突然の電話
「修徳学園の誘拐された生徒、遺体で見つかったって」奈美はスマホに目を落としたまま言った。
「まじか。お前も気をつけろよ、知らない奴についていくなよ」奈美の父、幸雄はネクタイを締めながら言った。
「そんなこと言われなくてもわかってるわ」
奈美はシリアルの最後の一口を口に運んでから席を立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
ボウルとスプーンを流し台に置き、時計を見ると長針が5の数字を指していた。奈美は目を見開き、洗面所に駆け込んだ。
壁掛け式のカゴに手を入れてゴムを取り出し、素早い手つきで髪の毛を一部手に取り、それを三つの束に分けて編み始めた。
「パパ時間やばくない?遅刻しちゃうよー!」奈美は声を張り上げた。
「奈美ちゃん、あれ10分早いです」幸雄はそう言いながら洗面所を通り過ぎた。
「あ、そうだったー!」あの時計が10分早く進んでいることを思い出し、奈美は胸をなでおろした。「もう、そろそろ変えてよー」
「じゃあ奈美が変えてねー。行ってきます」
「うー…行ってらっしゃい」奈美は返事した。
ガチャンとドアが開き、鍵がかかる音がした。
奈美は鏡横のタンスを開いて口紅を取り出し、唇のラインに沿って塗った。んーパッ、と赤くなった唇を上下合わせ、鏡を覗き込んだ。
照明のスイッチを落として洗面所を出ると、奈美は自室に入り、ベッドの上に手を伸ばしてリュックを掴んだ。
リュックを肩にかけながら、全身鏡の前に立った。
「時間ないーやばいー」
そう呟きつつも、奈美は鏡の前で体を曲げ何度も服を確認する。部屋を飛び出した。
玄関に並んだ黒いスニーカーに足を入れ、ドアを開けた。刺した鍵を回しながらエレベーターの上部を見上げると、1の数字が光っていた。
「またぁ?」奈美はため息をついた。
1階から奈美の住む10階までは20秒もかかる上に、降りる途中は他の住民を乗せるために何度も止まることが多いのだった。
エレベーターとは反対方向に体を向けると、奈美は階段を一段飛ばしで駆け下りた。1階に着いて自動ドアをすり抜け、暖かな風に押されながら奈美は駅の方へ走った。
電光掲示板の時刻が消え、また一つ繰り上げられた。
奈美は改札を出る人波を眺め、白のカチューシャをつけた茶髪頭を見つけた。
「おはよう」
奈美は結梨の隣に並んで歩き出した。
「修徳学園の生徒のこと、聞いた?」
「ニュースで見た、やばいよね。私の妹も小学校の近くで不審者いたらしくてお母さんがパニクってた」
「えーそれは怖いわー」
「だから今先生が通学路で見回りしてるらしい」
「そっか、先生も大変だねー」
いつものように2人は喋りながら学校へ向かった。
角を曲がったところで、奈美の足がすくんだ。
前を歩いている同学年の男子の集団が目に入ったのだ。何人かはゲームをしているのだろう、スマホの画面に視線を固定しながら歩き、他何人かは肩をぶつけあってじゃれている。
この時間に遭遇するということは、今朝の上り電車は若干遅れていたのだろう。それかコンビニなどに寄ったのかもしれない。
不意にその中の1人が奈美たちの方を向いた。奈美は咄嗟に目をそらした。
「待ってー、私朝用事あったわ」奈美は結梨の話を遮って言った。
「だからごめん、早く行こ」
「あ、おけ」
2人は足を早め、奈美は結梨の話に笑いながら、決して脇目を振らず集団の横を通り過ぎた。しかし、その際に、集団の中の1人が自分の方を見ていることがわかった。奈美の心臓はドキドキしていた。
3階の階段を登りきり、奈美は結梨と別れて教室に入った。天気とは裏腹に、朝の教室はどんよりしていた。
奈美は周りを見渡したが、目的の姿は見当たらなかった。
「奈美―!」
そう言いながら走ってくるのは環奈だった。その髪の毛は深い緑に染まっていた。
「環奈ああああ!ちょちょちょ!」
奈美は上下に軽く飛だ。
「かわいくない?!」
「めちゃくちゃ可愛い、似合ってるー」
「でっしょーん!」
環奈は顔の前でピースした。
「髪痛まない?」
奈美は環奈の髪の毛を指に巻いた。
「いや大丈夫でしょ。」
環奈はそう言って奈美の席に座った。
「奈美も染めようよー。ギャルしよーぜって!」
「痛むからってママ絶対許してくれないー」
「あーねー」
環奈はスマホを取り出した。
「赤木髪染めた?やべーな」
近くで戯れていた男子数人がスマホから顔をあげて奈美たちに言った。
「でも可愛いじゃん!」奈美は言った。
「ギャルいな」
その中の1人が呟き、視線を再び画面に落とした。
奈美と環奈は顔を見合わせた。奈美は苦笑し、環奈は一瞬呆れた表情をしてからすぐにパッと目を輝かせた。
