第32話~屋上の血溜まり~
虫の知らせ、胸騒ぎ、嫌な予感。この際言葉はなんでもいい。とにかく俺がそんな感覚を感じることになったのは、自宅がもう目の前に迫っていて、あとちょっとで家の中にただいまというタイミングだった。
それを感じた瞬間に、俺はどうしてもそこから先、家の中へと足を踏み入れることができなくなってしまったのだ。
ひどい動悸症状に多量の汗。おおよそ普通とは明らかに違う症状におかされてしまっては、どう適当な言い訳を見繕っても普通であるとは言い難い。この症状の全てを体調不良の一言で切り捨ててもいい。それならば家に入って朝までぐっすり横になればいいはずなのに、頭は完全にそれを拒否していた。
行かないといけない。
気が付けば足は勝手に動き出していて、ただ焦燥に駆られて走り出す。目的地どころかこの奇妙な症状の理由すらわからないはずなのに、俺はどこかへ向かって全力で走っていた。
嫌な予感が拭えない。さっきまであんなに幸せな気持ちでいっぱいだったはずなのに、今やその面影すらないほどに、気分は底辺を突き抜けてマイナスに振れてしまっている。
目的地がわからないといったがあれは嘘だ。確かに最初はわからなかったが、俺の向かう方向を考えれば自ずと答えはついてくる。
いつもこの時間俺はどこにいるのか?いつもこの時間に一体何をしているのか?いつもこの時間、誰と一緒にいるのか?
俺がここまで動揺する程に心配するようなことに、一体だれが関わっているのか。
「なんでお前の顔ばっかり浮かんでくるんだよ!!」
楽しいことならいいし、幸せなことならいい。数時間前に見せてくれていた、顔なら何だっていい。拗ねた顔は精神的に穏やかにはなれないけれど、今俺が感じている焦りに比べればよっぽどいい。
走って、走って、自分の体の限界を無視して走り続ける。
目的地に近づけば近づくだけ、要領を得なかった焦りの正体が明確な物へと変わっていく。
脳内に映るのはいつもの学校。俺とあいつとで探索をする夜の学校だ。しかしその風景はいつもとは明らかに違って、そこに俺は存在しない。いるのはあいつ一人で、しかも倒れ伏して身じろぎひとつしないのだ。
「違う違う違うっ!!」
それはあくまでも俺の脳が勝手に作り出した幻想で、あいつが、日和がそんなことになるはずなんてない。今日は休日で、いつもの探索は休みのはずなのだから、日和が学校にいるはずなんてない。
『確かめたいことがあります』
それなら日和が確かめたかったこととはなんだ?
あの局面で、日和が優先するような大事なこととはいったいなんだ?
「なんであの時に一人で行かせたんだよ!!」
そんなものは“闇”に関することに決まっている。現に俺はそう考えたから、足手まといにならないように日和を一人で行かせたのではなかったか。
だけど頭の中で明滅するように流れている光景が、日和が冷たい廊下の上に倒れている光景が消えなくて。それどころか学校に近づくにつれて、どんどんとより鮮明な物になっていっている。
息がだいぶ上がってきているし、体全体が悲鳴を上げている。だけど今はそんなことはどうだっていい。少しでも早く、一分でも一秒でも早く学校に着かなければいけない。その思いだけで止まりかける足を前へ前へと突き動かしていく。
勘違いであればいいんだ。頭の中のこの光景も、俺の頭が作り出した妄想だったと笑えればそれでいいんだ。着いた先、学校に誰もいなければそれでいいんだ。
「ハァッ……ハァッ……」
声を出すことすらできず、絶え絶えになった呼吸を整えることもなく、裏門に到着した俺はそのまま校内へと侵入していく。
もう何度目になるかわからない侵入経路なのだから、それなりに早さもあがっているはずなのに、今はその時間すらも惜しかった。しかも今日は日和と一緒ではないのだから、間違いなく都城先輩の監視の目に引っかかってしまうということもわかっていたが、それすらもこの時はどうでもよかった。
向かう先は屋上。
旧校舎と新校舎を繋いでいる屋上のあの場所。かつて俺が日和に助けてもらい、そして改めて日和との関係が一歩進んだあの場所。
「頼むから誰もいないでくれよ……!」
嫌な予感は収まらないし、焦燥感はすでに予言めいた確信に近い感覚に変わりつつある。
普段ならそこにいて欲しいはずのあいつに、今日だけはいないでほしかった。会うのは明日でいい。明日、いつも通りにオブラートなど薄皮一枚もないような言葉で、毒舌を振りまいてくれればそれでいいんだ。
旧校舎から新校舎へ渡った先に見えるのは見慣れた光景。そしてその先にはすでに何度もフラッシュバックしていた光景が、俺がこの数十分間ずっと否定し、絶対に見たくなかったものがあった。
「日和!!」
脳裏にこびりついて離れない、床に倒れ伏して動かない日和の姿がそこにあった。
なぜこんなことになっている?さっきまで一緒に笑って、明日の約束までして別れたんじゃなかったのか?
