ノーマライザ
星間物質探査機が大気圏で事故を起こし、「物質」は地上に降り注いだ。数日をかけて。幸いにも、事故を確認した国際宇宙省の迅速な対応により、「物質」の直接の影響は最小限にとどまった。いや、最小限にしろサヤインゲンにしろ影響が出たことを知っている者はほとんどいない。つまり、たった一人を除いては、事故の前後で日常に何ら大きな変化がなかったし、そのたった一人でさえ、今や事故のことを朧げに記憶するだけである。よってこのありふれた事故は、関係する企業の再発防止マニュアルをほんのりと厚くし、次期プロジェクトの微調整の役に立ったものの、それ以上に人々に記憶されることはなかった。
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彼女に数日のあいだ翼が生えた。
彼女、というのは僕と同じ高校に通い、僕と同じ数学、基礎哲学、英語会話の授業を受けていた、朝庭ツウのことだ。小学生に見紛うほどの背丈だったが、彼女のまなざしは深く鋭く人を貫いたので、僕たち凡人にとって、彼女の小ぶりな一挙手一投足は全て意味ありげに見え、息を吸うたびに何か深謀遠慮なことを言うのではないかと期待させられた。当の本人はそれに無自覚的で、普通の高校生らしく(なんなら少しシャイなふうに)ふるまったので、余計に他の生徒たちとは際立って見えた。
僕は彼女のそういう独特の雰囲気を内心では興味深く、好意的にみていたが、その日まで、凡人たる僕と彼女の接点といえば、たった三つの授業だけだった。
その日の僕は、家で妹と喧嘩したとか、簡単そうな微分の問題に苦戦したとか、詳しくはもう忘れたが、とにかくツイていなかった。むしゃくしゃする、とまではいかずとも、少しく精神が動揺していたので、人の話し声から離れて一人で昼食を食べようと思い、めったに人が訪れない、旧校舎三階のぼろい外階段に向かった。階段が安全でないことは再三の全校集会で周知であったが、辺鄙なところなので、僕を咎める者はいないだろうと踏んだのだ。
さて、この外階段は旧校舎の一階から三階まで上るためのもので、四階へは続いていない。四階は、旧校舎が本校舎であったころからすでに先生も生徒も使わないデッドスペースと化していたらしく、外階段も三階までしか取り付けられなかったというわけだ。
だから、三階の外階段に腰掛けてぼんやり弁当箱を開く僕の上から彼女が降りて来るなんて、あり得ないはずだった。
「……あなた、ときどき隣の席に……えっと、ばら……」
彼女が僕に話しかけていることを認識するまえに、僕は「なぜきみは上から降ってきたんだ」という質問をいったん傍に置いておく必要があった。
「薔薇坂、薔薇坂ケイ。僕のこと、知ってるんだ……朝庭さん」
「うん、いつも順位表載ってるでしょ、頭いいんだなって」
「そう、か」
順位表というのは定期試験の成績上位者の得点を、名前とともに並べたものである。勉強はそれなりにできたので、僕の名前も時々は載せられた。バラザカなんて大怪獣みたいな名字のせいで、他に載せられていた生徒よりも目立っていた。
「何で、その、上から?」
「どういうこと?」
「ええと、つまり、なぜ僕の上から降ってきたの?」
「雪みたいな言いかただね」
雨ではなく雪と言っていたのをよく覚えている。
彼女はひらりと舞うように僕に背中を向けて、こう言い放った。
「ほら、翼」
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星間物質探査機が大気圏で燃え尽きること自体はよくあることだった。事故といっても、自動車事故よりずっとマシな事故だ。あわれ探査機たちは、運が良ければ星間物質を持ち帰るかもしれない、という程度のモチベーションで毎度打ち上げられていたのだ(今でもそのきらいはあって、そのくせコストがかかるので、某国の大統領は探査の予算を打ち切ったそうだ。科学万歳)。あの日その探査機が採取してきた「物質」は、他の星間物質同様、熱に頗る強い性質を持っていたので、探査機が儚くも塵芥に帰したのちにも、「物質」としての組成を崩さぬまま地表に降り注いだのである。
「物質」は従前の探査で得られた他の星間物質とまったく同じであると研究結果は示している。まったく同じ……この結果を覆す(異議を唱える)ことができるのは、きっと彼女と僕だけだ。
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「さっき、ほんとにさっきね、私の背中からこれが生えたの」
彼女の小さな背中には似つかわしくない大きな翼が、なぜだか制服を突き破ることなく生えているのを、僕は、はじめは恐る恐る、段々と前のめりになって観察した。
ピロン、と携帯端末が音を鳴らす。通知をオンにしているニュースアカウントが速報を出したらしい。一瞬彼女の背中から目を逸らし、表示された通知を見た。
<<探査機、またも事故 地球への影響はゼロか>>
見出しだけ確認して、すぐに彼女の背中へと視線を移す。
