死ねばいいのに
自分が理系だとは思わないけど、数学の授業は好きだ。
日本史や現代文と違って明確な答えがあって、それ以外を考える必要がない。最初から答えがあると分かっている。それがいい。
六時間目は数学の授業だった。滑舌の悪い新人の教師がチョークコンパスで円を描くのに苦戦している。くすくすと聞こえる笑い声に、教師も愛想笑いしていた。
「なぁウッチー、さっきの問題解けた?」
隣の梅田が声を潜めて訊いてくる。
「いや、まったく」
ノートを傾けて見せる。
好きと得意は別物だ。僕は数学が好きだけど、解けるとは言っていない。
「うへぇ、問題どころかなんも書いてないじゃんか」
「今日はそんな気分なんだよ」
「相変わらず変なウッチー」
ようやく円を描き終えたらしく、歓声が上がった。
空々しい拍手を聞き流しながら、窓の縁にもたれ掛かってぼんやりと外を見やる。
それから天井を見た。そういえば彼女も一組だった。それならこの真上だ。
昔なにかで、上の階から糸を垂らして紙で会話しているのを見たことがある。アニメだったか漫画だったか。僕の元にも落ちてこないだろうかと手を出してみた。
「お」
消しゴムが落ちてきた。ちょうど手の中にポトリと収まる。
四つ角が残った尻を見ると、柳川と書いてあった。
「なにしてんの?」
「天からの授かりものが届いた。あとで返しに行かないと」
「空飛んで?」
「翼が溶けるから今日は無理かな。明日って曇りだっけ?」
「知らね。ウッチー見た目からして熱いの苦手そうだもんな」
「夏生まれなのにね」
放課後に天からの使いが来るからそこで返そう。
「なぁウッチー、放課後空いてる? 朝日誘ってカラオケ行かね?」
「ごめん、先約があるんだ」
「マジ? 最近放課後連れねーなー。彼女でもできたん?」
「内田彼女いるの!?」
苦労の末に完成された円が虚しくも役目を果たさぬまま日直に消されることになった六時間目を終え、筆記具とクリアファイルだけが入ったカバンを肩にかける。
内田との雑談を切り上げて教室を出ようと思ったら、朝日が割り込んできた。
「誰? 同じクラス? 後輩? 先輩……は似合わないなぁ。写真ないの?」
「残念ながら。あと彼女じゃないよ」
えー、と大して思ってなさそうな、残念そうな声で朝日が唇を尖らせた。
「それじゃ」
「ばいばーい」
「たまには俺らにも付き合えよー」
「うん。また明日」
「あ、こんにちは先輩」
「やあ」
相変わらず埃っぽい空き教室。先に来ていた彼女は座って本を読んでいた。前から読んでいる同じ本で、背表紙に学校の図書室のラベルが貼ってある。借り物のようだ。
適当に椅子を引いて座る。カバンを机の上に放り投げようとして、やめた。
「これ、君のだよね」
天からの授かりもの、基、消しゴム。
「あ……そうです。でも、なんで先輩が?」
「意味なく空を見上げていたら、意味が降ってきたんだ」
「は、はぁ……拾ってくれてありがとうございます」
「どうぞ。君も大変そうだね」
「いえ……」
本を閉じて受け取り、いそいそとカバンにしまった。
彼女は再び本を読み出し、僕はぼーっとカーテンの隙間から差し込む光を見ていた。
この時間、特になにか決まったことをするわけではない。今お互いがこうしているように、好きに時間を過ごして、たまに他愛無い会話をして、適当な時間に帰る。
「それ、面白い?」
「あ、はい。お気に入りの小説です」
「どんな話?」
「ええとですね……寿命僅かな病気の女の子がいて、その子にそのことを唯一知ってる主人公が、女の子の残りの人生を一緒に謳歌する話です」
映画にもなってるみたいですよ、彼女は教えてくれた。
ふむ、分からん。受動的な生き方は羨ましい。
「先輩は、本読まないんですか?」
「そうだね。読まないかな」
「活字が苦手、とか?」
「そうじゃないかな。どちらかというと、物語が苦手なんだ」
くてんと彼女の首が横に曲がる。頭の上で一緒に、はてなマークも横を向いていた。
「物語を読んでいると、必ず現実に引き戻される瞬間ってあるでしょ」
目の疲れとか、章区切りとか。理由はなんでもいい。三時の時計が目に入って、無性に甘いものが食べたくなったとかでも。そういうところで、本の世界から現実に意識が戻される瞬間が必ずあるはずだ。
「そういうときに思っちゃうんだ。死ねば物語は終わるんだろうな、って」
主人公が、もしくは物語の問題を抱えているヒロインが、死ねばそこで話は終わる。
解決、ではないだろうけど、解消はできる。その物語の続く理由はなくなるだろう。
死は全ての問題に対して有効で、無条件に取れる手段だから。
「問題が提示された時点で、今すぐ問題を解消できる方法があるのにって思うと、その後に長々と続く面倒くさい苦難とかを読む気になれないんだ」
決して小説の内容が悪い、と言いたいわけではない。これは相性の問題だ。
