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ミアとその周りの人々

お守りは小さな箱の中

作者: 佐月依子

 ミアは乳母の娘だった。

 隣国の出身である彼女は、その特徴が色濃く出た、淡い金の髪と青い目をしていて、とても美しい少女だった。

 幼いころのエリオットにとって、ミアは眩しく、憧れで、同時にひどく羨ましい存在だった。

 いや、ミアと、エリオットの乳母であるその母、アンナ。二人を羨んでいたという方が正しい。


 エリオットは大きな商家の長男だ。金で買われるように嫁いできたエリオットの母は、息子に対してひとかけらの関心も持ち合わせてはいなかった。優雅で儚く、美しい女性だったが、同時に気位が高く、自分を差し出した金で持ち直した実家への軽蔑と捨てきれない郷愁とで常に不安定だった。

 だからだろう。実の母よりも母を感じさせてくれる乳母のアンナを、何の疑いもなく慕っていた。愛を得ようと必死でもあった。

 ゆえに、幼いころ、ミアとエリオットはライバルだった。

 それは、エリオットが乳母を必要としない年齢になり、アンナの仕事場が子供部屋ではなくなってからも続いた。


「エリー、また来たの。お勉強は?」


 アンナを探して使用人の居間に降りてきたエリオットに対して、ミアが鋭い声を上げた。繕い物を机に置くと、椅子から飛び降りるように立ちあがり、エリオットを睨みつける。ミアの方が少しばかり背が高いので見降ろされるような恰好になり、エリオットは不機嫌そうに顔を逸らした。


「……終わった」


「ミア、坊ちゃんにそんな口きかないの」


 休憩中だったのだろう、お茶のカップをおろして、アンナが咎める。ミアはそれも気に入らないのか、ますます眉を吊り上げた。


「なによ、今更! どうせみんな気にしないわ」


「アンナ、今日のおやつは何?」


 ミアを無視して、エリオットはアンナの隣の椅子に腰かけた。家庭教師との勉強が終わると、ここにきておやつを食べるのが、エリオットの日課なのだ。


「さくらんぼのクラフティですよ」


 小皿をエリオットの前に置きながら、アンナは困ったように微笑んだ。顔を合わせるとケンカばかりの子供たちに、どうしていいのかわからないのだろう。


「もう、母さんがしっかり言い聞かせないから、エリーが好き放題してるのよ。階下でおやつを食べる坊ちゃんなんて聞いたことないわ」


「ミア」


 不満の止まらないミアに、アンナが少し大きな声をだした。ミアもはっとしたように口をつぐむ。

 上にいては、おやつを食べる時間など与えてもらえないことを、アンナもミアも知っていた。

 裕福な家の子供として、何不自由ない暮らしを与えられながらも、窮屈な思いをしているエリオットが、階下に安らぎを求めているのは誰の目からも明らかだった。


「アンナ、ありがとう。ごちそうさま」


 綺麗に空にした皿に匙を置いて、エリオットは立ち上がった。

 気まずそうに立ち尽くしているミアに歩み寄り、手を引いて椅子に座らせる。


「エリー?」


「ミア、久しぶりに勝負しよう。カードとチェス、どっちがいい?」


 挑むように笑うエリオットに、ミアは勝気そうな青い目をつ、と細めた。


「カード。負けないからね」



 