すこし間を開けたせいで沈黙が訪れた。正直に言って、僕は彼女のことが好きだったから、うまく話を継げなかったせいでもある。他の男子生徒や、女子だって彼女を大なり小なり好いていたが、僕はそういう意味ではなく、……彼女に恋をしていた。同じ授業のときにはなるだけ隣の席に座ってみて、何かを期待しては何も起きないのを憂えた。
だからこそ、彼女が僕を認知していることが判明したからには、何かしら上手くコトを運んで仲良くなりたかったが、目の前の「翼」はそれを許さなかった。
「……えっと、翼が生えててさ、上から降ってきたってことは、飛べるわけ?」
「うん」
言うが早いか、彼女は羽ばたき、旧校舎四階の窓にタッチして帰って来た。
「すごいでしょ」
「あ、ああ」
普段は大人しく授業を受け、友人と笑い合うときもひかえめな彼女にしては、自信や誇りたっぷりな言い方だった。かわいいと思いつつ、それを表には出さないようにして、質問を続ける。
「飛び方、みたいなのは分かるのか?」
「……なんて言うか、生えた瞬間にね、飛べるって確信したの。電気が流れるみたいに」
「へぇ」
「それで試しに飛んだら、そのへんの鳩より上手に飛べちゃって、空から旧校舎が見えたから、行ってみよーって」
「それで今に至ると」
「そういうこと、……っ」
高揚しているのを見せたのが恥ずかしかったのか、頬を赤く染めてまた静かになってしまった。人を妙に惹きつける目と、それがもたらす総合的な気高さこそが彼女の魅力だと思っていたが、実際に話してみると、かわいい、という表現がしっくり来るタイプの女の子だ。確かに友達と話しているときの彼女はどこかあどけなく見えた。話させるとかわいさが溢れるのかもしれない。
「……というか、しまえるのか、それ? 制服はなぜかすり抜けてるみたいだけど」
「わかんない」
「しまえなきゃ、午後の授業に支障が出るだろ」
「だよねぇ……」
すると、翼はするすると小さくなり、彼女の背中にはただ背中だけになった。
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星間物質研究の第一人者であるリュウ博士によれば、この「物質」は従前研究されてきた星間物質とまったく同じである。性質としても、人間をはじめ生物に与える影響は少ないと見られる。したがって通常の探査機の燃え尽き事故同様の対応で構わない云々。
翼の生えた少女と「物質」の関係を論じる学者は、今なお存在しない。彼女に翼が生えていたことは、彼女と僕しか知らないから、論じようがない。ただ、僕たちだけは、「翼」は「物質」の影響でもたらされたのだと、確信している。彼女が確信しているのだから、僕も確信するのだ。
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「なんでそんなもん生えたんだろうな」
答えが返ってくるとは思わないで彼女に尋ねた。彼女自身、突然翼が生えてすぐにここまで飛んだと言っていたのだから、その原因を調べるヒマなんかない。そもそも何をどう調べれば人に翼が生える原因を突き止められるというのだろう。
しかし、彼女は明朗に答えて見せた。
「星間物質のせいだと思う」
「は? セイ、星間物質、か?」
「うん」
僕が星間物質について詳しくなるのはこの日以降のことで、当時はしょっちゅう失敗している宇宙実験のロマンとしか捉えていなかった。それが突然彼女の口から飛び出すと、日常と非日常の(あったはずの)境界が一気に溶け出すように思われた。
「翼が生えたときに、地球のものではないなって、なぜか分かったの。理屈じゃない。ごめんね、うまく
言えないんだけど、星間物質が、私に翼をくれた」
「……さっきからそれ多いな。飛び方も、なぜか分かったんだろ?」
「でも、そうなの。自分でも不思議な感覚」
彼女はいつもの、僕が元々彼女に抱いていたイメージ通りの、独特な、少し人間離れした雰囲気を纏い始めた。さっきまでかわいいと思っていたことを忘れそうになるほど、彼女と星間物質と翼からなる三角形は荒唐無稽だった。しかし彼女の強いまなざしにふさわしい図形だった。そのまなざしは、彼女の言葉の一つ一つに魔法をかけ、説得力を強大ならしめた。彼女の説明の根拠は彼女の確信だけであり、薄弱もいいところであったが、堂々とした佇まいに半ば気圧されて、次第に僕も彼女の支持者になっていった。
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僕たちは一度、「物質」と「翼」についてレポートをまとめたことがある。二人とも大学生で、付き合い始めて三年が経ったころに、まず彼女が言い出したのだ。「なんだか最近、翼があったころのことを忘れそうになるの」と不安そうな顔で告げられたから、思い出せるかぎり記録してみようと提案した。
彼女に翼が生えていたのは数日、記憶が持ったのは数年で、いまはもうほとんど覚えていない。そのギリギリのタイミングで、「翼」の記録は始まった。同時に、「物質」をはじめとする星間物質についての勉強も進めた。
