“その日”までの静かな崩壊
「来週、金曜」
くろはメッセージを見た瞬間、スマホを手に持ったまま、しばらく動けなかった。
──理央が来る。
確実に来る。約束された時間。
それは、数日前まで“拒絶の象徴”だった名前が、
いまや“唯一の希望”に変わった瞬間だった。
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水曜日。
「ねぇくろちゃん、今日なんかいつもより機嫌いい?」
「そう?そうかしら?」
同僚ホステスの言葉に、くろは鏡越しに微笑んでみせた。
髪の巻き方が、いつもより緩く、柔らかい。
ネイルの色も、落ち着いたローズピンク。
いつもなら選ばない、どこか“控えめな女”の装い。
――彼に、見せたい顔だった。
夜。
いつもの客との会話に、心は半分しかいなかった。
「くろちゃん、今日ちょっとぼーっとしてない?」
「ふふ、ごめんなさい。少し考えごと。……あなたのこと、じゃないけどね」
その言葉に笑った男の顔が、妙に空っぽに見えた。
“どうでもいい人”をあしらうのは、簡単だった。
でも、どうでもよくない人には、何も言えなかった。
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木曜日。
昼間、美容室に行った。
トリートメントとカット、前髪を少しだけ流す方向に変えた。
「こっちの方が、目が柔らかく見えると思うんです」
担当のスタイリストの言葉に、うなずきながらも、くろは無言だった。
柔らかく見せたい相手が、明確にひとり、心にいた。
帰り道、ふらりと香水専門店に立ち寄る。
いつもは付けない“バニラ系”の香りを手首にひと吹き。
「あ……」
胸が、きゅっとなる。
彼のスーツに残っていた、微かに感じた“あの子”の匂いに似ていた。
香水瓶を棚に戻し、違う香りを選んだ。
「彼女の匂いに、私は負けたくない」
それは、嫉妬だった。
その夜、ベッドに横たわりながらスマホを握る。
メッセージは送れない。ブロックは、まだ解除されていなかった。
それでも、
「見てくれるかもしれない」
「目が合うかもしれない」
「話しかけてくれるかもしれない」
そんな“もし”ばかりを反芻しながら、
画面の明かりを胸に抱いたまま、目を閉じた。
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金曜日・当日 午前11時。
くろは早めに起きて、シャワーを浴びたあと、バスローブ姿のままドレッサーの前に座った。
いつもなら、深めのリップと目尻を鋭く引き立てるアイライン。
艶の強いアイシャドウで、圧倒的な印象をつくる。
けれど――
その日は、なぜか手が伸びたのはくすみローズのリップ。
ラメは控えめ、チークも頬にふわりと柔らかく入れるだけ。
アイラインは、あえて少しだけ短く、目の輪郭に寄り添うように引いた。
“彼が好きそうな顔”が、ふと頭に浮かんだ。
「あの子……地味で、清楚なタイプって、言ってた」
気づいたときには、すでにメイクが完成していた。
クローゼットの前で、指が止まる。
スリット入りのドレス、背中が大きく開いたもの、レースの透け感が強いもの――
どれも“黒瀬くろ”を象徴する戦闘服だった。
だが、その日は迷った末に手に取ったのは、
袖のある、落ち着いたミルキーホワイトのドレス。
ウエストラインは綺麗に出るが、露出は控えめ。
肩も隠れていて、揺れる布の優しいシルエット。
シンプルなパールのイヤリングだけを合わせて、鏡の前に立った。
「……似合わない」
そう呟いた唇が、わずかに揺れる。
けれど、目が否定しなかった。
「……似合ってるって、あんたに思わせたい」
それが、くろの“本音”だった。
だが、それ以上に彼女が整えたのは、“心の鎧”だった。
「絶対に、惹きつけてみせる」
その“確信”が、同時に一番の恐怖でもあった。
店の扉が開くまで、
くろは何度も、グラスを拭き直した。
その手は、ほんの僅かに、震えていた。