第2話~千種秀介という人間~
市立西高校。
町の中では一番の高台に位置する場所に建つ高校で、地区の中では割とレベルの高い進学校である。駅から徒歩で二十分、バスなら十分弱だが通勤通学の時間帯はすし詰め状態での乗車となること請け合いだ。かといって徒歩は徒歩で長く傾斜のきつい坂を上らなければならないということもあり、どちらをとっても交通の便はお世辞にもいいとは言いがたい。
しかしそんな立地にありながら入学志願者数は多く、激戦と言わないまでも入学試験の倍率は毎回結構なものだ。それというのもつい数年前に校舎の全面改装が行われ、設備の面では他の追随を許さないほど立派になったからである。立地の悪さと引き換えに敷地面積が広くグラウンドや野球場にテニスコート、果ては高校にしては珍しい弓道場、さらにはプラネタリウムまであるなど、およそ一高校とは思えない設備を備えているのだ。それに加えて進学率も悪くないと来れば、むしろ人気が出ないほうがおかしいというものだ。
俺自身、例にもれずその圧倒的な設備に惹かれて入学を志望した。出来が悪いなりに必死こいて勉強して奇跡的に手に入れた入学の権利。合格の知らせを受けた時には、今までの人生で一番といえるくらいに喜んだほどだ。
合格が決まり、入学してしばらくまではこれから始まる高校生活への期待に満ち溢れていた。どんな部活に入ろうか、それじゃなければバイトなんかをしてもいい。学校生活ではもしかしたら恋人なんかもできるかもしれない。今考えるとなんて浅はかな考えだったのかと苦笑したくなる。
そんな誰もが夢見る高校生活を手に入れられるのは、選ばれたほんの一握りに過ぎないのだ。もともとのスペック、つまりはルックスがいい、頭がいい、運動能力が高い、社交性に優れているなどの、何か秀でた部分がなければそんなものを手に入れることはかなわない。
その現実を目の当たりにしたのは入学してすぐに行われた筆記テストだった。入学ですら必死に勉強してぎりぎりだった程度の学力しかない俺だ。同じ篩にかけられそれを余裕にクリアしてきた奴らと比べられれば、すぐにその差がどれだけあるかを突き付けられる。周りが平均点以上を難なくとってくる中、俺はといえば今までのテストの中で見たことがないようなひどいありさまだった。
ここですでに俺の心は折れ始めていたのかもしれない。中学のころから始めたテニスも、その練習のきつさにまだ仮入部の段階であっという間に脱落。学校生活でも知った顔が誰もいないという環境下でまわりとうまく話すことができず、ぼっちとまでは言わないまでも友達と呼べるか怪しいレベルの知り合いしかできなかった。入学から1か月も経つころには、俺は充実した高校生活を早くも諦め、当たり障りのない毎日を送ることに専念するようになってしまっていたのだった。
そんな生活を続けて一年半。二年生の夏休みも終わり、これから体育祭や文化祭などのイベントラッシュが始まる九月。またつまらない毎日がはじまると思っていた矢先に朝の出来事である。あの後、間に合うはずはないとわかってはいたが教室まで猛ダッシュを敢行し、HRには間に合わなかったもののなんとか一時間目が始まる前には教室に滑り込むことができた。
先にも述べた通りもともと教室内での俺への関心は高いわけではないので、遅刻の原因をわざわざ聞きに来るような物好きなどいない。今回はそのおかげで午前中の間、遅刻以外は特にいつもと変わらずに過ごすことができたのだった。
「なあなあ千種、お前今日の朝なんか女子と揉めてたらしいじゃん。何々、何があったのさ」
平穏はいつも突然に終わりを迎えるものであるようだ。その一言を耳ざとく聞きつけた連中の視線がこちらに集まる。
「しかもなんかお相手さん“闇がー”とか叫んでたらしいしさ。朝から演劇の稽古ですかーって、そんなわけないかっ。それよりもその子はなんなのお前の彼女?ちょっとそれは聞いてないなー。その辺詳しく聞かせもらいたいなー」
うっとうしいくらいのハイテンション。事実だいぶうっとうしいのではあるが、そうまくしたてるのはクラスメイトであり、俺が学校生活で話しができる数少ない人物である伏見裕。そこそこのルックスにそこそこの成績、スポーツもめちゃくちゃできるわけではないがとにかく社交性が高い。話題の豊富さ、相手に退屈させない話術、道化に徹することのできるその性格で入学当初から常に人の輪の中心にいるような奴だった。
そんな奴だからこそ、クラス内でもあまり目立たない俺にも積極的に話しかけてくるのだろう。仲がいいからとかそんな理由ではない。伏見裕という人物にとって、俺はただの話題の種でしかないのだ。
「まだ俺もちゃんと裏をとってはないけど、なんかかわいい子みたいだしぜひ俺にも紹介して欲しいんだけどさ」
「確かに朝変な女に絡まれたのは事実だけど、俺もあいつがなんなのかよく知らないんだよ。急に話しかけてきてわけわからないことを言われてその上遅刻ときた。迷惑以外の何物でもないだろ」