不思議なことに、「翼」のことを忘れれば忘れるほど、彼女の背は標準的な成人女性のそれに近づいて伸びた。そして、彼女の人間離れした魅力も、薄れていった。
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「翼」にまつわる話は旧校舎三階の外階段でしようと決め、昼休みにあれこれ話すようになった。といっても、「翼」とは関係のない雑談で盛り上がることのほうが多かった。僕は彼女の話を聞くのが好きだったし、彼女に僕の話をするのも嫌ではなかったから、心地よかった。彼女の方も、同じように感じていたらしかった。今思えば、会話らしい会話をし始めたばかりの高校生の男女が、昼休みの短い時間だけで、これほど談笑できたというのも、彼女の不思議な性質のおかげだったのかもしれない。少なくとも、僕は平凡な小市民だから。
三日ほど経ち、大人しい彼女らしくない朗らかな調子で、彼女はこう言った。
「ねぇ、明日さ、私の背中に乗って飛んでみようよ」
「は? マジで言ってる?」
などと言いつつも、僕は本心では、彼女の力で空を飛べるのではないかと思っていたので、この提案にはさすがに喜んだ。午後の授業には身が入らなかったし、翌日が楽しみで眠れなかった。
ということで土曜日。
僕は人生で初めて、かつ最後に、空を飛んだ。もちろん飛行機やロケットに乗ることは以降たくさんあるのだが、こんなふうに滞空し滑空し旋回し……を、女の子の背中でやるなんて経験は、後にも先にもたった一度きりだった。
「あーっ、楽しかった」
「楽しかった、マジで」
「飛ぶの、気持ちいいでしょ」
「ほんとに、僕たち、飛んだんだな」
「また乗せてあげよっか」
「小さい背中でよくやるよ」
「ふふ」
「次は、あっちのほうまで行こう」
「街にしようよ。夜の街は綺麗だよ。薔薇坂くんは……」
「ケイでいい」
「じゃあ、ケイ……くんは、さ、夜景好き?」
「……普通。……ツウは?」
「私は、夜景、好きだな…………」
明くる日曜日の朝には彼女は飛べなくなった、というのを月曜日に聞かされた。彼女はひどく残念そうだった。まるで、肉親の死を聞かされた幼子のようだった。
それから卒業するまで、彼女は、あのまなざしで独特な雰囲気を醸し、でも親しい友人と話し始めるとかわいらしく、大人しい小柄な女子ながら、人気の生徒であり続けた。僕と仲良くなったことだけが、彼女に起きた変化だった。朝庭ツウへの僕の恋が実るのはもう少し先のことだが、そういう関係にならずとも、僕たちは親交を深め、同じ大学への進学を目指して勉強するまでになった。……僕はそのことが誇らしかった。凡人たる僕が、非凡な彼女と同じ時間を過ごすこと、「翼」という秘密を持つこと……。僕まで特別な何かになれたような気がした。
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不思議な魅力を徐々に失い、普通の人になった彼女を見て、僕はレポートを書くのを止めた。彼女も反対しなかった。それから二年ほど付き合ったあと、僕の方から別れを切り出した。
ひとつ言っておきたいのは、彼女が特別でなくなったから、尋常ならざる魅力を失ったから、彼女への想いも冷めた、ということでは断じてないということだ。確かにそれらは少し残念だったけれど。
カップルにありがちなすれ違いの重なりや、大学卒業後のそれぞれの生活の違いといったありふれた原因が、ありふれた別れに繋がった、ただそれだけのことだ。彼女のことは今でもかわいいと、思う。
その後も時々連絡を取ることはあったが、会うことはついになかった。
思うに、彼女は普通の人とは違ったのだ。たぶん、雰囲気とか魅力とか外見とかそういう次元ではなく、もっと根深いところから、人間とは違っていた。
「物質」の正体は、彼女を、朝庭ツウを普通の平凡な人間にする成分を含んだ、特殊の星間物質である。それは「翼」という副産物をもたらしもしたが、あまりに幼い彼女の外見や、人を惹きつけ過ぎる眼力とオーラを、徐々に「矯正」したのだ。
なぜそんな代物が宇宙にあったのか、なぜ彼女は普通の人間ではなかったのか、なぜ彼女を平凡な人間にしたのか、彼女以外への影響は本当になかったのか、なぜ「翼」をもたらしたのか、「翼」以外のものではいけなかったのか……、疑問は尽きない。しかし、彼女が「翼」を得たのと同時になしたという確信をそのまま信用するならば、彼女と「物質」と「翼」の因果関係を一応、一応、いちおう、説明できるし、また逆に、その因果関係を成り立たせ得べき他の原因に心当たりもない。ずいぶんと都合の良い物質があるものだと思う。彼女を普通の人間にするための物質が、あろうことかこの地球の外にあるだなんて、にわかには信じがたい。
しかし考えてみれば、自らに不可欠のものが自らに備わっていないことは、珍しくもないことだ。例えば、いわゆる必須アミノ酸は、僕たちがタンパク質を正常に合成するために、生きるために「必須」だが、なぜだか体外から摂取するしかない。
彼女が平凡になったこと。
いつか僕に必要な何かが突然に降って来ることも、あるいは……