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名も知らない、君のことを。

 朝に相応しくない金属の軋む音がした。カーブに差し掛かった合図である。ここを乗り越えればやがて減速し、この電車は木々に囲まれた木畑(きばた)駅に着く。僕は読んでいた文庫本に栞を挟んで、それを閉じて隣の席に置いていた鞄にしまった。もう九月も終わるからだろうか、山々を形成する木々の葉も半分以上が色づいている。


 高校の最寄り駅まではあと四駅ほどだ。といっても、都会の四駅と田舎の四駅はまるで違う。酷ければ、一駅間に10分くらいかかることもある。例に漏れずこの路線はそれに(なら)ってしまっている。したがって、僕はまだ時間を持て余す。


 では何故本を閉じたのか。田舎特有の四人席、そこに座る僕から見て右手の窓。


「……」


 その窓の外に問いの答えとなる人物が座っていた。いつも同じ席で、本を読んでいる女の子。夏休み前からだろうか、気付いたら名も知らぬ彼女のことを見つめることが日課になってしまっていた。


 セミロングの黒髪。それに合わせたような細い黒縁のメガネ。一言で言うなら失礼だが地味である。しかし、ただ一人、本を読みながらいずれやってくる電車を待つ彼女、という図はずっと見ていたくなるほど、景色として、一枚の()として完成されていた。


 駅のホームは吹き抜けになっているので、時折風が吹いて彼女の綺麗な黒髪を揺らす。


 窓際に頬杖をついて、ぼーっと見続けて、時折自分の足元に視線を逸らして。気持ち悪がられやしないか、と最初の方こそ思ったが、彼女はずっと本に視点を向けているため、こちらに気づかない。それが嬉しくも悲しくもあった。


 やがて、ベルが電車内、ひいては駅に響き渡って、唯一開かれていた一両目の前方のドアが閉まり、再び列車は動き出した。その絵はゆっくりと離れていき、やがて遥か遠く。僕は本を開いて栞を取り、またその世界にのめり込んだ。



×



 翌日。今日も今日とて、金切音の合図で本に栞を挟んだ。窓から見える景色はやがて、その絵に近づいていく。


 電車の到着とともにその艶のある黒髪が、高気圧だとか低気圧だとか関係のない、電車による人為的な風に(なび)いた。彼女は一瞬目を瞑ったが、少し崩れた前髪を手で直したのち、再び紙面上の文字列に視点を落とす。紅葉した木々が落とした木の葉が彼女の足元に運ばれてきた。


 彼女はそこで顔を横に向けて、口に手を当てて小さく(くしゃみ)をした。窓枠に切り取られたその景色は、競売(オークション)にかけられたならきっと、僕は有り金を全部(はた)いて勝負に出てしまうだろう。


 こうして見惚れている間に、時計は都合数十秒の時を刻んでいたらしい。ベルが鳴って、機械的な音を立ててドアが閉まった。電車はこの空間だけを世界から隔てて切り取って、森林の中を、奥に、奥に。



×



 時は少し流れ、制服の下にセーターを着るようになった。薄暗い窓の外の朝ぼらけの地面は所々白に染まっていた。今日は大雪が降るかもしれないと朝の情報番組でやっていた。電車の頭上にはその理由たらしめる寒空が、夢の中で見る海のようにどこまでも広がっていた。


 しかし、冬になろうとその()()は変わろうはずもない。金属が軋む音、本を閉じる。いや、本は既に別のものに変わっているが。


 そうして絵に近づいていく。ど田舎なのと、午前7時前の電車という理由も相まって、駅と電車は閑散としている。電車内には僕含め十数人。駅には彼女ただ一人しかいない。


 彼女は防寒対策を怠っていなかった。赤と黒のチェックのマフラーを首に巻いて、脚には黒いタイツを履いていた。身震いするような寒さの中で一人電車を待つその姿には哀愁があった。


