ずれた呼吸
理央がトイレから戻った頃には、
くろは既に完璧な微笑みを取り戻していた――ように見えた。
姿勢も、声も、指先の所作もいつも通り。
グラスに注ぐ手は滑らかで、
滝沢の冗談にも、余裕あるツッコミを返していた。
ただ――
わずかに、“間”が遅れた。
「くろちゃん、そういえばさー、あの時の取引先の男、マジやばくてさ……」
「ふふっ、それじゃ……え?」
ほんの一瞬。
会話の中に、“笑いのタイミングを外した空白”が生まれた。
滝沢は気づいたのか、気づかないふりをしたのか、話題を続ける。
くろはすぐに軌道修正して、笑顔を取り戻す。
けれど、視線が一度だけ、理央のグラスへと滑っていった。
飲み干された白ワイン。
彼は、くろに“もう一杯”を頼まなかった。
目も合わせない。
存在すら、認識されていない。
数分後。
別の常連がVIP席に移動してきた。
「くろちゃん、ちょっとこっちも顔見せてよ〜!」
「もちろん。じゃあ滝沢さん、少しだけ失礼するわね」
そう言って、席を立ちかけたその時――
椅子の脚が、わずかに音を立てて床を引っ掻いた。
ほんの少しだけ、強すぎた力。
くろ自身も、一瞬目を伏せた。
だが何も言わずに、笑って別席へと向かった。
その後も、接客は続いた。
ナンバー1のホステスとして、店の顔として。
けれど、どこか“表情の温度”が変わっていた。
笑顔が少しだけ強く、
声のトーンが一段高く、
視線の切り返しが、どこか落ち着かない。
「くろちゃん、なんか今日いつもよりテンション高くない?珍しくない?」
「ふふ、たまにはね。お祝いムードが抜けなくて。……悪い?」
「いや、嬉しいけどさ。
なんか無理してない?って思っちゃって……」
「そんなことないわ。
……それに、“私が無理してるように見える”って、
そっちの方がちょっと失礼じゃない?」
“語尾のトゲ”が少しだけ鋭かった。
一瞬の間を置いて、男は苦笑してごまかした。
それは、どこか“勘違いだったかも”という空気に包まれる、些細な違和感。
バックヤード。
メイク直しに入ったくろは、鏡の前で口紅を引きながら、
一瞬だけ、自分の目を見つめる。
視線が合わない。
ほんの僅かに、呼吸が早い。
「……ちゃんと笑ってる。ちゃんと立ってる。」
自分の顔に、
“理央の無関心”が貼りついて離れなかった。
閉店後、ロッカー室。
同僚が帰り支度をしながら、何気なく言った。
「今日のくろさん、
なんか雰囲気ちがったね。
……あれ、しろのドレスだった?メイクもやさしめだったし。
もしかして、気になる人とか来てた?」
「――ないわよ、そんなの」
すぐに返した声が、少し強かった。
「え?ご、ごめん、なんか空気読めなかったかな……」
「……あ、ごめん。
そういう意味じゃなくて。
ただ、疲れてたの。気にしないで」
笑ってみせた。
その笑顔は、誰も疑わなかった。
でも。
“くろが疲れてる”なんて言葉は、これまで誰の口からも出たことがなかった。