病院
ここからは、回想ではなく奈美の “現在” に戻ります!
「柳原さん?」
奈美が後ろを向くと、自分を見下ろす形で立っていた、教頭の高田先生が目に入った。
「お父さんから電話があって、柳原さんはもう事情を知っているって聞いた。学校側でタクシーを呼んだんだけど、それでよかった?」高田先生は訊いた。
「先生―…」
今まで見たことのない、高田先生の優しい表情に奈美は驚きつつ、この不安を少しでも共有できる人が現れたことに、胸に熱いものが込み上がった。
奈美は泣き出したい気持ちをぐっとこらえ、小さく頭を下げた。
「それで大丈夫です。ありがとうございます」
奈美は立ち上がってバッグを床から持ち上げ、肩にかけた。
「学校のことはしばらく考えないで大丈夫だよ」
「はい」
か細い声で奈美は返事した。
「それじゃあ、もうすぐでタクシーが来るはずだから」
高田は階段の方へ歩き出し、奈美はそれについていった。
校門には1台の黒いタクシーが停まっていた。
高田と奈美が近づくとそのドアは自動で開き、奈美は鞄を肩から外して前にかけてから、シートに乗り込んだ。
「仁秀病院の救急入り口まで、よろしくお願いします」
開いたドアから高田先生は顔を覗かせて言い、運転手は無言で首を縦に振って親指を立てた。
行き先は電話の際にもう伝えたようだ。
「それじゃあ気をつけて。何かあったら学校に電話して」
高田先生は奈美を見て言った。
奈美はこくりと頷くと、高田先生は車体から体を出して軽く手をあげた。
それを合図にドアは閉まり、タクシーが発車した。
奈美は、運転手がちらちらルームミラーに目をやり、自分の様子を見ていたことに気づいていた。
何か話した方がいいのだろうか、と悩んだが、会話する気力がなく、奈美は沈黙を受け入れることにした。
静かになると、奈美は、先ほどの母との電話越しの会話の内容について、つい考え出してしまいそうになった。
しかし、いくら考えても落ち着くはずはなく、逆に頭が痛くなるだけだ、と奈美は考えを打ち消し、鞄のフロントポケットのチャックを開け、中から一冊の本を取り出した。
しおりの挟んでいたページを開き、しばらく目で文字を追ったが、頭の中を通過しては抜けるかのように、内容がいっこうに入ってこなかった。
奈美は諦めて本を閉じると、窓に寄りかかって目を閉じた。
「お客様、お客様」
必死に訴えかける声に奈美はビクッと起き上がった。
いつの間にか眠っていたらしかった。
「すみません」
手からすり抜けて床に落ちていた本を拾い、それをリュックにしまいながらタクシーメーターに視線をやると、5桁の金額が表示されているのが目に入り、奈美は動転した。
そんなもんか、と思い直し、素早い手つきで鞄から財布を取り出し、奈美は1万円札を2枚と100円玉を3枚抜いてコイントレイの上に乗せた。
「レシートは大丈夫です。ありがとうございました」
財布を入れ、鞄のチャックを閉めながら、奈美は車から足を出した。目の前には大きな茶色の建物を背景に「救命救急センター」と書いてある赤い看板の入り口があった。
奈美は急ぎ足でその入り口の自動ドアを通り抜けると、一般の病院と同じようなハイカウンターの受付があった。
受付カウンターの前には、薄い緑色の長椅子が左右3つずつ並び、一番手前の右側の長椅子には1人の女性が俯いて座っていた。
「ママ!」
奈美はその女性に駆け寄った。
「あぁ、奈美」
美玲は顔を上げて奈美を見ると、またすぐに顔を伏せた。
奈美は、リュックを足の間で挟んでその隣に座った。
「お兄ちゃんは…?」
「今手術だって」
消え入りそうな声で美玲は言った。
「そうなんだ」
奈美はボソリとそれだけ返事すると、黙り込んだ。
知りたいことは山ほどあったが、これ以上母に質問を投げかける気にはなれなかった。
壁にかけてあった時計をなんとなく見てみると、11時50分を少し過ぎていたところだった。
学校から仁秀病院までは車で2時間ほどかかる、と奈美は記憶に留めた。これからの学校帰りに、度々この病院に通うことになるだろう。
奈美は周りを見渡した。
仁秀病院は都内で最も有名な大学病院で、実は、数年前小学生だった頃に、腕を骨折した奈美が入院し、治療を受けた病院でもあった。
そのため、奈美は数回仁秀病院を訪れたことはあったものの、救命救急センターに入るのは初めてだった。
内装は通常受付とあまり変わらず、白やパステルグリーンといった柔な回路で統一されていた。ただ違っていたのは、職員を含めて人がとても少なく、どこか緊張感が漂う雰囲気があった。
「ママ!奈美!」
片手にビジネスバッグを持ったスーツ姿の男性が、息切れながら走ってきた。
「パパー」
奈美は父の姿を見てホッとした。これで母との間の重苦しい空気が解消される。
「大丈夫か?誠人は?」
「今手術中なんだって」母の代わりに奈美は答えた。