 僕はため息をついた。そんな彼女のことを好きになりつつ……いや、もう好きになっていたからである。元々は綺麗な一枚の絵として、その景色を見ていた。彼女はその絵の、いわば主人公であり、観客(ぼく)からすれば作品を構成する一要素に過ぎなかった。しかし、見続けるうちに、名も知らない彼女に恋心を抱くようになった。本を閉じるその癖に、別の意味が宿ったのだ。


 生憎僕は愚直にそれを伝えられるような人間性を持ち合わせていない。持ち合わせていたなら恋心を自覚したその日にとっとと話しかけて連絡先を交換しているのだ。


 話しかけたいのに、立ち上がる勇気がどうにももてなかった。椅子と僕との間にべっとりと接着剤がつけられたかのようだった。僕の脳裏には好きという二文字が彫刻刀のようなものでごりごりと刻まれていた。


 見つめる先には彼女がいるのに、今日も今日とてベルが鳴って、電車はゆっくりと、(おもむろ)に、僕をどこか遠い世界へさらうかのように動き出した。


 僕は一人、今日も握り拳を作って太ももを軽く叩いた。



×



 その日の夕方。帰りの電車を高校の最寄駅である川州(かわす)駅で待っていた。予報通り大雪であった。昼下がりの底が白くなった、と文豪の小説の一節を拝借してこの有様を表現してみる。


 大雪といえど、電車が止まるほどではなかった。少しダイヤの乱れはあったが、数分程度だった。


 待つうちに、僕の乗る方向とは反対の電車がやってきた。少し遠くでそいつが馬の(いなな)きような音をあげた。興味など湧くはずもない、僕とは一切関係のない電車。


 しかし、それがホームへやってくると同時、僕は興味を持たざるを得なくなった。


「……!」


 二両目の窓に君がいたのだ。朝と同じマフラーを巻いて、何かの本を読んでいた。僕はそれを脇目も振らず見続けた。まさかこんなところで会うとは思わなかったからだ。


 すると、彼女は本から目を逸らして大きく伸びをしたあと、こちらを見てきた。今まで合うことのなかった視線が数秒間、確かに交わされた。彼女は目を見開いて、驚いたような表情をしたのち、思案するような素振りを見せた。


 何をしているのだろうと思いつつその先を促すように見続けていると、彼女は窓ガラスの結露に指で文字を書き始めた。


 そこに書かれたのは、単純明快な四文字だった。


『すきです』


 窓の向こうにいる人にわかるように、わざわざ鏡文字で書かれていた。僕らは電車と地面との間がずれていくまで、見つめあっていた。


 そうして電車が見えなくなるまで、僕はぼーっとしていた。思考回路の電源が大雪のせいで停電してしまったらしい。自分が乗り込む列車が轟音を立てて到着するまで、何も考えずに座り込んでしまっていた。否、考えられなかった。


 そこで、途切れていた思考回路に電源がついて、(ようや)く僕は考えることを再開できた。その四文字の意味するところ、それは即ち、僕以外の人間に向けたメッセージだとかいう勘違いがなければ、彼女は僕に好意を向けている。


 それを自覚した瞬間、浮遊感が僕を襲った。ふわふわとした心持ちになった。自覚したはずなのに実感はいつまで経っても湧かなかった。


 その日はどうやって帰ったのか、まるで覚えちゃいない。



×



 朝に相応しくない金属の軋む音がした。カーブに差し掛かった合図である。普段ならここで、文庫本に栞を挟んでその絵の鑑賞会と洒落込むわけだが、僕はまだ本を読み続けていた。


