ノーザショー…?
「柳原さん」
奈美が救急救命センターに足を踏み入れたのと同時に、手術室などに続くのであろう、固く閉じていた銀色のドアが開き、白衣を着た男性が現れた。
瞬時に幸雄と美玲がソファから立ったのが見えた。
「誠人は?」
自分の腕に置かれていた幸雄の手を振りほどき、美玲は医者に駆け寄った。
幸雄は荷物を持ち上げて急いでそれを追った。奈美も医者の側に寄った。
「誠人くんは今のところ眠っています」
「あの、意識は?」
「意識が戻ったかどうかは今のところわかりません。とりあえず、診察室で詳しい説明を」
医者は淡々と言い、踵を返してドアの方へ歩いて行った。
美玲は慌ててそれについて行った。
「パパ、私は?」
「奈美は待ってろ」
幸雄はそう言うと、奈美が返事する間も無く、美玲に続いて銀色のドアの奥へ入って行った。
手にブラックコーヒーの缶を持ったまま、奈美は薄緑のソファに腰掛けた。
先ほどの気分と打って変わって、奈美は胸が締め付けられる思いでいた。
しかし、最悪の事態は避けられただろう、と思い直し、奈美は自分を落ち着かせた。
何人かの人にラインの返信をしていなかったことを思い出し、奈美はスマホを取り出した。
緑のアイコンのアプリに触れた。
淳からのものを避け、未読のままにしていた数件のラインに、奈美はコピーアンドペーストで返信した。
『お兄ちゃんが怪我して病院なの。だけどまぁなんとかなると思う』
最後に「アツシ」と表示されたユーザーからのラインに奈美は触れた。
『早退したの?』
その字を見つめながら少し考えると、奈美は急いで返信を打った。
『うん、けど大したことないから気にしないでー』
続けてグッドスタンプを送ってから、奈美はスマホの画面を暗くした。
ソファにもたれかかり、奈美は長い溜息をついた。
本当は…頼りたいのにな。思いっきり泣きわめきたいのにな。
不意に脳内にそんな思いが浮かんだが、奈美は苦笑いしてそれらを打ち消した。
淳との関係を保つには、決してそのような「重さ」を持ち込んではいけない。
奈美はどこか沈んだ気持ちになったが、『早退したの?』と淳がそもそもラインを送ってくれたことを思い返し、気分が少し浮いた。
なんとも思ってない人には、そんなことわざわざ送らないよね…?
無意識に込み上がっていた期待に気づき、奈美は首を振った。
友達が急に早退したら送るだろう。私だって、蓮や星矢が早退したら、どうしたの?って送るわ。
奈美は頭の中で自分にそう言い聞かせた。そして、これ以上淳について考えても辛くなるだけだ、と奈美は考えを遮断した。
ふと、自分の両親が入って行った銀色のドアに目を向けた。
「詳しい説明」って、どれくらい時間がかかるのだろう。
昼ごはんを食べたばかりだからか、奈美は睡魔が忍び寄ってくるのを感じていた。
だが、絶対眠ってはいけない。
奈美は置いたスマホを再び握り、ゲームアプリを開いた。
ゲームのやりすぎを防ぐためにそれは鍵がかかっていた。
奈美は4桁の暗証番号を入れて制限を解除した。
「奈美」
自分の名前を呼ぶ声がして奈美は視線を上げると、幸雄と美玲は開いた銀色の扉から出ているところだった。
奈美は慌ててスマホをポケットに入れてソファを立った。
美玲を見ると、硬い顔をしていたが、その目は赤くなっていた。
「お医者さん、なんだって?」
奈美は小さな声で幸雄に訊いた。
「あぁ、誠人はまぁ、なんとかなるって。1ヶ月入院して、リハビリして」
「え」
1ヶ月も入院?リハビリ?