「そうか」
奈美はお尻を右に滑らせ、父が座れるように母との間に距離を作った。
「お前、昼食ったか?」
幸雄はバッグを持ち上げ、中から黒の長財布を取り出した。
「食べてないけど、ママが作ったお弁当ある」
「いいよ、店行ってこい。確か、本館の方にスターバックスあったよ」
幸雄はそう言って財布から千円札2枚を抜き取り、奈美に差し出した。
「いや、こんなかかんないよ。自分のお金あるし」
奈美は、お金を受け取ることをなんだか後ろめたく感じていた。
「いいから好きなもん買ってこい」
幸雄は乱暴に奈美の手のひらに札を押し付けると、美玲と奈美の間に腰をおろした。
「パパ達の分は?」
「あー…コンビニでブラックコーヒーだけ買ってきて」
幸雄は早口でそう言い、奈美に背中を向け、母の腕をさすった。
「わかった」
奈美はリュックを持って立ち上がり、「本館はこちらです」と書いてある標識の矢印に従って廊下を進んだ。
道に迷い、途中で、男女で訪れている人が多く、妊娠や出産に関するパンフレットがそこら中に置いてあったことから、産婦人科と推測した棟に入ったものの、奈美はなんとか、レストランがいくつか建っている広場に辿り着いた。
すぐに緑色で女性を描いたロゴが視界に入ったが、奈美はスターバックスには入らず、その隣のサブウェイに足を踏み入れた。
奈美は人目を気にしなくてもいいような、カジュアルな場所にいたい気分だった。
お肉を使っていないベジタリアンのサンドイッチを頼み、奈美はトレイを持って2階へ上がった。
見渡すと、ヘッドホンをした1人の女の人がスマホをいじりながら座っていただけで、ガランとしていた。
奈美は隅の2人がけテーブルへ足を運び、鞄を席の足元に置くと、椅子に体を預けた。
奈美の体から一気に力が抜けた。
自分は確かに今病院にいて、自分の兄は救急搬送されて手術を受けている。しかも、母によると、兄は意識がなかったのだ。
奈美は、自分がいかに大変な状況に置かれているか、脳では理解していたが、どことなく実感は湧かなかった。
ズボンの後ろポケットに手を伸ばし、奈美は中からスマホを取り出した。
顔認証でロックが解除され、ホーム画面が映されると、ラインの四角い緑のアイコンの右上に、「33」と赤丸で通知の件数が表示されているのが目に入った。
アプリを開くと、幾つものメッセージが来ていた。
『何が起きたー』と環奈から。麗のアイコンの右側には『どうしたの?』とメッセージが。
他にも、数人の人から奈美を心配する声が届いていた。
上から3番目には『早退したの?』と淳からのラインが表示されていた。
多くの人に気にかかってもらえているのを嬉しく思ったのと同時に、奈美は瞬く間に情報が流れたことに苦笑いした。
他の人からの質問にどう答えればいいかわからず、奈美は21もの通知が来ていた4人のグループチャットを開いた。
『奈美どうしたー』
Renと表示されたユーザーから会話が始まっていた。
『何が起きたの?』
次に結梨が質問をしていた。
『練り消し大合戦してたら急にトイレ行くとか言ってその後帰ってこなかった』
『投げた練り消し飲み込んだんじゃない?』
やりとりを読み、奈美は思わず吹き出した。
『練り消しって有害なの?』
『ゴムだから大丈夫じゃない?』
その後も練り消しの危険性についての会話が続いたが、それまで何も発していなかった星矢の一言でそれは止まった。
『いや、何があったの?』
『わからん』
『なんか、授業中に誰かから電話がかかってきて、パニックになって、トイレに行ったことにしといてって言って、奈美が教室を出て行った、って佐々木が言ってた』
『え、大丈夫かな?』
『大丈夫?』
『奈美さーん大丈夫かーい?』
最後に自分のユーザーネームがメンションされていた。
表情が緩み、奈美は早速返信を打った。
『お昼になったら電話できる?』
すぐに既読1がついた。
『ハローーー!どうした、大丈夫?』
蓮から返信が来た。
画面の上記を確認すると12:21と時間が表示されていた。
『バカ授業受けろ』
『美術だから大丈夫』
奈美は笑みをこぼした。
奈美たちの美術の先生は生徒に全く干渉しないような人で、美術の授業はもはや自由時間なのだ。
『結梨たちが授業終わって集合したら電話かけてー』
奈美はそうラインを送信すると、画面を暗くした。
ジーンズのポケットを探り、白色のイヤホンを取り出すと、奈美はそれをスマホの穴に挿してから、スマホを伏せて置いた。
奈美はトレイの上のサンドイッチに手を伸ばした。
10分も経たぬうちに、スマホは振動し始めた。
奈美は急いで4分の1まで食べたサンドイッチを置き、スマホを手に取った。イヤホンを耳の中に入れながら、緑色の通話ボタンに触れた。
画面は4分割でディスプレイされ、そのうちの3つの窓は若干景色が違ったものの、明らかに同じ場所だった。