 木畑駅に着くと、僕は本を鞄にしまってその電車を降りた。


 朝はまだ夜闇を名残惜しく思って手離していなかった。薄曇りの空、まだ溶け損ねた雪の残る地面。僕は一本早い電車に乗っていた。


 僕は普段彼女が座る席の右隣に腰掛けて、再び本を開いた。僕は彼女を待つことにした。こうするしか会う手段はなかったから。


 勘違いだったらどうしようか、とか、今日は彼女は来ないかもしれない、なんて理由をつけて、普段なら剥がせないはずの、尻と椅子とにべっとりとついた接着剤を容易に剥がして退散しようかとも思った。弱気で、及び腰な人間性をしているから、こうした考えは次から次へと脳内に湧いて出てきた。



×



 そのうち雪が降ってきた。30分くらいは経った頃だろうか。僕は寒さ故か、はたまた武者震いか、とにかく体を震わせた。そうして、ため息を白く、都合氷点下の空間に溶かした。


「……あ、あの!」


 その時、僕以外の人間の声がホームに響いた。僕は案外落ち着いて、(おもむろ)にその声の方へ振り返った。ついにその時が来たと思った。


 そこには彼女がいた。つい昨日、窓にすきですと一言書いて、僕の心をぐっちゃぐちゃに、喜びと困惑とでないまぜにした彼女がいた。彼女は顔を少し赤くして、それでいてどこか覚悟を決めたような表情をしていた。


「え、えっと……」


 僕は精一杯頭を回転させた。しかし空回りに終わった。脳内の言葉の海の上で船を漕げど漕げど、流れ着く先に待ち受けるその数々は、ガラクタという言葉が役不足になるほど役に立たなかった。