「なにがあったの?」
奈美は今まで一番訊きたかったことをついに口にした。
「あぁ…」幸雄は口籠った。
「お昼何食べたの?」唐突に美玲が訊ねた。
「え、サブウェイがあったからそこでサンドイッチ食べた」
「ちゃんと全部食べた?」
「食べたよ」
「で、パパ、何があったの?」奈美は再び幸雄に目を向けた。
少し躊躇いながらも、幸雄は答えた。
「脳挫傷で意識がなくなった」
「ノーザショー?何、それ」
「脳に傷がついた」
「あ、『脳挫傷』か。え、なんでお兄ちゃんが…?」
「頭を怪我したんだよ」
「うん、でもなんで…?」
「奈美、疲れてるから、勘弁しろよ」幸雄は深い溜息をついた。
まだ14時過ぎだったが、幸雄と美玲は実に疲れきった顔をしていた。
「あ…ごめん」
奈美は後ろめたさを感じつつ、最後に一つだけ、と訊いた。
「お見舞いは…?」
「あぁ。回復するまでしばらく休ませた方がいい。明日はパパが様子を見に行く」
「そっか」
「お前は明日学校な。ママも仕事に戻らないといけないし」
「うん」
美玲はスマホで何か操作していた。画面を覗き込むと、メールを打っているようだった。その送信先の名前は、確か会社の上司の人だ。
「お前、1人で帰れるか?乗り換え案内あのアプリあるだろ」
幸雄はそう言い、鞄に手を入れて何かを探った。
「え、帰れるけど、パパたちは?」
「ママと昼ご飯食べてから誠人のアパートによるから、お前は先帰ってろ」
幸雄は財布を取り出し、千円札を1枚差し出した。
「スイカ代。さっきのお釣りもあるだろ」
「うん、ある。わかった」
奈美はお金を受け取り、バッグから財布を出してその中にしまった。
「駅の行き方はわかるな?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、気をつけろよ」
「帰ったら手洗いうがいしなさい」
幸雄と美玲はレストランエリアの方向へ、奈美は駅を指す逆の方へ、歩き出した。
奈美は電車に揺られながら、スマホで「脳挫傷」と検索をかけた。
脳挫傷というのは頭部への強い打撃によって脳が損傷したり出血したりするものであり、交通事故が原因のケースが多いようだった。
誠人は交通事故に遭ったのだろうか?
軽いものであれば1週間程度では退院できるらしかった。
しかし、誠人は1カ月間の入院を強いられる…。重傷であることは間違いないだろう。
そんなことを考え、胸のもやもやが強まるのを感じながら、奈美はさらに読み進めた。
『頭蓋骨骨折や脳内出血を伴うことが多く、重篤な後遺症が残ってしまうリスクが高い』
『・半側空間無視
・半側身体失認
・地誌的障害
・失認症
・失語症
・失行症
・記憶障害
・注意障害
・遂行機能障害…』
奈美は脳挫傷のありうる後遺症の一覧を読み、身震いがした。誠人がもし、記憶を失ったり、喋れなくなったりしたら…
突如襲いかかってきた不安のせいか、奈美は頭に痛みが走るのを感じた。呼吸も荒くなり、奈美は落ち着こうと、瞼を閉じて車両の扉に体を預けた。
帰宅して玄関で靴を脱ぐと、奈美はリュックを床に放り投げベッドに飛び込んだ。
そのまま眠ってしまい、ハッと起き上がった時には、家に着いてから2時間近くが経っていた。
「睡眠すごいわー」
奈美はそんな独り言を呟きながら部屋を出た。たかが1時間の眠りだったが、頭痛はスッと消え、体も軽くなっていた。
居間を通り、奈美はベランダに出て、干してあった洗濯物を取り込み始めた。
ベランダの窓を閉め、室内に戻って洗濯物をソファの上にドッと降ろすと、奈美はテーブルの上に置かれたリモコンに手を伸ばてテレビの電源を入れた。
ニュース番組を映したテレビに目を向けながら、奈美は慣れた手つきで洗濯物を畳んだ。
夜ご飯を食べる前にお風呂に入りたいと思い、奈美は途中でお風呂の自動給湯を始めた。
ちょうど、畳んだ服を箪笥にしまい終わった時、「お風呂が沸きました」という音声が聞こえてきた。
湯船に浸かりながら、奈美は、顔の前にジップロックに入ったスマホをたて、ロックを解除した。
時刻は18:45と表示されていた。無意識にラインのアプリを開くと、すぐに淳からの返信が目に入った。
『そっか』
と一言しかなかった。
