第35話~失ったものと失わなかったもの~
いつもと変わらない平日の朝。
スマホのアラームを止め、まだ寝足りない頭をなんとか動かし起床する。今日が休日だったらいいのにと、何度かぼやきながら身支度を整える。昨日の残り物で軽く朝食を済ませ、玄関を開けて今日も気の乗らない一日をスタートする。
どこにでもある平凡な日常。夏休みより前までの俺の日常。
きっと今日も、いや、今日からはまたそうなるはずっただのだろう。何もかもを忘れ、普通の男子高校生として日常に戻っていくはずだったのだろう。
「俺は忘れてなんかいない……」
目覚めて一番最初に発した言葉がそれだった。
ところどころ記憶に靄がかかったような感覚はある。昨夜、俺がこのベッドで眠るまでのことがあやふやだ。それどころかここ数か月の中で、何か大切な物を忘れてしまっていて、それが何だったのか思い出せない。
だけど、それでも俺は忘れてはいない。俺が絶対に忘れたくなくて、意地でもそれを俺の中から消さないように足掻いたということは覚えている。
だからそれが何だったのかを今は思い出せなかったとしても、きっときっかけさえあれば思い出せる。失ったものを、俺はきっと取り戻せるはずだ。
「起きるか……」
何かを忘れてしまったが、何かがあったことは忘れていない。だが、今はそれを思い出せない以上、自身の日常を始めなくてはならない。
そう思ってベッドから降りようとした。そこで気づく。俺の手の中に何かがあることに。それを絶対に離さないように、力を込めて握っていることに。
「リボン……」
おおよそ男である俺には似つかわしくない白のリボン。だが、おかしなことにそのリボンはところどころいうか、全体の半分以上が赤く染め上げられている。
「なんで、こんなもの……」
はっきりしない記憶。なぜ持っているのかわからないリボン。不自然に赤く染まったリボンの汚れ。忘れているけれど、忘れてはいない不確かな思い出。
掴もうとするほど零れ落ちる水のように、手のひらから抜け落ちていく記憶の雫。だけどそれは絶対に零してはいけない大切な記憶のような気がして、俺は必死に忘れてしまった何かを手繰り寄せる。
「リボン……リボン……あか……?」
そこで一つの事実に思い当たった。この赤は一体何なのか?どうしてこのリボンはこんなにも汚れてしまっているのか。
俺はこの赤色の正体を知っている。周囲に広がる圧倒的な赤を。そこが何処なのかはわからないが、月の光に照らされた、とめどなく流れる赤を俺は知っている。
「思い出せ……!大切なことなんだろ!?」
欠片でもいい。きっと何かきっかけのようなものがあれば、それを手掛かりに思い出せるはず。どこか確信めいた思いを胸に、俺はさらに記憶の海へと潜り続けた。
その赤色を俺はなんとかしたかった。必死になって押しとどめようとしているのに、赤色はどうすることもなくあふれ出し続ける。なんとかしたくて、でもどうしようもなくて。最終的に怒ってしまった結末に、俺はただただ泣き崩れることしかできないでいる。
「誰かがいた……、俺は誰かを助けたかった……」
そろそろ家を出なければ学校の始業時間には間に合わない。日常を始めるなら時間を守った行動をしなければならない。だけどそんなものはどうでもよかった。とにかく今はこの忘れてしまった何かを絶対に思い出すことに勝るものなんてない。それを今しなければ俺は確実に後悔する。
この行為が戻りつつあった日常を再び手放すことになるなんて、この時の俺に知る由もなかったが、例えもう一度同じ選択を迫られることになったとしても、きっと俺は思い出そうとすることを選択するだろう。それだけ俺にとって何よりも大事なことなのだから。
「誰かから溢れる赤……、あか……、血か?」
もう一度リボンをよくよく見れば、染みついた赤はところどころ乾燥し、触れると欠片のように剥がれ落ちていく。
赤い血が広がった屋上。倒れ伏す女の子。なんとかしたいのに、助けたいのに自分には何もできない無力さ。そして、全てを失ってから手の中に現れた一丁の硬質の銃。
「ひ…より……」
足りなかったピースが埋まっていく、そんな感覚がした。きしんで動かなかった歯車が一気にかみ合いまわり出す。昨日の夜、何があったのかを。二学期が始まり、今日までの間に俺が何をしていたのかを。そして、一体俺が何を失ってしまったのかを。
「忘れてなんかない……」
きっとこれが物語だったなら、もう少し日和を忘れた状態を引っ張るのだろう。その間に何かの事件が起こって、違和感のようなものを感じて最後の見せ場で全てを思い出す。多分そんな展開が見ている人が望む展開で、世間が望む手に汗握る美味しい展開ってやつなんだと思う。
だけどそんなことは俺の知ったことではない。俺にとって一番大事な物、忘れたくなかったものは、あのいけすかない男による記憶操作を施されても尚、俺の中にはしっかり残っていた。
冷たくなっていく日和の体の感触が今でも鮮明に思い出せる。それはたった数時間前のことで、全てを思い出した今、その記憶が俺の中で一番強烈に脳内に描写される記憶でもあるのだ。
「それでも俺は忘れてない……!!」
正直なところ、どうして完全に忘れることがなく、こんな短時間で思い出すことが出来たのかはわからない。確かに手の中にリボンというきっかけがあったことは確かだが、それだけではないはずだ。
しかし今はそれはわからない。あの男の施したであろう記憶操作が不完全だったのかもしれないし、それとも俺が無意識下で何かをしたのかもしれない。もしかしたら、俺の忘れたくないという思いが、どこかで作用していという可能性だってある。
「理由なんてどうだっていい」
そもそもあの男がどのように記憶をいじろうとしたのか、その方法すらわからないのだから、理由を考えることそのものが無駄だ。そんなことよりも大事なことは、俺が日和のことを覚えているということだ。覚えているのなら行動が出来る。あいつの仇を討つことが出来る。
そこまで考えて俺の思考は止まる。仇を討って一体何になる?日和はもういない。例え日和の仇を討ったところであいつは二度と帰ってはこない。それなら俺が何かをすることに果たして意味などあるのだろうか?
