ある亡命フランス人の話(現在の国籍は日本人)
趣味で書いているので温かい目で見守ってください。
ある亡命フランス人の話(記録1955年)
インタビュアー→イ 亡命フランス人→亡仏
イ ではインタビューをしていいですか?
亡仏 ええ、いいですよどんな話でも
イ ではまず聞きますがあなたはどんな事情で日本に亡命したんですか?
亡仏 私の父親がフランスの名の知れた資本家でね、政府が崩壊して以降治安など含めて最悪な状況だったフランスに命の危険を持った父親は亡命をする事を決意するんです。
イ 名の知れた資本家と言うと資本家の中で一番労働者に優しかった資本家でいいですか?
亡仏 そうですね。自分の父親は雇ってた労働者の問題を解決したり、お金を貸したりと他の資本家と全然違いましたね。とは言ってもその優しさは会社と自分の利益の為にやったことと思いますよ。
イ 雇ってた労働者も一緒に亡命したのにですか?
亡仏 信頼できるのがその雇った労働者だからだと思いますよ。信頼できる人と一緒ならその人は安心できるので。
イ そうですか。それでもあなたの父親は労働者に優しかったのは事実でしょ?
亡仏 事実ですね。
イ では話を変えますね。何故あなたの父親はこの日本に亡命することを決めたんですか?
亡仏 自分の父親は最初ドイツ、イギリス、アメリカそして日本と、4つの中から決めようとしてました。
で、父親はドイツは弟が戦争でドイツ人に殺されたから無理で、イギリスはフランスと犬猿の仲みたいな感じで受け入れる訳がないと父親は言って駄目で、アメリカは色んな意味でマフィアなど、治安や経済状況が悪化していたので絶対無理と言ってました。
そして消去法で日本に決まりました。
イ まぁあの時は混沌でしたからね。
亡仏 今の状況でも充分まだ混沌ですよ。
イ そうですか。今の状況でも混沌と言うと第二次アメリカ内戦が今では休戦してることもですか?
亡仏 アレはヤバいですよ。あんなことしたので。
イ まぁそうですよね。でも逃げなかったのが悪いのでは?
亡仏 あなたに慈悲はないのですか!
イ 強いて言うのであればないですね。私は日本人以外死んでも何も感じないので。
亡仏 なんで日本人はこんなに慈悲の心や優しいの心もあるのに、こんな簡単に酷いことを言えるのですか!
イ 1929年にできた新生民主党政権で現実主義と言う考え方が日本人の国民性の一つになったのでは?
亡仏 新生民主党、あの時は狂気に満ちてましたよ。国民の多くが新生民主党を支持し、そして熱狂した。ドイツ帝国の宰相アドルフ・ヒトラーみたいでしたよ。
イ 有田権士さん、物凄く人気でしたよね。
亡仏 ええ、日本人全員から人気を集めてた印象ですね。
イ 話が逸れたので戻しますね。日本に亡命する時、何か印象持ったものはありますか?
亡仏 私達の船が台湾に到着した時ですかね。確か日本に移民する時は一度台湾で検査や自分を証明する物、英語や日本語ができるかをテストするなど移民に対して一定の制限がありましたね。
移民局に父親がいって、父親が「書類とかやるからまて」と言って2日後に父親が帰ってきました。
普通なら何日間かかかるんですけど、父親は2日で終わらせましたね。
イ それは早いですね。どうしてそんなに早かったのですか?
亡仏 自分の父親がフランスで有名な資本家とわかると、大量の書類をフランス語を分かる日本人が翻訳して、早くしたことですかね。とは言っても3日で終わるやつを2日で終わらせただけなのでそんな大差はありませんが。
イ 移民してどこに移住しましたか?
亡仏 扶桑半島ですかね。昔は朝鮮半島でしたが名前が変更されて「扶桑」になりました。
扶桑半島に来た時は自分達と同じく亡命してきたフランス人や違う国からの移民が多くて驚きましたよ。
扶桑半島を一言で言うとあらゆる民族のサラダボウルでしたね。
イ 扶桑半島で暮らして印象深いことは何でしょうか?
亡仏 人種や民族、言語が違うのに、皆それぞれ日本人としての心を持ってて、自分が子供の時の小学校は多くが移民してきた人達がいっぱいでしたが、みんな日本人みたいに誠実で一生懸命勉強してましたね。
イ 今日はインタビューに答えてくれてありがとうございます。
亡仏 いえ、昔の思い出は凄く楽しかったので自分も喋りっぱなしでしたよ。
イ ではここでインタビューは終わります。
日本国営放送 「ある亡命フランス人」
(NHK?ナニソレおいしいの?)




