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レール  作者: みっとひ
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2年前の記憶

*以下は全て奈美の回想です*

「支度しなさい!」お母さんの甲高い声が鳴り響いた。

「いつまで泣いてるんだ!」家がごった返すんじゃないかと思うほどのお父さんの怒声が鼓膜を刺した。

 家の奥から鈍い音に続いてビリッという音がした。

 奈美はため息を吐いた。スマホのボタンを押すと、明るくなった画面が7時30分と時間を表示した。普段、家を出る時間までまだ10分あったが、奈美はリュックを背負い、玄関へ歩いた。

 奈美は靴を履きながら、隣の部屋を覗いた。部屋の壁には、先週貼ったばかりのガムテープが破れて、黒い空洞が顔を出していた。

 ベッドの上には、頭を抱え、うずくまっている誠人がいた。

 奈美はその姿から目を逸らし、玄関のドアノブを押した。

「まじで意味わかんない」

 奈美は呟きのつもりが、思った以上に大きな声が出た。

「お前にわかる訳ねぇだろ!」

 そう叫ぶ誠人の声を背後に、奈美は玄関のドアを勢いよく閉めて家を出た。


 奈美は電車の揺れに身を任せ、ぼーっとしていた。

 その状態のまま何駅か過ぎると、奈美はハッとして我に返った。スマホを取り出そうとポケットに手を伸ばすと、挿していたイヤホンから聞き覚えのある悲しいメロディが流れ始めた。

 “なぁどこで間違えたんだろう…” (♪)

 奈美は不意に目頭が熱くなるのを感じた。歌の歌詞が染み込んでくるのと一緒に、朝の出来事が記憶の中で繰り返され、奈美の胸の中で様々な感情が暴れ出していた。

 ―なんでこんな家族なの?もっと普通の家に生まれたかった。


 5年前、奈美が小学5年生、誠人が小学6年生に上がろうとしていた冬、幸雄が当時勤めていた会社が破産した。

 幸雄はアルバイトをいくつも掛け持ちしながら、徹底的に就職先の候補を調べていた。同時に、それまでは家のことに専念していた母の美玲も働きに出たものの、家計が苦しい毎日が続いていた。

 奈美と誠人は当時通っていた小中一貫の私立校、修徳学園も辞めざるを得なくなると予想していたが、進級を控えていた春、両親から意外な報告を受けた。

 誠人はそのまま修徳学園に通い続け、奈美は公立の小学校に転校することになったのだ。幸雄は奈美の頭をポンポン、と叩きながら「奈美ならすぐ友達作れるだろ、な」と言った。

 その日の夜、奈美は眠れず、一晩中1人で泣いていた。しかし、当時10歳の奈美にでも、お金がなくて困っている、ということは察せていた。このままだとさらにひどいことになる、ということも。

 そして翌朝、奈美は父に「奈美、転校する!」と告げた。

 新しい公立学校に馴染むまで、奈美は苦労をした。小学5年生という微妙な年からの転入ということも、その苦労を助長した。

 しかし、幸雄の期待通り、奈美は徐々に友達も増え、学校に行く足取りは軽くなっていた。


 それから少し経ち、幸雄は安定した企業に就職できたものの、以前のような生活はできないことは火を見るより明らかだった。

 誠人も、学費の高い私立校に通い続けてはいけないと思ったのか、教育が充実していて学費も安い、国立の中学校を受験することを宣言した。

 とはいえ、まともな受験勉強をしてなかった誠人はその冬、試験に受からなかった。その年、誠人は、修徳学園中学校に進級することになった。

 しかしなんと、その翌年、奈美は誠人が試験を受けた同じ中学校を受験し、受かったのだ。奈美の通学の便を考え、柳原一家はその年の春、今住んでいる埼玉の市に引っ越してきたのだった。

 中学2年生だった誠人は、その地域の市立中学校に転入した。


 受験に受かった達成感、新しい学校生活に膨らませていたワクワク感、奈美は当時の気持ちを今でも鮮明に思い出せた。入学早々、意気投合した友達もでき、初めの数ヶ月間は本当に楽しいことばかりだった。

 幸雄も職場で業績を上げて昇進していたし、誠人も問題なく学校に通っている様子だった。

 しかし、そんな毎日は2学期に入るなり崩れ始めた。誠人が学校に行くことを拒むようになったのだ。

 なんともない平日の朝、美玲が部屋に入り誠人を起こしたところ、誠人は「行きたくない」と言い、布団から出ようとしなかった。

 美玲が「どうして?」と聞いても、誠人は布団にくるまったまま何も言わなかった。

 出勤の準備に追われていた美玲と幸雄はその日、誠人を休ませることにした。

 しかし、その後も、毎日そんな朝が続いた。

 幸雄が「なんでなんだ?」と問い詰めても、誠人は「あの学校合わないんだよ…」としか言わず、「いじめられているのか?」と聞くと、「お前らにはわからない!」と急に激怒した。