それに仇を討つとして相手は一体誰だ?“闇”であることは間違いないだろうが、日和の力も借りずに一体どうやって見つけ出すというのか。これまで日和の、組織の力を大いに借りて捜索をしてきて何も見つからなかったものが、俺が一人で探ったところで果たして見つかるだろうか。
「ひより……」
ぐちゃぐちゃな思考はまとまらないどころか、新たな疑問を生じさせさらに混乱をきたしていく。何をしたいのか、これからどうしたいのか。もはや俺は自身の方向性を完全に見失ってしまっていた。
それでも身支度をして家を出たのは、ひとえに日和の存在を確認したかったからだろう。
あいつがここにいたんだという実感が欲しくて、そこにはいないとわかっているのに学校へと足が向かっていた。
昨日の最後の記憶は屋上。俺の手の中にリボンがあるのだから、きっとそこにも何かがあるはずだ。屋上じゃなくてもいい。学校のどこかに日和の痕跡があればそれでいい。何か日和に繋がる物があればいいのだ。
俺はただ、それに縋りつきたかっただけなのだから。
だが、世の中という物はそんなに甘くはない。頭のどこかで想定していなかったわけではないが、嫌な予感というのは往々にして当たってしまう物。
昨夜、日和が倒れていたはずの場所は、血液どころか水分ひとつなく綺麗に乾いている。以前、俺があの人体模型との一戦で校舎を破壊してしまった後に日和が言っていたが、組織の力をもってすれば痕跡を消すことくらいはわけはないらしい。
つまりは人が一人死んだという事実を隠蔽するのも、組織にしてみればさしたる問題ではないということではないだろうか。
「わかってたさ」
あの場に日和の上司を名乗る組織の関係者がいた以上、事後処理をしている可能性が高いことくらいはわかっていた。だからこそ、次の手だってちゃんと考えてきたのだ。
俺の目的は、とにかく日和がそこにいたという確かな痕跡。俺の中には、今でも笑っている日和がはっきりと存在している。だが、記憶の改ざんなどというとんでもないことをされた後なのだから、もしかしたらこの記憶すら作られたものなのかもしれない。
その可能性を否定したい。日和の存在を確かなものにしたい。ただ、第三者の言葉によって、自分の記憶を確かなものにしたかった。
階段を一気に駆け下りた先に見えてくるのは、毎日過ごしている自分の教室。それがなぜか今はひどく久しぶりに見るように思える。俺は一気に扉に手をかけ中に入り、目当ての人物めがけて一気に突き進む。
「伏見、話がある」
「朝からと唐突になんだよ。俺は男に告白される趣味はないぞ」
「頼むから」
伏見の周りにはいつもと同じで何人かの人がいて、そいつらが一斉に俺を不審な目で睨みつけてくる。話題の中心である伏見を横からかっさらう形になっている俺に、あまり快く思ってはいないといった感じだろうか。しかも普段、ほとんど誰とも話すことなく影の薄い俺がそんなことをすれば、そういった反応をされるのも当然のことだろう。
だが今はそんなことはどうでもいい。周囲の視線や反応よりも、自分の望みをかなえることのほうが何よりも大事だ。
「頼む」
クラスメイトに頭を下げる。本来朝の教室で起こるはずのない光景。
恥も外聞もそんなものはない。今はどうしても伏見の協力が俺には必要で、そのためだったら頭の一つや二つくらいいくらでも下げてやるさ。求められるなら土下座したってかまわない。
「昼飯一週間分」
だが、伏見の答えは意外な物だった。少なくとも俺にとっては。
「え……?」
「急いでるんだろ?それで手を打ってやるから要件を言えよ」
顔を上げた先で俺をみる伏見の顔を見て、どうしてこいつが周りの連中から、いや、校内でも男女問わず人気が高いのかなんとなくわかった気がした。
きっと、俺が逆立ちしたってこいつの人気に適うことなんて未来永劫ないんだろう。そう思えるくらい、口角を片方だけあげて不敵に笑う伏見の顔は、今の俺に何よりも信頼できる表情に見えたのだから。
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