『うん笑笑』と奈美はメッセージを返した。
他の人からのラインにも返信を送り、最後に結梨たちとのグループチャットを開くと、『手術どうだった?』と送った星矢に続いて『それな』と蓮のメッセージが表示された。
『手術はまぁ大丈夫っぽい』
『けどさお見舞いしばらくはいけないみたいなんだけど何事―』
奈美はメッセージを送信した。すぐに「既読1」と表示された。
『まじ?』
珍しく結梨じゃーん。
奈美は口角が上がった。
『入院1ヶ月で、ある程度回復してから行っていいって』
『なんの怪我なの?』
『脳挫傷』
既読がついたまま、すぐに返信はなかった。おそらく、脳挫傷について調べに行ったのだろう。
皆下校中の電車の中でスマホを使っているのだろう、先程は何もなかった画面の左上には、メッセージの通知を知らせる数字が現れていた。
奈美はトーク履歴の画面に戻った。
『アツシ』の下に『今日高橋先輩に勝った』とラインが1分前に来ていた。
高橋先輩というのは2つ上の先輩で、テニス部のキャプテンでもあったのだ。
淳はついに高橋先輩にも勝てるようになったのか。
校外のテニススクールに通い始めた影響か、淳はみるみる上達していたのだ。
しかし、誠人のことで頭がいっぱいだった奈美は、淳の会話に明るく付き合える自信がなかった。淳のラインは未読のままにし、奈美は再びグループチャットを開いた。
『交通事故?』
予想通り、結梨は脳挫傷について調べたようだ。
『それがわかんないんだよね、パパが教えてくれない』
『まじか。入院1ヶ月って、大変だね』
『怖いよね』
そう返信した途端、1だった既読が2に切り替わった。
『え、お兄ちゃん1ヶ月も入院しないといけないの?』
蓮だった。
『いぇす』
『治療費やばくね?』
そこ?!
奈美は思わず口に出し、その声は風呂場で響いた。
奈美はくしで濡れた髪を溶かしながら、パジャマ姿で台所に入った。時計に目を向けると19時を少し回っていた。
冷蔵庫からラップのかかったお皿を取り出し、レンジに入れて3分に設定した。
奈美は先ほどの結梨と蓮との会話を頭の中で反芻した。
蓮が加わったことで話は急速に別方向に転がったが、最初に言っていた治療費のことが気にかかっていた。
確かに、1ヶ月もの入院となれば、その費用は多大な額になることは言うまでもない。
3分間経ったことを告げるメロディが流れた。
レンチンと言う割にはチン!って音はしないんだよね。
そんなことを考えながら、奈美はレンジから皿を取り出し、ラップを剥がして不燃物用のゴミ箱に捨てた。
スプーンとフォークを皿と一緒にダイニングテーブルに持って行き、奈美は引き出しからランチョンマットを取り出してそれをダイニングテーブルの上に敷いた。
その上に夜ご飯の持った皿らを置いたと同時に、奈美は椅子に座った。
奈美はご飯を頬張りながら、頭の中で思考を巡らせた。
交通事故であれば、治療費は損害賠償で賄うことができる。
というか、交通事故であれば、警察への届け出が義務づけられているが、幸雄と美玲は連絡したのだろうか?それとも救急車に乗っていた隊員が既に警察に届けを出したのだろうか?
警察に報告できたら、自動車安全運転センターで交通事故証明書を申請する必要がある。
そして、損害賠償についての交渉をしなければならない。
誠人が怪我したということから人身事故扱いになり、損害賠償は高くなる。後遺症が残るとなればなおさらだ。
幸雄たちはこれをわかっているのだろうか?診断書や治療費の領収書は保管しているのだろうか?
弁護士を雇った方が妥当、言い換えれば、より多額な損害賠償金を得ることができるが、弁護士を雇う経済的余裕はないだろう。
だったら、自分たちで保険会社と交渉するしかない。
奈美は、誠人は交通事故に巻き込まれたとすっかり思い込んでいた。そして、どこか勝手に弁護士気取りになっていた。
奈美は弁護士になるという夢を抱いていたのだ。そのために、たくさんの法律関連の本を読んだりして、司法の知識も多くつけていた。
兄に大変なことが起きたと言うのに、司法分野の一件として好奇心を抱いている自分に気づき、奈美は罪悪感に駆られた。
「でも、お兄ちゃんが事故だなんて、実感ないよ…」
奈美は深く息を吐いた。