 美玲は仕事から帰ってくるなり、洗濯や料理に追いやられつつ誠人に話しかけようとすると、「黙れババア」と言われていた。幸雄が仕事から早く帰ってきて話をしようとしても、部屋にこもり何も話そうとしなかった。

 ある日、部活が休みだった奈美が早めに帰宅すると、居間でポテトチップスを頬張りながらゲームをしていた誠人の姿があった。それを見た時、奈美の中で表現しきれない怒りが湧き上がった。

「なんで学校行かないわけ?」

 誠人が横目で奈美の方をちらっと見他のがわかった。しかし、奈美の問いに答えようとする様子はなかった。

「ママとパパがどんだけ苦労してんのかわかってんの?」

 奈美は誠人の座っているそばまで歩み寄り、睨みつけた。

「あんたが途中で転校したらやっていけなくなるってわかってるから、ママとパパは無理して修徳学園に通わせたんだよ?今なら公立の中学校に通うぐらいできるでしょ!なのに「合わない」ってなんだよ!奈美だって急に公立ぶち込まれて、いじめられたりもしたけど耐えたんだよ?!お兄ちゃんのくせに、年上のくせに、なんなの?!」

 ゲーム機を操る誠人の手は止まり、指が丸まっていた。その拳がかすかに震えているのが見えた。しかし、それでも返事はなかった。

 怒りのあまり、いつの間にか奈美の目からは涙が溢れていた。

「ママとパパだってあんたをほったらかしに出来んのに、毎朝毎朝あんたを起こそうして、仕事から帰ってきて疲れてんのに話しかけようとして。それに対してなんも感じないわけ?!」

「てめぇに何がわかるんだよ!!」誠人はいきなりゲーム機を奈美に投げつけた。奈美はとっさに体を曲げ、ギリギリのところで避けた。

「小学校と中学校じゃ全然環境はちげぇんだよ!てめぇには何もわかんねぇ!」

 そう言い捨てて誠人は自室に入って行った。

 その日、誠人がそれ以降部屋から顔を出すことはなかった。


 その時のショックと恐怖が蘇り、奈美は小刻みに震えている自分に気づいた。

 あの日以来、誠人の態度は変わった。今までは何も話そうとしなかったのが、朝になって登校を促されると泣き叫んだり、暴言を吐いたりするようになったのだ。今朝みたいに、自暴自棄になって拳で壁に穴を開けることも少なくなかった。

