、開いたスマホの画面を見つめた。
綾瀬理央。
その名が連絡先に並ぶのを見て、どこか胸がざらついた。
「ねぇ……面白いじゃない、理央くん」
「“興味ない”って顔で、私のこと、ちゃんと見てる。」
そんな風に感じてしまったのは、なぜだろう。