雑音と男女の声が混じり合って、耳に入った。
「奈美―!」
「奈美来た?」
「大丈夫、どうしたの?」
「どこにいんの」
音を察知する機械が3台もあるせいか、少し時間の差を置いてそれらの声は2回ずつ反復された。
「ねぇ、紛らわしいんだけどひとつのスマホでやって」
奈美は尖った声で言ったものの、笑いを堪えられず音を立てて笑った。
「蓮のスマホでやってたけどそうすると蓮が占領すんだもん」結梨が言った。
結梨のアカウントからのビデオ通話画面には、下から撮っているのだろう、歩く結梨の顎しか映っていなかった。通話する上で今まで何度もそんな姿を見てきたのに、なんだか今回ばかりそれがおかしく思えて、奈美は笑った。
「飯食いてー」
蓮の声がして、画面の景色は一瞬芝生らしき緑に染まったものの、スマホを立て直したのか、またすぐに3人の姿を映した。少しずつ右にずれた景色を映し出していた3つの画面の中で、蓮たちは芝生の上で座り、お弁当箱を開けていた。
3組の結梨と星矢、4組の奈美と蓮で合流して裏庭でお弁当を食べるのは、毎日の恒例だった。
「今どこなの?」
星矢が画面越しに奈美を見て訊いた。
「サブウェイー」
奈美はテーブルの上のサンドイッチを持ち上げてカメラに近づけた。
「食べかけ汚ねー」
奈美は顔が少し熱くなるのを感じた。
「あんたの食べてる姿も汚いわ」
「あ?」
蓮は口を開き、中の噛みかけの食べ物が見えた。
「いや、口閉じて」
奈美はそう言って、自分もサンドイッチを口に含めた。
「で、何があったの?」
小さいタッパーの上にドレッシングをかけながら、結梨が訊いた。
奈美はごくんと、サンドイッチを飲み込んでから答えた。
「んー、なんか、お兄ちゃんが救急車で運ばれた」
「え」
星矢と結梨が同時に声を発した。蓮は何かを噛んでいて口を閉じていたが、驚いたように目が丸くなっていた。
「奈美もよくわかんなーい」
奈美は声を高くして言った。
「いやどういうこと」
「会ったの?」
「ううん」
奈美は少し間をおいて続けた。
「今手術してるみたい」
「なんの手術?」
「どこの手術?」
星矢と結梨が重ねて質問をする。
「わかんない」
4人とも口をモグモグと動かして、しばらく誰も何も発さなかった。
サンドイッチを飲み込み、奈美は続けた。
「なんか、ママから電話あって、そんときに、お兄ちゃんが仁秀病院に救急搬送された、って。意識もない、って」
「まじか」
結梨が呟くのが聞こえた。
「うん。怖かった」
奈美は小さな声で言い、再びサンドイッチを頬張った。
「そっか」
星矢が言った。
「お父さんは来た?」
蓮がお弁当箱に目を落としたまま訊いた。
「来たよー」
「そう。それは良かった」
「お兄ちゃん、大丈夫だったらいいね」
「うん、そうだね」
なんだか、空気が重たくなっていた。
「そっちはー?なんか面白いことでもないのー?」
「なんもねーよ」
「あ、体育んとき、ウォームアップ中に吉田がコケた」
結梨は大笑いし始めた。
「えまじ?あの吉田が?」
奈美もつられて笑った。
「あ、そうだった!」
そう言うと、蓮はお弁当箱を置いて、突然立ち上がった。
「蓮何やってんの」
星矢も目を細めて笑った。
「こうやって」
蓮はその場で軽く走り始めると、派手に転がった。
蓮のその突然の動作に奈美は飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。
必死に笑いを堪えて飲み込むと、奈美はあははと笑い出した。
「まじ蓮ウケる」
そのまま、先生の恥ずかしいエピソードの話やら、そこから脱線して星矢が最近見た映画のことやら、4人ははしゃぎながら話し続けた。
「あと5分でホームルームだ」
星矢がそう言い、画面越しに星矢たちは立ち上がる姿が見える。
「あー私もそろそろ戻んなきゃ」
奈美はコップの中のお茶の残りをストローで吸い込んだ。
「なんかあったらすぐ言えよ」
蓮はカメラに顔を近づけたのか、スマホの画面には蓮のおでこがアップで映され、奈美は笑った。
「わかったーありがとう」
「課題送っとくねー」
結梨はバンダナでお弁当箱を包ながら言った。
「んーそれはいらないかな」
4人は揃って笑った。
「んじゃー」
星矢に続き、蓮のアカウントの画面の景色が高くなった。空を映す水色が若干見えた。
「それじゃー」
「またね」
奈美はカメラに向かって手を振った。
「ばいびー」
そう言い、赤いボタンを押して、奈美は通話から抜けた。
くだらない会話を思い返して奈美はふわっと笑った。
口角が上がったまま、奈美はイヤホンを耳から外してスマホに巻きつけ、ポケットに入れた。そして立ち上がり、リュックをしょうと、トレイを持ち上げて椅子を引いた。
可燃物とプラスチックを分別してゴミ箱に捨て、その上にトレイを置くと、奈美は階段を下り、店を出た。