壊れたナンバー1
閉店後のラウンジは、
静けさとアルコールの残り香に包まれていた。
スタッフが清掃に入った奥の控室に、
くろのヒールが鋭く響いた。
「ちょっと話があるの」
白石ゆかが着替えを終え、バッグを手に持った瞬間、
背後からかけられたその声は、
明らかに怒気を孕んでいた。
振り返ったゆかは、
目を丸くして立ち尽くす。
「く、くろさん……?どうかされましたか?」
くろは、一歩、踏み込んだ。
「ねぇ、アンタ――
最近、あたしの客、横取りしてるつもり?」
声は抑えていたが、
その奥には確かな棘があった。
「え……そ、そんなつもりは……。
あの、私……ただ、お客様が指名してくださって……」
「“指名してくださって”?」
くろの口元が引きつる。
「じゃあ何?
あんたは“何もしてないのに選ばれてる”って言いたいの?」
「ちが……私は、ほんとに……」
「ふざけないで」
くろの声が一段上がった。
「全部演技でしょ?
“清楚で控えめで優しい女”って顔して――
結局、“あの子っぽい自分”を演じてるだけじゃない」
「くろさん、どうしたんですか……本当に……」
ゆかが、困ったように手を差し出す。
その瞬間だった。
ぱちん。
乾いた音が、控室に響いた。
くろの右手が、
ゆかの頬を叩いていた。
「っ……!」
ゆかが頬を押さえて後ずさりする。
次の瞬間、
扉がバン、と開く。
店長・藤島が飛び込んできた。
「……何の騒ぎだ!?」
目に飛び込んできたのは、
頬を赤く腫らしたゆかと、手を震わせるくろ。
藤島の顔色が変わる。
「白石さん、どうした!?これは……!」
「すみません……っ、大丈夫です……!」
ゆかは震えながら答えたが、
頬には明らかに指の跡が浮かんでいた。
藤島はすぐにスタッフを呼び、
氷を持ってこさせ、ゆかの手当を始めた。
その手元を、くろはただ――呆然と見つめていた。
「……黒瀬さん、
君は……何やってるんだ……」
藤島の声は低かった。
「なんで手ぇ出した?何があった?」
くろは言った。
「悪いのは――あの女よ。
私の客を取って、ランキングを荒らして、
この店を壊してるのは、あの子。
あたしはただ、“当然の抗議”をしただけよ」
「“当然”?……正気か?」
藤島の目が冷たく光った。
「客を取った、ランキングを上がった――
それがどうした。
そんなこと、競争の中で当たり前のことだろ」
「でも――」
「でもじゃないっ!!」
藤島の声が控室に響いた。
くろは、初めてビクリと肩を震わせた。
「手ぇ出した時点で、
お前の“言い分”なんて全部消える。
何年この世界におると思ってるんだ、くろ!」
沈黙。
くろは唇を噛みしめて、
それでも、目を逸らさなかった。
「……あたしはナンバー1よ。
売り上げだって、今までずっと――」
「知ってる。
でもな――今の君は“ナンバー1”じゃない。
ただの感情で他人を傷つけた、“壊れた女”だ」
藤島は、深く息を吐いた。
そして静かに、言った。
「黒瀬くろ、
無期限出勤停止だ。
今後の処分は、改めて通達する」
くろは、何も言えなかった。
言葉が出てこなかった。
「私は……まだ終わってないのに……
終わらせるつもりなんて、なかったのに……」
でも、
周囲の誰もが、
その言葉を受け取ろうとはしなかった。