 数分後、満面の笑みを浮かべるミアの前で、エリオットは肩をすくめた。


「さすがミア。また負けた」


「エリーはこだわりすぎなの。まだ時間があるなら、もう一回勝負してあげるわよ」


 カード遊びのときは、たいていミアが優勢だった。彼女の思い切りの良さと大胆さが、そのまま表れたような勝負運びとなる。


 悔しさを押し込めて、エリオットは笑みを作った。


「いや、もう戻らなきゃ。また明日続きをしよう? ……今度はチェスで」


「そういうこと」


 エリオットの真意を理解したのか、ミアは口元をゆがめる。

 カードはミアが優勢だが、チェスとなると立場が逆転するのだ。エリオットの緻密な手に、ミアはなかなか勝つことができていなかった。


「いいわ。明日も勝ってやるんだから」




「……チェックメイト。僕の勝ち」


 悔しげに唇を噛むミアを前にして、エリオットは口元が緩むのを抑えられなかった。

 何も、ミアを負かして喜んでいるわけではない。もちろん勝って嬉しい気持ちもあるが、エリオットにとって重要なことは、本当は勝ち負けではないのだ。


「悔しい! また負けた!」


 大きな音を立てて、ミアが椅子から立ち上がる。

 少々乱暴な手つきでチェス盤と駒を片付けると、ミアはキッとエリオットを見据えた。


「次は絶対……」


「エリオット様?」


 家政婦長の声が、言いかけたミアをさえぎった。居間の入り口に立ち、エリオットを呼んでいる。


「奥様がお呼びですよ」


 柔らかな声が、なぜだかその場に冷たく響いた。

 エリオットの表情が、すっと抜け落ちる。ミアは大きな目をエリオットに据えたまま、なにかを言いかけて口をつぐんだ。


「……わかった」


 強張った声音で答えたエリオットは、静かに使用人の居間を出ていった。



 

