果たすべき責務。
紅蘭は、自分を見つめる三つの瞳に、戸惑い気味に指をこすり合わせた。一つは、押しつぶされそうな強い光を宿した翡翠の目。一つは、気遣わしげにこちらに向けられた紫の瞳。そして隣に立った清風の琥珀の目は、複雑な色が見え隠れして、何を考えているのかよくわからなかった。
「わたしにしかできないことーー」
「ええ。正確には、曼華王族唯一の生き残りとして、ですが」
「えっ? でもさっきは、」
正妃様に子が生まれていたと言ったのに。その言葉は発しなくとも、雲彫には十分伝わっていた。
「あなたが王宮を去ってから間もなくして、曼華は魔族に侵略されました。急な出来事でした。まともな対戦ができないまま、多くの命が消え去った。
あの日、宮にいた王の一族は皆魔の手にかかってしまいました。魔族はいの一番に陛下を切って捨てたのです」
「っ、そんな! 魔族って、何なのですか」
「東雲には縁のない話のようですね。なぜかこの国には攻め入ったことがない。
……魔族とはつまり、化物なようなものだと思ってください。彼らは人ならざる禍々しい風貌をし、妖魔を使役する力をもつ。死海の底より生まれ、殺戮に興ずる不死の種族です。
15年前、彼らに侵された曼華は、そのまま国を支配され、今や妖魔の蔓延る地になり果てています」
「そ、そんな。私、昔楼主様から聞きました。曼華はとても豊かで美しい国だって。それなのに……」
雲彫は静かに目を伏せた。
「……死海が国を二つに分けた時から、曼華と東雲はもうほとんど交流がありません。交流ができない、と言ったほうが確かでしょうか。
妖魔が掃いて捨てるほど湧き出る死海を、わざわざ命を賭して渡ろうとする人間はそうそういないでしょうから。
ー楼主があなたに伝えたのは、今の曼華の姿ではありません。確かに昔は美しい国でしたが、今はもう……」
「そう、なのですか……」
紅蘭はぎゅっと両手を握りしめた。自分が曼華の公主だということ、その故郷が今危機に陥っていること、そのすべてを瞬時に飲み込めるほど頭のいいほうではない。けれども、全く縁もゆかりもないはずの隣国の惨状は、聞き流せるような軽いものではなかった。
「これ以上、曼華を魔族に牛耳られる訳にはいきません。無辜の民が虐げられ、国は恐怖に包まれています。
ーー紅蘭様。この国を救えるのは、あなたしかいないのです」
「わ、わたし?」
「ええ」
雲彫は黙々と二人の会話を眺めていた少女、寒梅に目を配った。寡黙な少女はひとつ頷くと、部屋の隅に置かれた縦長い荷に手をかける。紫の包みから現れたのは、古めかしい木造の箱だった。三尺ほどあるその箱は、ところどころが黒く変色し、長い歴史を経たものだとわかる。彼女はそれを、黙って紅蘭の前へ差し出した。
「これは……?」
「破魔の神剣、#流蛍剣__りゅうけいけん__#。初代曼華皇帝が携えていたとされる剣で、王族の血筋のものしか扱えない、名刀中の名刀です」
「刀!?」
慌てた紅蘭は、思わず箱を落としそうになる。刀など、生まれてこの方触ったことがない。清風が差している刀ならいつも見ているが、触れることは憚ってきた。大好きな清風が刀を振るう時は、決まっていつもの穏やかな雰囲気が鳴りを潜める。代わりに殺伐とした空気を身に纏うのだ。それが紅蘭には怖かった。
「こ、これでどうしろというのですか」
「魔族と戦ってもらいます」
「戦う……私が?」
無理だ。紅蘭は眉を下げた。今まで刀に触ったこともないのに、いきなりそれで戦えと言われても。それに、なぜ自分が戦わねばならないのか、理解できない。わざわざ青楼の雑役、しかもひ弱で平凡な女子をつかまえて、剣を振るえ敵と戦えというよりは、身体の丈夫な男たちに退治を任せたほうがはるかに安心だ。そのはずなのに。
幸い、雲彫には、箱を手に固まる少女の戸惑いが、手に取るようにわかるようだった。
「魔族は不死の種族です。斬っても斬っても、殺めることはできません。いくら屈強な戦士でも、彼らを倒すことは不可能。辛うじてできるのは封印のみです。……ですが唯一、不死の彼らにとどめを刺せる剣があります。それがその、流蛍剣です」
その場のすべての視線が、剣の納められた箱に注がれた。
「そして流蛍剣を扱えるのは、初代曼華皇帝の血筋を引く王族のみ。先の襲撃で、あなたはこの世で唯一、その血筋を引くものとなりました。……私とて、あなたのような貧弱な女性に国を預けたくはありません。しかし、この剣を抜けるのは今やあなたのみ。あなたにしか、曼華は救えないのです」
部屋に、静寂が訪れた。
紅蘭は押し黙る。箱の中身が、一気に重さを増したような気がした。
何も、知らなかった。自分のことも、故郷のことも。
知らずに今まで生きてきた。でももし、雲彫の言うことがすべて本当だったら、と彼女は思いを巡らす。
自分は、ここで平和にのうのうと暮らしてはいけないのではないか。曼華の民のため、国のために立ち上がらなければいけないのではないか。それがどういうことなのか、実感は湧いてこない。けれど、この話を聞いて、なおもいままでのように群芳院で働くことは、できないように思えた。
「それが、私の責務……なのですね」
雲彫は静かに頷いた。理解してくれて何よりだ、と言いたげに。
しかし、事はそう上手く運ばない。怒りのこもった声が、黙って話を聞いた清風から吐き出されたのだ。
「ふざけるな」、と。