剥がれていく微笑
翌週、金曜。
理央が再び来ることはなかった。
滝沢も一人で来店し、軽い冗談を交わすが、
くろはそれに対して“必要最低限の営業スマイル”だけを返していた。
「……おかしいな。くろちゃん、今日テンション低くない?」
「いや、そうでもないよ。いつも通りでしょ?」
スタッフの間でも、意見は分かれた。
くろは接客中、相変わらず“笑っていた”。
グラスを満たし、料理を勧め、時に艶やかに耳元で囁いた。
けれど、そのすべてに“熱”がなかった。
ある晩。
常連の一人が、何気なく言った。
「くろさん、最近なんか“目が笑ってない”っていうか……
こう、言葉にできない違和感ってあるよね。
前はもっと、心を読まれてる気がしてたんだけどさ……」
店長・藤島は、その言葉を聞いて静かに頷いた。
ここ数日、彼自身も同じものを感じていた。
完璧な接客。
崩れのない外見。
だが、どこか“薄膜一枚で貼られた笑顔”――
本当に“くろらしさ”がない。
「……ちょっと、みんなに聞くか」
営業後。
藤島はホールスタッフ数人を集め、くろについてさりげなく尋ねた。
「黒瀬さん、最近変わったと思わない?」
「えっ、いや……一応ナンバー1ですし、
業務的には何も問題ないですけど……」
「でも……うーん……たまに、
“間が怖い”時ありますよね。接客の途中で、
ふっと無言になる瞬間があるというか……」
「目を合わせなくなった気もします。僕らスタッフとも。
あと、一人でいるとき、ずーっと何か考えてるような顔してるの、気づいてました?」
“違和感”は、スタッフの間にもゆっくり浸透していた。
その翌日。
営業が終わったあと、藤島はくろを呼び止めた。
「黒瀬さん。ちょっと、話せる?」
「……ええ。なにか問題でも?」
「ううん。問題ってわけじゃないよ。
でも……俺、黒瀬さんのこと長いこと見てきたやろ?
だからな……今の黒瀬さん、いつもの“黒瀬くろ”じゃないって、わかる」
「……店長、私の何を見て、そう思ったの?」
「目だね。
笑ってない。心が。
それに……最近、ミスこそないけど、
きみ自身が“どこにいるかわからん”ような空気纏ってる」
くろは、黙った。
「このまま出勤させて、
“心のどこか壊れたまま”動かされるの、
俺は、きみにはしてほしくない」
「……意味がわからない。私は、
きちんと接客してる。お客様も満足してる。ナンバー1の実績も落ちてないわ」
「わかってる。数字の話じゃない。
でもな――“心の在り方”って、売上と関係ないよ」
藤島は深く息を吐いた。
「……しばらく、休みなさい。
出勤停止とかそんなじゃないよ。
“きみの心が、きみに追いつくまで”
――ゆっくり休みな」
くろは何も言わず、そのまま藤島を見つめた。
その視線の奥に、
ほんの一瞬、「助けて」とも読める色が浮かんだ――が、
すぐに掻き消された。
「……わかりました。じゃあ、来週いっぱい。休みます」
それだけ言って、
くろはロッカー室へと去っていった。
ひとりきりになった廊下で、
くろは壁にもたれて、小さく息を吐いた。
「心の在り方って、売上と関係ない」
その言葉が、
妙に――痛かった。