 次の日から、エリオットが階下に降りてくることはなくなった。

 毎日階段の方を気にしているミアを見かねて、アンナはそっと事情を話した。

 エリオットは、もうすぐ学校に通う年になる。それに備えて家庭教師との時間を増やしたのだ。


「……じゃあ、もうここでおやつを食べないの?」


「そうよ、ミア」


「……エリー、大丈夫かしら」


 珍しく物憂げな表情を浮かべるミアに、アンナは目を見張る。そして、諭すように言葉をつづけた。


「学校が始まったら、もっと大変なのよ。うんと長い時間お勉強して、長いお休みのときしか、このお屋敷には帰ってこないし……」


「え?」


 はじかれたように、ミアはアンナを振り仰いだ。


「エリーの学校って、ここから通うんじゃないの?」


「通えないくらい遠いのよ」


「遠いの? すごく?」


「ええ」


「……そうなんだ」


 それきり、ミアはすっかり黙り込んでしまった。

 いつの間にか日が落ちて、窓の外は暗くなっている。アンナはカーテンを引いて、明かりを灯した。


「さ、ミア。頼まれていた繕い物、今のうちにやってしまいましょう」


 空気を変えるかのように明るい声で言ったアンナに、ミアは少しあきれたように微笑んだ。


「……私が全部やった方が早いわ。母さんはキッチンを手伝ってきたら?」


「そう? じゃあお願いね」




 エリオットの入学の日が、少しずつ近づいてきた。

 そんなある日のこと、食事の前に寝室に戻ろうと廊下を歩いていたエリオットは、思わぬ人影を目にして足を止めた。


「……ミア? どうして上に?」


 びくりと肩を震わせて、ミアは振り向く。


「エリー、あの、これ……」


 珍しく言いよどみながら、ミアは手に持っていた白いハンカチを差し出した。


「ハンカチ?」


「お守りよ。エリーの名前を縫い取ったの」


「どうして、お守りなんか……」


 いぶかしそうに眉をひそめながらも、エリオットはハンカチを受け取った。


「私たちの国では、遠くに旅立つ人に、お守りとして名前を縫い取った小物を贈るの。……学校、すごく遠いんでしょう?」


 エリオットは肩をすくめた。


「遠いって言っても、学校だよ? 大げさだな」


「でも、母さんと離れ離れになるじゃない」


 ミアの言葉は、エリオットの胸に鋭く突き刺さった。


「……別に、たいしたことじゃない」


「あ、そう。じゃあそのお守りもいらないわね」


 目をすがめて言い放ち、ミアはハンカチに手を伸ばす。 

 エリオットはその手をさっとかわした。


「いや、これはもらう。……ありがとう」


 早口でお礼を言って、エリオットは手元のハンカチに目を落とした。まじまじと見つめながら、また口を開く。


「それにしても、このために上に来たの?」


「そうよ」


 悪びれもせず、ミアはつんと顎をそらして答えた。エリオットは呆れて息をつく。


「見つかったら大目玉だよ」


「別に、悪いことをするために上がってきたわけじゃないもの。おかしなしきたりよね。用事があっても、上に行ける人が戻ってくるのを待ってなきゃいけないなんて」


「ミアって、お屋敷で働くのに向いてないよね」


「私もそう思ってたところ」


 おかしくなって、エリオットは笑った。久しぶりに、少しだけ声をあげて。そして、ふと思いついたことを口にする。


「ミアは、お針子さんとかになったらいいんじゃない?」


「お針子?」


 ミアは目を丸くした。


「そう。この刺繍だって、お店で買ったやつみたいだ。アンナじゃこうはいかないよ」


「ちょっと、母さんを馬鹿にしないで」


「ミアには話したっけ? 前、シャツのボタンをつけてもらったら、袖が縫い付けられてて手が出せなくなって……」


「母さんにだって、苦手なことくらいあるの」


「わかってるよ。わかってる……」


 ハンカチをじっとみつめて、エリオットは頷いた。


「ミア、本当にありがとう。そろそろ戻った方がいいよ」


「うん。エリー、学校、頑張ってね」


「うん……」


 小さく手を振って、ミアは駆けて行った。





 エリオットが全寮制の学校に入学してから、早くも数年が経過した。

 エリオットは、毎年夏と冬にある長期休みのうち、ほんの二週間ほどしか帰ってこない。

 しかし、エリオットの父も、屋敷の使用人たちも、帰省が短いことを気にしてはいなかった。年々表情の明るくなるエリオットに、むしろ安心していたのだ。よほど学校が肌にあったらしい、と。


 卒業を控えた今年も、冬季休暇に屋敷に帰ってきて、エリオットはその足で使用人の居間へ降りてきた。


「アンナ、ミア久しぶり……って、あれ、ミアだけか」


「エリー! 帰ってたの」


「うん。ただいま。……ミア、また縮んだ?」


「エリーの背が伸びたのよ」


 ミアは笑いながら、エリオットを見上げた。


「そうだ、ミア。聞いたよ。ドレス工房で住み込みだって?」


 アンナからの手紙で、ミアが春から働きに出ることを知ったのだった。もう、そんな年齢なのだ。


「ええ。腕を見込まれたのよ」


「うちを追い出されたの間違いじゃないのか?」


「それもあるかも」


「ほんと、君は使用人に向いてないな」


 笑いまじりに話すエリオットに、ミアもまた笑って返事をする。


「そっか……じゃあ、これからは、休みに帰ってきてもミアはいないんだ」


「……そうね。でも母さんはいるわよ」


「そうだな……」


 ほんの少しうつむいて、エリオットはだまりこんだ。思案に暮れているようなその様子に、ミアは首をかしげる。


「エリー、どうしたの?」


「いや……少し、昔のことを思い出してた」


 遠くを見るように、エリオットは窓の外へ視線を向ける。懐かしい風景が広がっていた。子供の頃とそう変わらないその景色は、エリオットの思いを過去へと連れていく。


「あの頃、僕は……アンナが本当の母さんだったらよかったのに、って……ずっと思ってた」


「エリー……」


「ミアのこと。ずるいと思ってた。でも、……もしきょうだいがいたら、ミアみたいな感じかな、とも思ったことがあるよ」


 困った弟を見るような顔で、ミアは笑った。


「こんな生意気な弟がいるのも悪くはないわね」


「ミアが上なんだ」


「当たり前でしょ、私の方が半年もお姉さんよ」




 ひとしきりミアと話して、休憩にきたアンナとも話をしてから、エリオットは自室に戻った。

 荷ほどきの最中、エリオットは旅行鞄の中から平たい小箱を取り出す。久しぶりに開けて、中身を眺めた。

 エリオットは、ミアからもらったハンカチを小箱にいれて、屋敷でも寮でも、机の引き出しにしまい込んでいた。

 ずっと、ハンカチは使われることなく、きれいなままそこにある。

 エリオットの大切な、〝姉さん〟がくれたお守りとして。


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