プロローグ「黒瀬くろ、という女になるまで」
名前は、黒瀬くろ。
生まれ育ったのは、ごく普通の地方都市。
父は公務員で、母は専業主婦。
成績は常に上位、先生には一目置かれ、
“良い子”と呼ばれて育った。
進学した大学も、それなりに名のある国立。
周りからは、“就職も余裕だろう”って言われてた。
……でも、違った。
わたしには、就職してまで守りたい何かなんて、
ひとつもなかった。
大学4年の冬。
面接に向かうスーツの女の子たちを横目に、
わたしはカフェの窓から外を見ていた。
「……あの子たちは、
“幸せになれる自信”があるから、
ちゃんと働けるんだろうな」
そんな風に、心のどこかで見下しながら、
でも同時に、羨んでいたのかもしれない。
私は昔から、人の“本音”が見えすぎた。
誰かの笑顔の裏にある保身、
好意の中にある下心、
称賛の中にある嫉妬。
全部、透けて見えた。
そして、その全てに――うんざりしてた。
だから、“本当の顔で生きられない社会”に、
飛び込む気になれなかった。
面接の自己PR?
上司との飲み会?
無意味な同調圧力?
そんなの、わたしの人生じゃない。
じゃあ、どう生きるか。
答えは、案外すぐに見つかった。
就職活動を放棄したわたしに、
東京で暮らす従姉が声をかけてくれた。
「うちの街に遊びにおいでよ。
ちょっと面白い世界、見せてあげる」
連れて行かれたのは、
煌びやかなネオンと、静かな緊張感の漂う店。
黒服に案内されて入ったその空間は、
すべてが洗練されていて、
すべてが、わたしを“試すような目”で見ていた。
でも、不思議と――
怖くなかった。
むしろ、懐かしさすらあった。
その夜、わたしは決めた。
「ここでなら、自分の価値を自分で決められる。
誰かに評価されなくても、
誰かの期待に応えなくても、
“あたし”で稼げる」
そう確信した。
従姉の紹介で、最初は小さなラウンジに入った。
うまく笑えなかった。
敬語もぎこちなくて、
“お水の女”にはまるで見えなかった。
でも、誰よりも早く客の“本心”に気づいた。
相手が何を求めてるのか、
どう言えば刺さるのか――
それだけは、誰にも負けなかった。
半年も経たないうちに、
あたしは他店に引き抜かれ、
気づけば“黒瀬くろ”という名が、
夜の街で少しずつ知れ渡るようになっていた。
強気で、挑発的で、
客をあしらい、振り回す。
なのに、なぜか“追われる女”。
それが、“黒瀬くろ”。
でも、本当のわたしは――
その頃、まだどこにもいなかった。
“本名”を捨て、“仮面”をつけ、
心を閉ざして、ただ生き延びてた。
だって、“黒瀬くろ”という仮面じゃないと、
誰にも愛される気がしなかったから。
だけど――
あたしは、この夜に踏み込んだことを
後悔はしていない。
むしろ、ここからすべてが始まった。
壊れて、愛されて、
そして――“本当のくろ”になるための物語が。