作られた物語に別の道筋を思い浮かべてしまう。駄作にさえなれない簡潔で捻りのないifを考えてしまう。作者への冒涜と言われても仕方がない。
だから僕は本を読まない。そうなったのは中学に上がる前だったろうか。ふと読んだ本に対してそう思って、どんな物語を目にしてもそう思うようになってしまった。
「でも、そういう考え方だと、先輩の人生ってなにも楽しみがなさそうです」
「というと?」
「死ねばすべてどうでもよくなるって考え方なら、なにをしても意味がなくなってしまいます。美味しいものを食べるのも、ゲームをするのも、死んだらすべて無駄になってしまうなら最初からしないのと変わりない。そういうことになりませんか」
それは所謂、虚無主義、ってやつだろう。
「ちょっと違うかな。別に僕は人生に意味がないとは思ってないんだ。でも君がいう、意味、ってものが僕の人生にあるとしたら、それは小説みたいな遅効性の幸福より、即効性の幸福がほとんどだろうね」
「ええと、つまり……?」
「時間をかけて積み重ねたものに感じる達成感とかより、その場ですぐ感じられるお手軽な充実の方が好きってこと。スポーツでたくさん練習して上手くなるより、ケーキを食べて食欲を満たす方がいいんだ」
なるほどです、ようやく彼女は納得してくれたようだ。
「でも先輩って、死にたいんじゃなかったんですか?」
「いきなりすごいこと言うなぁ君」
「自殺にやけに詳しかったり、前に死んでもいい派とか言ってましたし」
よく覚えていらっしゃる。けど違う。
「僕は別に死にたいんじゃなくて、死んでもいいって思ってるだけだよ。死にたいって意思があるんじゃなくて、死ぬことを人生の選択肢の一つとして認めてるだけ」
「じゃあなんであんな自殺の知識を?」
「事前準備さ。いざ死にたいってときに知識をかき集めてるんじゃ、途中で気が変わっちゃうかもしれないからね」
バタバタと慌ただしい最期は締まらなくて嫌だ。
「なんか難しいです」
「単純なことだよ、もしなにか嫌なことがあったら、死んで解決すればいい。死ぬって手段だけは人類皆平等だから。もし死ぬって選択肢がない世界だったら、今頃のうのうと生きてなんかいられないよ」
必死に逃げ道を探して、見つからなくて、頭抱え込んで発狂してたところだ。
「でも、のめり込める趣味があるのは少し羨ましいかな」
「先輩はないんですか?」
「うん、ないね。ふと思いついたときに手を伸ばす程度のものはあるかもしれないけど、なにか趣味は、って言われたら、特に思い浮かばない」
強いて言えば、暇つぶしという行為自体が趣味かもしれない。
「なにかこれがやりたい、ってものとかは?」
「色々あるね」
誰かが話していたゲームをやってみたいとか、テレビ番組で出てきたラーメンを食べてみたいとか。誰しもが抱く感情を、興味を持つことは、あるにはある。
けど、そのほとんどはできないまま僕の中から消えていく。
「人ってさ、無理なことこそやりたいって感じるんだと思うんだよ」
手の届かない場所にあるものこそ欲しくなる。
身の丈に合わないものほど憧れる。
手に入らないと思うと余計に手に入れたくなる。
人間ってのは、そういう生き物なんだと思う。
「でも、僕の中にあるやりたいことって、大抵できちゃうんだよ」
僕の中には無理難題を叶えたいと思う欲がない。
叶わない願いというものを抱いたことがない。
欲するものはなんとかすれば手に入って、やりたいことはなんだかんだできてしまう。
電車に乗って店に赴けば食べたかったラーメンが食べられて。家電量販店に行けば欲しかったゲームが買えてしまう。
叶ってしまう。満たされてしまう。僕っていう人間はなんともお安くできているらしい。
最初はそれで満足していた。けれど、いつからか、
「叶っちゃうなら別にいいかなって、やる前から飽きちゃうんだ」
僕なんかが大した努力もせずに手に入れられるものなら。そう思うとやりたいことの価値がなくなっていくような気がして、いつのまにか欲が消えてしまう。
「あとは、死んでみたい、とかもね」
そのワードには敏感らしい。常に俯きがちな彼女の顔が上がる。
「別に死にたい理由があるわけじゃなくて、単に死んだらどうなるのか気になっただけ」
その願いも、いつかは叶えられてしまう。
このままのうのうと生き続けて年老いれば死ぬ。
もし僕がなにかやらかして、逃げるために死ぬことだってあるだろう。
結局、僕が生きた末に死を体験できるなら、急いですることもない。
そういう意味でも、僕は死にたいわけじゃない。ただ、死んでもいいだけだ。
「よく、わからないです」
そうだろう。僕だって、何に対してはどう思って、何に対してはどう思うのか、その基準がよくわかっていないんだから。まとまっていない話は理解できなくて当然だ。
「今日はそろそろ帰ろうか」
射し込んでくる光の色は、いつの間にか白から橙へと変わっていた。