予定も何も知らなかったけど、朝から気の向くままに歩いていくお前に振り回されっぱなしで、だけど手を繋いで歩くのはとても楽しくて、途中で少し微妙な空気になった時もあったけど、それでも俺たちの関係が明日には必ず変化する。そんな感じでさっき別れたばっかだろうが!
「どうした!何があった!」
それなのに、何でお前はそんなところで倒れてるんだよ!?どうしてお前の周りがこんなに赤いんだよ!?
「すぐに病院に連れてってやるから!!」
日和の意識はないが、呼吸を確認すると弱々しいながらも息はしているようだということを確認し、気休めにもならないが安堵をする。
日和が意識を失くし、そして倒れている原因は間違いなく、この月明かりに照らされ、不気味に輝く赤い水たまりのせい。
出血源はおそらく腹部。
着ていたジャケットを半ば破るように脱ぎ捨てて、未だ日和の命の源を吐き出し続けているそこに押し当てた。応急処置にもなっていないことはわかっている。傷口と思わしき場所に当てた瞬間に、勢いよく血液を吸って重くなるジャケットからもそれは明白だ。
それでも何もしないよりかはきっとましなはず。そう思うから、半ば祈るような気持ちでジャケットを日和に押し当てる。
「ち、くさ……さん、ですか……?」
いつもとはまるで違う、か細い声で俺を呼ぶ日和の声が聞こえた。顔を覗き込むと、うっすらと目を開けた日和の視線が俺を捕らえている。その瞳にいつものような力はほとんどなく、見ているというより視界に捉えただけと言った方が正しいだろう。
その様子に、ただでさえ焦る気持ちがさらに加速する。このままじゃ日和が死んでしまう……。一度思い浮かべてしまえばその言葉は、俺の心を鷲掴みにしたかのように締め付けてくる。
「しゃべるな!!俺に任せて大人しくしてろ!!」
「もう…多分、む、りですから……大丈夫です……」
「いいから黙ってろ!!」
そんなことは言われなくてもわかっている。状況がどう考えても芳しくないなんてことは、日和の様子を見れば素人だってわかることだ。
すでに日和が倒れていた周りは、どれだけの量が出たのかわからないくらいに血で溢れている。
人は体から血液の三分の一以上が失われると、死のへのカウントダウンが始まる。この血だまりの量は、どう少なく見積もってもその量に到達していると考えられる。いくら俺が素人だといえ、人間の体からこれだけの量の血が出てしまえば命を繋ぎとめることが難しいことくらいは理解している。
だからといって諦められるわけがない。諦めていいはずがない。
「下行……大動脈の一部から……出血してます。これはもう……止まらないでしょう……
」
「しゃべるなって言ってるだろう!」
これからだったじゃないのかよ!?
今日デートしたばっかりで、これからもっといろいろと二人でどこかに行って、来月のクリスマスは一緒に出掛けるんじゃかったのか!?話の続きを明日また聞いてくれるんじゃなかったのか!?
「最後に……千種さんに会えてよかった……です」
「やめてくれ……!最後だなんて頼むから言わないでくれよ……」
無事を祈りながらも頭のどこかでは厳しいことが分かってしまっている。
日和の腹部を抑えているジャケットは、まだ止血を施し始めてからそんなに時間が経っていないにも関わらず、すでに多くの血液を含んで重たくなっている。もう、時間がない。
「最後だと……思いますので白状……しますね」
そう言って微笑む日和の顔は月の光に照らされているせいか、それとも血の気が失せているからか、真っ白でとても綺麗に見えた。
「私たち……実は昔に出会って……いるんですよ?」
「俺たちが?」
「はい……」
その告白は衝撃的で、だけどどこか素直に納得できて、俺の心の奥にすとんと収まってしまった。
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