「……昨日、私が書いた……それについてなんですけど……」


 彼女は目を逸らして、マフラーを手で掴んだ。僕と同じように、彼女もまた、言葉に詰まっているようだった。


 寒風がホームに荒々しく吹きつけた。寒さはより一層深さを帯びた。僕らの間に居座った沈黙はそれで破られた。


「……ごめんなさい。気持ち悪かったですよね」


「……!」


 彼女はそう言って頭を下げた。僕はすぐさま否定しようとしたが、彼女が続けるからタイミングを見失って、聞かざるを得なくなった。


「……気づいてなかったかもしれないですけど、朝、電車の中にいる貴方をずっと……夏頃から、かな。見てたんです。見てるうちに、好きになっちゃったんです」


 彼女の口から告げられる思いの丈は、僕の心をスッと軽くした。勘違いじゃないことが証明されたからである。それはそれとして彼女に見られていたのは気がつかなかった。


 つまるところ僕らは同じだった、互いを何気なく見ているうちに、互いを好きになっていた。およそ数十秒のその時間を使って、来る日も来る日も思いを募らせ続けたのだ。


「それで……中々伝える機会もなくて……昨日はたまたま貴方を見つけて……目があったから、もしかして……って、思って」


 彼女はすぐにでも泣きそうな表情を、声をしていた。独白に時折挟まれる空白は、僕の心にそれを訴えかけた。


「……だから、気持ち悪く思ったならごめんなさい。もう二度と、貴方に近づかないので……」


「待って」


「……え?」


 そこで漸く僕はタイミングを掴んだ。いつものように、文庫本に栞を挟むかのように、彼女の発言を遮った。


「僕からも、いいかな」


「……」


 彼女は声を発さず、首肯して僕の発言を促した。再度、風がホームを揺らして、僕らの間の沈黙を取っ払った。


 僕は咳払いをしたのち、声を出した。


「……実はさ、窓枠の中から、君をずっと見てたんだ」


「……え、え?」


 そう切り出すと、彼女の暗かった表情が徐々に明るくなっていった。僕はそれを見て、結論を先に言った方がいいと思って、告げることにした。


「単刀直入に言います。好きです。付き合ってください」


「ほ、本当に……?いいの?」


 彼女の目から、安堵の涙がこぼれ落ちる。凍ることなく頬を伝って、そしてぽつりと地面に落ちた。


「これから、よろしくお願いします」


 僕は深々と頭を下げた。


「……よろしく!」


 彼女は泣き笑いで僕の思いを受け入れてくれた。



×



 僕と彼女は横並びで椅子に腰掛けた。電車が来るまでの間の数十分をこうして過ごすことになった。


「……そういえば、名前を互いに知らないよね」


「あ、そういえば……そうですね……」


 僕らは目を合わせて、笑い合った。名前も知らない相手に告白し合って、それで付き合うことになった、なんてとんだ笑い話である。


 僕は一頻り笑ったのち、自己紹介をする。


榎崎(えのさき)(はじめ)川州北橋(かわすきたばし)高校の一年生です」


(くぬぎ)涼莉(すずり)狛崎(こまさき)農業高校一年……です」


 涼莉もそれに倣って、自身の名と高校名を言った。


 手先が冷えたのか、椚さんは両手を口元に運んで吐息を吹きかけた。僕はそれを見て少し考えた。この行動が気持ち悪がられないか思案したのだ。


「……手……繋ぐ?」


「……!う、うん!」


 僕の左手と、彼女の右手が重なった。温もりがそこに宿って、寒さを一切寄せ付けなかった。


 しかし、その時間は僅かで終わりを告げた。僕が普段乗る電車が遠くに見えたのだ。あれに乗らなければ僕は高校に遅刻する羽目になってしまう。


「……あー、続きはまた今度かな」


「つ、づき……」


「え……あ」


 何気なく続き、と言ったが、そういう意味に取られかねないことに気がつかなかった。慌てて僕は訂正しようとして、そして混乱に陥った。


「続きってのはそういうあれじゃなくて……また会おうねっていう……あー、そうだ連絡先交換しとかなきゃ」


 話途中のまた会うで思い出した。僕らは互いの連絡先を知らない。これでは次いつどこで会うかを取り決めることができない。続きの件に関しては有耶無耶にしてしまった。


 何一つスムーズにできなかったが、これが等身大の僕だ。スマートでも気が効くわけでもない、不器用な人間だ。治せるものでもないから、すっかり諦めてしまっている。


「……ふふっ」


「え?」


 スマホを取り出そうともたもたしていると、椚さんに笑われた。笑顔を可愛いと思ったのは内緒だ。


「あ、いや、ごめんなさい……側から見てるととてもしっかりしてそうなのに、案外抜けてるところもあるんだな、って」


「……今流行りの蛙化現象になっちゃいました?」


「全然。第一、好きな人の少しダメなところを見ただけで覚めるなんて、その人の方がおかしいんですよ。私は、貴方のそういうところもひっくるめて、好きなんです」


 その言葉は僕の胸にスッと入り込んで、劣等感を優しく溶かしていった。うじうじしている自分を好いてくれることが、こんなにも嬉しいなんて。


 彼女は僕とは違って、スマホを出して友達追加の画面を出すまでスムーズだった。こうして僕らは互いの連絡先を手に入れた。試しにスタンプを送ってみると、返信が返ってきた。


 僕はその画面を見て微笑みつつ、繋がれた左手をするりと解いた。


「……じゃあ、また連絡するね」


「……はい、待ってます」


 電車がホームにやってきて、一両目、前側の扉が開いた。乗り込む直前、


「今日はありがとう、肇くん……!」


 背後から感謝の言葉が聞こえた。名前を呼ばれて胸が一際高鳴った。


「こちらこそ!」


 とだけ返して、僕は電車に乗り込んだ。いつも座って彼女を見ていた席は一両目の後方にあるが、わざわざそこまで移動する理由もないので手近な座席に腰掛けた。


 やがてドアが閉まって、電車は動き出した。その絵からは離れていく。僕らはお互いが見えなくなるまで手を振り続けていた。


 不意に、その振っていた左手を見た。まだ、彼女の温もりがそこに宿っているような気がした。その温もりを寒空に奪われるのは癪だから、ポケットに入れた。


 僕は心を躍らせつつ、また文庫本を開いて。この電車は銀世界の中を、奥に、奥に。

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