「ほんとかなー。普通の女の子は初対面の男の腕にしがみついたりはしないもんだけどな」
どうやら詳細状況まで知られているらしい。この分ではいったいどの程度噂が広がっているのかと思うと、背中に冷たいものを感じる気すらしてくる。
通常、俺の話題ごとき興味をもたれるはずもない。それが例え今朝のような面白ネタだったとしてもだ。しかし、こと男女間の話となると別。思春期真っ盛りな高校生、恋愛ネタとなればそれこそ目の色を変えて食いついてくる。それはもはや本能に近いもので、しかもそれが他人のものとなれば尚更なのだ。
「今日のところは信じるとしますか。実際に付き合っているならこれから先いくらでも情報は入ってくるだろうしな」
そう言い残すと俺の返事も待たず教室を出ていく伏見。友人の多いあいつのことだ、おそらく別のクラスかもしくは他学年かの友人と昼飯の約束があるのだろう。もしかしたら俺との会話なんてその約束までの時間つぶしに過ぎなかったのかもしれない。
伏見が去ってからも俺への好奇の視線は減ったもののまだいくつかは残っていた。とてもじゃないが教室で昼飯を食べる気にはなれない。俺は通学時にコンビニで適当に見繕ってきたパンやおにぎりの入った袋をひっつかみ、落ち着いて昼飯を食べられる場所に移動することにしたのだった。
千種秀介という人間は昔から一人で過ごす時間が多かった。今の時代珍しくもないが両親は共働き、しかも二人とも帰宅時間が割と遅かったため、寝る時間を過ぎても帰ってこず、何日も顔を併せないなんてことも珍しくはなかった。
そんな両親に対して特別不満があったわけではない。珍しく三人で過ごすことができたとある夜。これもまた珍しく晩酌で酔った二人が漏らした話によれば、二人は結婚を両親に大反対され半ば駆け落ちのような感じで結婚したらしい。
もともと暮らしていた場所から遠く離れ、頼るあてもなく最初の頃はとても大変だったと懐かしむように話していたのを今でも覚えている。
一人で過ごすことが寂しくなかったと言えば嘘になるが、一人の時間は嫌いではなかった。なにより両親からそんな話を聞いてしまったら、もはや不満どころか感謝の気持ちの方が大きくなるは自然というものだろう。
さらに言えば、一人で過ごすことが多かった理由には友達が少なかったということもある。一人もいなかったというわけではないが、どうにも同級生と話が合わず上辺だけの付き合いのような、社会人同士の当たり障りのない関係しか築くことができなかったのだ。となれば積極的に遊びの誘いをしてくるような奴もほとんどおらず、かといってこちらから誘うこともない。そんな状況がさらに一人で過ごす時間を増やす要因になっていたのだ。
そんな一人のとき、最初の頃こそゲームをしたり漫画を読んだりして過ごしていたが、どれもすぐに飽きてしまった。
しかし暇な時間はすることがあろうがなかろうが変わりはしない。それゆえ色々な暇つぶしを試た。ひとまず学生らしく勉強をしてみたのだが、これがなかなかどうしていい暇つぶしになった。勉強が好きというわけではないが、学生にとって避けては通れない事項なだけに授業の復習や問題集なんかを片っ端からやってみたのだ。その結果、成績が抜群によくなるという一定の成果を出すことができた。しかしそれがさらに周囲から浮く理由のひとつになってしまったことに気づいてからは人並み程度にしかしなくなった。出過ぎた人間は周囲から疎まれる。子どもながらにそれに気づいたことが、よかったのかどうかはわからないが、それでも勉強を続けていれば高校受験時にあんなに苦労しなくてよかったのではとそこだけは後悔をしていたりする。
勉強の次に取り組んだのは運動なのだが、さすがに一人でできることには限界があった。
ジョギングや筋トレなどの体造りのようなことしかできない上に、一日に何時間もそれをするのは体力的に厳しく、これもそう長くは続かなかった。
その他にも料理や読書に始まり、はたまた囲碁や将棋など、おおよそ一人でできそうなことには大抵手を出してみたがどれもすぐにやめてしまう結果となった。
そんなことが長く続くといつしか暇をつぶすということを考えることが億劫になってしまい、学校から帰り仕事である両親に変わり家事を済ませ宿題を片付けた後は、ただぼーっと過ごすようになっていた。ソファに深く座り、目を閉じ自分の思考に入り込む。その先に広がるのは自分だけの幻想。そこではどんなことだってできる。
例えば攫われたお姫様を助ける勇者になってみたり、広い宇宙を旅する宇宙海賊、現実的なところでは人類初の発見をし大富豪になるなんてこともあった。頭の中の考えは自由で、誰かに咎められることもない。その中ではなんだってできるのだ。
こういった家庭環境や自分の性格のため、千種秀介という人間は空想の世界に入り込むようになった。それは一人であるという環境に立ち向かうために自己防衛の一種であったのかもしれない。自分ではその環境を受け入れていたつもりで、その実は寂しくてしょうがなかったのかもしれない