「聞いて!昨日めっちゃ可愛いパレット見つけてさ!」
奈美は環奈のスマホの画面を覗き込んだ。そこにはオレンジや茶色系の10種類の色が並んだアイシャドウのパレットが映っていた。
奈美は授業の準備をしようと教室を出た。すると、ロッカーの前でしゃがみ、鞄から教材を取り出していた1人の女の子の姿が目に入った。
「麗ちゃーん!!」
奈美はその背中に抱きついた。麗は後ろを振り向いた。
「奈美、おはよう〜」
「麗ちゃん今日遅かったね。眠そう、寝てないの?」
奈美は麗の隣で地にお尻をつけた。
「徹夜ですよ、徹夜。マジでレポート多すぎる」
麗は教科書をロッカーに投げ入れた。
「それなー」
奈美は麗の隣の席に腰を下ろしてポケットからスマホを取り出した。
「てか、聞いてよー!」
「なになに?」
「淳と昨日話したの」
「お、ウェーブくん?」
麗は奈美の方を見てニヤリとした。
「もうー!」奈美は周りを見た。
「久しぶりにあっちからライン来てさ、嬉しかった…」奈美は小声で言ってはにかんだ。
「読ませて読ませて」
「大したことじゃないけどね!」奈美は慌てて付け足した。
「ここから」
麗は奈美の手からスマホを受け取った。
「『コーチに勝った。』ってなんだし」
スマホの画面を見る麗の隣で奈美は笑った。
「そうそう、急にそれ来たんだよ、笑っちゃった。前話してた時に、コーチに勝ってやる宣言してたからだと思う」
麗は黙々と画面の上で親指を動かした。
「テニスの話全くわかんなかった」
麗はスマホを奈美に返した。
「えーねーそこですかー?!」
奈美は麗の腕に軽くこぶしをあてた。
「だけど、わざわざ勝ったって報告するんだねー」
「そうなの。本当、期待しちゃうよバカたれって感じ」
奈美はため息をついた。
「もう告っちゃえよー」
「もう告白して振られたわ」
奈美は苦笑いした。
「それでも時間たったし今なら?ってどこかで期待してるもんね、奈美ちゃん」
麗は教科書を抱えて立ち上がった。
「…麗のいじわるー!」奈美は自分のロッカーから教科書を取り出してから、麗の背後を追ってチャイムの音と同時に教室に入った。
問題文を読み上げる声に混じって奈美の机はガタガタと音を上げていた。
「奈美ガチすぎてウケるんだけど」柚は問題文をノートに写しながら、ケラケラ笑った。
「だーってー」奈美は必死に消しゴムを机に擦り付けた。
「この間の仕返ししてあげっからね、蓮!」
奈美の前に座っていた同級生の蓮は、またも机の上で激しく消しゴムを擦りつけていた。ただ、出来上がっていた練り消しの数は奈美とは比にならなかった。
「俺練り消しの才能あるんじゃね?」
蓮が後ろを振り返って白い歯を見せた。
「いやその前にノート取れし」柚がツッコミを入れる。
「奈美も取ってないでしょ」
蓮は体をひねり、奈美のノートを覗き込んだ。それはびっしり字で埋まっていた。
「あっはーんどんまーい!」奈美はニコリとした。
「ちくしょー」
蓮は大袈裟に舌打ちをすると、練り消しを投げた。
その不意打ちに奈美はびっくりした。
「はぁ?」
前方で先生が背中を向けていると確認すると、奈美は自分の作った練り消しを次々と蓮に投げつけた。
「くらえー」
「お、やるか?」
蓮は机の上にあった練り消しを消費し始めた。
1つが目に当たり、奈美は小さく叫び声をあげた。当たったものをそのまま投げ返すと、蓮の目の間に的中した。
ゔわっ、と驚く蓮に奈美は、えへへ、と小さくピースした。
「ねぇちょっと、こっちにまで来るんだけどーっ」
柚は自分のノートに落ちた練り消しを蓮の方に飛ばした。
「2対1はないだろ!」蓮は思わず大きな声を出した。
教室が静まり返った。
「片岡くん、何か言いたいことでも?」
三島先生が板書の手を止め、眼鏡の奥から冷たい視線を送った。クラスの人も皆後ろを向き、必死に笑いをこらえている。
蓮は慌てて練り消しを握った右腕を下ろし、体を前に向き直した。
「いや、あの、柳原さんがですねぇ、」
言いかけて後ろを振り向くと、奈美はノートに視線を落とし、シャーペンを走らせていた。
「くそがぁ」
蓮が小さく呟いた。奈美は下を向いたまま小さく笑った。
蓮はモジモジして、しばらく何も言い出せずにいた。
「授業に集中してください!」
三島先生は一喝した。そして、開き直って授業を続けた。
「それじゃあこの数式の解き方について、片岡くんの考えをクラスのみんなに共有してください」
教室はクスクスした笑いと柚のケラケラ声に包まれた。
蓮は慌ててノートを開いた。
「えーっと…」ページをパラパラとめくった。
「…わかんないです」
「ノートなんも取ってないんだからそりゃわかんないわな」
