理由なんて、なくていい
三連休前の金曜。
外は雨。社内の空気もやや緩んでいた。
滝沢はスーツのジャケットを片手に、社内カフェのテーブル席に向かう。
その先には、湯気の立つコーヒーを片手に、
淡々と資料に目を通す男――綾瀬理央。
「おつかれー、理央。まだ残ってたの?真面目だねぇ、ほんと」
「……滝沢さん、どうしたんですか。用がないなら早く帰ったほうがいいですよ」
「やだなぁ、ちょっと頼みごとがあってさ。
なぁ、来週の金曜、空いてる?」
「……用件によります」
「いやさ、ちょっと付き合ってほしい店があってさ。銀座。L’Eclipse。
この前も行ったとこ、覚えてる? あの黒瀬くろってホステス、ほら。
あの子のバースデーのあと、またイベントあるんだよ」
理央の手が、資料の上で止まった。
「……行きません。興味ないので」
「えっ、まだ何も言ってないじゃん!理由聞こうよ、ほら!」
滝沢は笑いながら理央の横に座る。
「俺さ、この前からちょっとだけ、くろちゃんと仲良くなっててさ。
あの子、珍しくお前のこと覚えててさ……“また会いたい”って言ってたんだよね。
……ほら、なんかあるじゃん?そういう運命的なやつ?」
「ありません。ていうか、社交辞令でしょう。
彼女は誰にでもそう言いますよ。営業ですから」
「……だよな〜、わかる!わかるけどさ!
俺のメンツのために頼むよ〜。
お前が来てくれたら、マジで場が締まるのよ!
銀座の高級クラブでイケメン後輩連れてるって、俺の評価爆上がりじゃん?」
「滝沢さん……」
理央はため息をついた。
「……俺、静かな店が好きなんです。
音楽が控えめで、人が静かで、グラスの音だけが響くような――
ああいう空間は、落ち着かないんです」
「うん、それ、知ってる。でも“来るだけ”でいい。
酒、無理に飲まなくていい。無理に喋らなくていい。
隣に座ったら、そっぽ向いてていい。
でも、来てくれよ。“お前だから”お願いしてんの」
理央は沈黙した。
長いまつ毛の影が、机の木目に落ちていた。
「……滝沢さんが、そこまで言うなら……一度だけですよ」
「よっっっしゃぁああああ!!!!!」
滝沢は思わずガッツポーズを取った。
「お前、マジで神か!やっぱお前って、デキる男よなぁ……!」
「……そのかわり、二次会やキャバクラのハシゴは断ります」
「わかったわかった!一件だけ!すぐ解散!もう二度と誘わない!
マジでありがとう、理央……惚れた……!」
「……気持ち悪いです」
理央はコーヒーを飲み干して立ち上がった。
滝沢はその背中を見送りながら、
スマホを取り出してメッセージを打ち込む。
“くろちゃん、釣れた。来週、理央、連れてくよ”
その指先に、少しだけ得意げな余韻が残っていた。