 奈美は力強く目を瞑ったが、気持ちの波に押され、涙が溢れた。

 サラリーマンに囲まれ姿が隠れていることに感謝し、奈美は深く息を吸って気持ちを落ち着かせた。その反面、次第に奈美の中で怒りが増した。

 ―あんたのせいで学校が楽しくなくなってたまるか。

 奈美は目元の涙を拭き、首を振って気持ちを切り替えた。


 夕方、帰路についていた奈美の口角は上がりっぱなしだった。

 6時間の授業はあっという間に過ぎ、放課後になると奈美はテニスコートに向かった。その日は自主練習の日であり、他に誰もいないコートで奈美は1人で壁打ちを始めた。

 何分か後、同じ学年の淳がラケットを持って現れた。

 不意にその姿が目に入り、奈美は跳ね返ったボールを打ち返すことを忘れた。

「おい、ボールー」

 淳は転がったボールを追いかけた。

「ごめんーありがと」

 奈美は淳からボールを受け取った。心臓がばくばくしていた。

「他に誰もいないの?」

「うん、誰も来てない」

「そうか。奈美はずっと壁打ち?」

「そうー。淳もやろうよ!」

 淳はバッグをコートの隅に下ろしてから、奈美の隣に駆け寄り、壁に向かって球を打った。

 そのフォームに目を見つめている自分にハッとし、奈美は再び球を上げてラケットを振った。

 ひたすら壁に向かってラケットを振り続けて30分、手が止まっていた奈美に淳は3セットマッチの挑戦を持ちかけた。

「やるー!」

「よし」

 淳はネットの向こう側に走り、「奈美からいいよ」と声をかけた。

 奈美はボールを上に上げ、ラケットを握った右腕を思い切り振った。


 結果は大差で淳の楽勝だった。

「今度はハンデつけるよ」と、どのセットも奈美に3ゲーム入った状態で次の試合を始めた。だが、これも淳の圧勝だった。

「男女の力の差って大きいから!」

 奈美はそう言いつつ、汗を流してラケットを振った。

 最後の最後に、淳は利き手じゃない左手でプレーする、という無茶なハンデの上で、奈美は試合に勝った。

「ちくしょう」

 大げさに悔しがる淳の前で、奈美は満面の笑みを浮かべて喜んだ。

「いぇーい!!」


 結局、最後まで他の部員は現れず、下校時刻五分前を告げるチャイムが鳴った。

 奈美と淳はテニスコートを出て、自然な流れで一緒に駅へ向かった。

「奈美くそ弱かったね」

 淳は奈美の方を見てニヤリとした。

「はー?そう言えるのは利き手じゃない手でやって勝ってからだよーだ!」

 奈美は言い返した。

 その後も先生がギャグを言って滑ったことなど、2人はたわいもない話で盛り上がった。

 胸の高鳴りが聞こえるんじゃないか、と奈美の胸のざわめきは落ち着かなかった。


 駅に着いたのとぴったりに、ホームに電車が到着した。

「また明日な」

「バイバーイ」

 逆の方面へ行く電車に乗り込む淳に、奈美は手を振った。

 電車が去り1人になった奈美は、ポケットからスマホを取り出し、環奈にラインを送った。

『ねぇ!!!!』

 すぐに既読はついた。

『なにー』

『淳と2人で帰った…』

 ホームに電車が到着し、スマホに目を落としたまま奈美は車両に乗り込んだ。

 電車の中でも、奈美はにやけながらスマホの上で忙しなく指を動かしていた。


 家に着き玄関ドアを開けると、中は外から太陽の光が入っているだけで、薄暗かった。

 靴を脱ぎ、奈美は恐る恐る隣の部屋のドアを開けた。しかし、ベッドの上の布団が乱暴に畳まれているだけで、人はいなかった。

 玄関に目を落とすといつものアディダスのスニーカーがなかった。

 誠人が珍しく家を出ていることを不思議に思いつつ、奈美は気に留めなかった。

 奈美は肩から鞄を下ろし、冷蔵庫から美玲が準備した夜ご飯を取り出し、レンジで温めた。

 学校から帰ってきたときにいつもするように、奈美はテレビを見ながら夜ご飯を素早く完食し、宿題に取り掛かった。

 宿題の量が特別少なかったその日、奈美は顔を上げると7時半を過ぎていた。母が普段帰宅する時間より45分も過ぎていた。

 労働時間が伸びたり、仕事後に買い物でどこかに寄ったりして、母が遅く帰ってくることは過去にも何回かあった。

 しかし、誠人がこの時間に帰ってこないのは明らかにおかしかった。

 奈美は不安を覚えつつ、とりあえずお風呂に入ることにした。

 30分後、濡れた髪をとかしながら奈美は居間に入った。家の中には他に誰もいなかった。

 奈美はテーブルの上で充電していたスマホに手を伸ばして、ラインのアプリを開いた。

「ママ」のアカウントを開き、奈美は通話ボタンを押した。呼び出し音が数回鳴った後、女性のアナウンスの声が流れた。

「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません。」

 奈美は急いで画面を切り替え、「お兄ちゃん」のアカウントの通話ボタンを押した。しかしこれも、不在着信になった。

 奈美の中で不安が広がった。

 少し迷った後、奈美は「パパ」というアカウントにも同様に電話をかけた。

「おかけになった電話は…」

 奈美は電話を切った。

『どこ?』奈美は母、兄、父に同じメッセージを送った。

 3人とも電話がつながらないということは今までになかった。

 泣き出しそうな気持ちを必死に沈めようとラインのトーク履歴の画面に戻ると、淳からラインに目がとまった。

『今日のリベンジさせて』

 奈美はふっと小さく笑った。

『いいよー』

『てか、親が帰ってこないし電話にも出ない…』

 奈美は不安のあまりそう送ったが、話を中断しちゃった、とすぐに後悔した。送信を取り消ししようとしたが、既読はすでに付いていた。

『まじで?』

『大丈夫?』

 奈美は少し手を止めてから、返信した。

『きっと大丈夫!笑笑』

『そっか』

 なんて返信しよう、と手間取っていたら、淳から続いてラインが来た。

『リベンジマッチ、明日は?』

 その後も奈美は淳と会話を続け、時々淳のくだらないジョークで笑い出しながら、気持ちを紛らわした。


 やがて2時間ほどたち、10時を少し回った頃、携帯の着信音が鳴った。

 ソファでテレビを見ていた奈美は腰を上げ、スマホに飛びかかった。

 着信画面には「パパ」という字が表示されていた。

「もしもし、パパどこ?」

「連絡できなくてすまない」

 電話越しに聞こえるその気だるい声から、幸雄が疲れ切っていることが伝わった。

「大丈夫だったか?飯食ったか?」

「うん、私は大丈夫だよ。ねぇどうしたの?」

 数秒の沈黙の後、ため息が聞こえた。

「誠人が警察署にいるんだよ」

「え?」

「柳原さん」電話向こうからくぐもった声が聞こえ、プツッと電話が切れた。


 ガチャン、と玄関のドアが開く音がしたのは、翌朝の1時頃だった。

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