その五あるいはプロローグ
マモノ化という現象は、実のところ詳しいことは判明していない。ただ事実として、命の危機に瀕した魔獣がごくまれに、発症するという事。魔獣以外の生き物には、起こらないこと。そして、この状態にある魔獣はその個体が持つあらゆる能力、例えば知能や跳躍力など、が爆発的に上昇することがあるということだ。
そして、今俺が改めて対峙することになったツキイロモリオオクマの場合は、純粋に回復力と身体能力全般が上昇していやがるらしい。
「gyaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!」
その咆哮は、とてつもない音量で俺はたまらず耳を抑えた。
「冗談じゃないぞ」
そう呟いたはずだが、聴覚機能はまだ回復していないため、何やらフワフワしている。当然奴は、こっちの都合などお構いなしに、ひるんでしまった俺に襲い掛かって来る。
「くぅっ……!」
「gua!」
おなじみになった腕の振り下ろし攻撃だが、それはとてつもない勢いを伴っており、紙一重で直撃は交わしたにも関わらず風圧で少し後ろに下げられてしまう。明らかに異常な強化が為されてしまった。
俺は、奴から距離を取るべく少し吹き飛ばされた勢いを利用する。ありがたいことに、先程のやつの攻撃は奴自身にも反動がでかいらしく、連発されることはないらしい。おそらく肉体がマモノ化による急激な強化についていけないのだろう。
「……っ」
奴が体勢を立て直すまでの間に、決着をつけなければならない。わずかな逡巡の後、一本だけ持ってきていた矢を番える。毛の多い部分などでは、その体に矢が通らなくなっている可能性が高いので、狙いはその眼球だ。
ギリギリまで弦を引き絞る。奴が顔を上げてこちらを確認する。
今だ。その矢は、見えない糸に導かれるようにその眼に突き刺さる。流石に、この毒すらも無効化する程の回復力が上昇していたのなら、本気で逃げるのが正解なのだが、奴は口から泡をブクブクと噴出した。そして、断末魔すらなく体を地面へと横たえていく。
俺は、二の矢を番えていた弓を下げた。たった今命を奪った魔獣に黙とうを捧げる。足音が聞こえてきた。会館から派遣されてきた輸送用の人員だ。そいつらは、俺の足元に横たわっているマモノ化したツキイロモリオオクマを見て、ざわついている。つまるところ、
「悪い、失敗した」
依頼を達成できなかったのだ。
◇
ギルドマスターへ、報告は既にされているのだろうが、自分から結果を伝えるのが筋だろうと思い、会館への帰還後すぐに受付へと向かった。
「ケイトさん、お疲れさまでした」
何やらバタバタしているので、声をかけるのに躊躇っていたら、職員の方が俺に気づいて労いの言葉をくれた。
「あー、うん、ありがとう。聞いてると思うけど、依頼は失敗した」
「ええ、その件なのですが、ギルドマスターが詳細を聞きたいそうなので、執務室に向かってください」
「執務室?」
何でまた。誰か来客でもあるのか?そしてその場合、俺の依頼失敗の詳細も含めて説明をせざるを得ない客人とは誰だ。
俺の疑問に、職員は答えてくれる。
「竜卿がいらしておられます」
「竜卿が?」
竜卿、それは史上最強の魔狩りの称号だ。
今代の竜卿の名前はアイシア・ディ・グノルである。
アイシアという名前ではなく竜卿という称号名で彼女を呼んだという事実は、とてつもなく重い。何故なら、竜卿、すなわち人類最強の兵器が、出向くという事は人類に危機が迫っていることを証明するにも等しい。
俺は、ため息というにはあまりにも重い息をひとつはくと、執務室に通じる階段を登った。