柚は小声で言った。
「片岡くん、これさっき練習したばかりの問題ですよ。授業を聞いてください」
先生はため息をつくと、「それじゃあ」と次の人を指した。
「蓮どんまい」
「奈美ナイス〜」
周りのクラスメートは囁いてから、前を向き直した。それと同時に蓮は首をひねり、真顔で奈美を見つめた。
「ベー」奈美は舌を出した。
蓮は奈美を見つめ続けた。
「え、え、」
次第に奈美の口角が下がる。
「ひどすぎたかな、え、ごめん…」
「あははは」途端に蓮の顔はほころんだ。
「怒ってるわけねーじゃん!」
「はぁ?蓮のバカ!」
奈美は顔が熱くなっているのを感じ、下を向いた。
「あーあ、奈美ちゃん拗ねちゃった?」
蓮が下から顔を覗き込もうとした。
奈美は口を開かず、固く目をノートに下ろし、書く手を動かした。
「はいはい、蓮もノート取って。先生にまた目つけられるよ」
柚は蓮の肩を掴み、前を向かせた。
「えー」
蓮は何かブツブツ不満がりながらも、前を向いた。
教室に響く先生の声が障害物なく耳に入る状態が続いた。数分経つと、奈美の膝に振動が伝わった。
音に気づいた柚は奈美の机の中に目を向けて笑った。
「なんか鳴ってるぞー」
「それな、やばいー」
奈美は机の中に手を入れて指で形を探り、四角い物体を握って取り出した。振動が机に触れないように、スマホを机の下へ移動させてから画面を見ると、「ママ」という白い字が映っていた。奈美は右下の赤い拒否ボタンを押し、急いで両手でメッセージを打った。
『今授業』
返信はすぐに来た。
『電話出て』
そしてスマホは再び振動し始めた。
「授業中だっつうの!」奈美は呟いた。
柚の視線が頰に強く当たっているのを感じた。
どうしよう、奈美が目を上げ泳がしていると、環奈と視線がぶつかった。
どうしたの?と環奈の口が動いた。奈美はスマホを持ち上げて見せた。どうしよう、と。
環奈は目を細めて覗き込もうとするが、見えなかったらしく、眉をひそめた。
奈美は焦燥感に駆られた。しかし、このままだとバイブが途切れる。
「ごめん柚!私トイレって言っといて!」
奈美は席を立ち上がり急いで教室を出た。
廊下に出ると、向かい側の教室の窓から何人かが奈美の方を見ていた。緑色のボタンを押し、スマホを耳に当てながら奈美は急いでトイレに駆け込んだ。
「もしもし何?」
電話の向こうからかすかに自分の名前を訊く声が聞こえた。
「奈美だよ。ママどうしたの?」
「誠人が…」美玲の声は震えていた。
「何?」
奈美は自分の声に焦りが走るのを感じた。
「誠人が、救急車で病院運ばれた…意識がないって…」
激しい勢いで胸に込み上がってくるパニックを、奈美は拳を握って必死に抑えた。
「ママ今どこ?パパは?」
「タクシーで仁秀病院に向かってる。パパも会社から行ってる」
「仁秀病院ね、わかった。すぐ行くから」
母のかすれた返事を聞いてから奈美は電話を切った。素早い手つきでスマホをフリーダイヤルの画面に切り替え、記憶を辿りながら数字のボタンを押した。
「奈美?」
ダイヤル音が数回鳴ってから、お父さんが小声で出た。
「パパ、ママから聞いた。学校に電話して授業抜け出す許可もらって。」
「電車降りたら電話するって言ったのに」
電話口からため息の音が漏れた。
「わかった、今電話するから。お前も落ち着けよ。お金はあるな?」
「ある」
「わかった、気をつけろよ」
お父さんはそう言って電話を切った。
奈美はスマホを耳から下ろした。
前の白い壁がぼんやりして見えた。奈美は呆然としている自分に気づき、首を振ってトイレを出た。
奈美は教室前の廊下へ行き、自分のロッカーの前でしゃがんだ。音を立てないようにゆっくりとロッカーの扉を開け、中のものを鞄に詰め込み始めた。
誠人の意識がない…?今日は火曜日で誠人も登校しているはずだ。こんな朝早くに、学校で何かあったのか?
しかし、そうでないと奈美は直感的に感じた。誠人が昨日何かに巻き込まれた気がしてならなかった。
高校まで3時間もかかることから、誠人は学校の近くでアパートを借りて1人で暮らしている。そのため、柳原家では、電話をかけて近況をお互い話すのが毎晩のルーティーンになっている。
しかし、誠人は昨晩から全く電話にもメールにも反応していなかったのだ。誠人は勉強で忙しく電話に出ないこともしばしばあったので、昨晩もそれだろう、と誰も気に留めなかったが、今日まで連絡がないというのは初めてのことだった。昨日は確か千葉県民の日で、誠人の学校は休みだったはずだ。そんな休みの日に何か起きたのだろうか?
いろいろな考えが脳内で渦巻く中、1つだけ、2年前の記憶がくっきり浮かび上がった。