目の前にいるのに、いない人
金曜日の夜。
銀座の通りは雨上がりの湿気を帯びて、ネオンがじんわり滲んでいた。
「L’Eclipse」のドアが開いたのは、午後8時15分。
滝沢が先に姿を現し、
その後ろに、無言でついてくる男――
綾瀬理央
くろの心臓が、小さく跳ねた。
その瞬間、呼吸の仕方すら忘れたような感覚に襲われた。
白のシャツに、シンプルなネイビージャケット。
まるで仕事帰りそのままのような格好。
相変わらず整っていて、どこか人間味の薄い顔。
清潔感があって、隙のない立ち姿。
“来た。”
その事実だけで、喉が渇いた。
グラスの水に手が伸びるのを、自分で止めた。
彼の視線が、一瞬、くろをかすめた。
――それだけ。
それだけだった。
視界に“在る”という確認だけをして、
何事もなかったかのように、理央は視線を外した。
まるで、そこに“壁”があるかのように。
席に案内され、滝沢が騒ぎながらワインを注文する横で、
理央は黙ってメニューをめくり、
前菜を指差し、それっきり口を閉じた。
くろは、胸の奥を抑えつけるように呼吸を整える。
「……このドレス、メイク、髪型……
全部、“あんたのため”なのに――
どうして、そんなに平気な顔ができるの?」
笑顔を貼り付ける。
どれだけ無視されても、微笑みだけは失わない。
それが“銀座の女王”としての矜持だった。
「くろちゃん、今日も綺麗っすね~!そのドレス、新作?なんか雰囲気違う!」
「そう?ありがとう、滝沢さん。
ちょっと今日は、“控えめ”にしてみたのよ。大人しい人も来るかなと思って――ね?」
そう言って、
くろはほんの少し、理央の方に目を向けた。
だが、理央はその瞬間もグラスの縁に指をかけ、
無言のまま白ワインを口に含んでいた。
表情は変わらない。
視線も上げない。
くろに対する関心の糸が、最初から存在しないようだった。
それでも、くろは丁寧に振る舞った。
料理を取り分け、グラスの水を差し出し、
ワインの種類を簡単に説明する。
そのどれもが、
“話しかけられるきっかけ”を生むためのものだった。
理央の表情が動く瞬間を探すために。
――だが、彼はただ一度、言葉を口にした。
「……僕には話しかけなくて大丈夫です。
滝沢先輩の相手をしててください」
目も合わせず、
まるで書類を読み上げるように、淡々と。
その言葉が、
くろの胸に、音もなく突き刺さった。
「……っ、そう。わかったわ」
笑顔のまま答える声が、ほんの少しだけ震えた。
爪先でテーブルの裏を強く押しながら、
くろは心を落ち着けるように呼吸を整えた。
「トイレ、借ります」
そう一言だけ残して、理央はすっと席を立った。
くろは、その背中を見送った。
つかの間、視線の先が滲んで、
鏡張りの壁に映る自分の姿が、どこか別人のように見えた。
彼が好きそうな格好をして、
彼の前に立った私を――
彼は、まるで“存在しないもの”として通り過ぎていった。
席にはまだ滝沢がいた。
場は明るく、グラスは響き、他の客は楽しそうに笑っていた。
でも、くろの心の中では、
“あの男の無関心”だけが、
全ての音を消し去っていた。