第14話~校舎の逃走劇~
予想外ではあったが、想定をしなかったわけではない。ただありえないとは思っていた。
そういった可能性を考えないわけではなかったし、そうじゃないといいなとも思っていた。似たようなことを言っているのは自覚している。ただそれだけ混乱しているのだ。
夜の学校と言えば定番ではあるし、俺自身それにまつわる話を聞いたことだってある。だからといってそんなものは信じてなどいない。この科学が世界を支配する時代において、そんなものは非論理的で子供騙しにすぎないからだ。そもそもそれを信じてしまえば、今後俺が夜の学校に忍び込むなんてことはできるはずがないのだ。
なぜなら怖いから。
しかし、だとすれば目の前の光景にどう説明をつければいいのだろう。俺の背後に立っていた気配、その正体であるそれに対して。
人体模型。
どこの学校であってもおおよそ理科室にあるであろうそれが、どういうわけか教室のど真ん中に鎮座している。
まさに異常な光景。というよりもあってはならない光景だろう。
夜の教室に人体模型など、まさに怪談話の定番中の定番。学校に通う日本の学生であれば、誰でも一度は聞いたことのある有名な話。
信じがたいことだが、間違いなく目線の先にそれは存在している。周囲の状況が暗いということを加味したとしても、すでにその暗闇に慣れてしまっている自身の目が間違えるということは考えにくい。
何度も言うが俺がこの教室に入るまで、中には誰もいなかった。この場合は何もなかったが正しいかもしれないが、この際どちらでもいい。
どういう原理なのか、そもそも説明のできる現象なのか。それすら謎だが確かに人体模型はそこにいる。
不思議と恐怖という感情は薄かった。
それはおそらく極限の緊張状態のせいで、ただでさえ多量に出ていた脳内麻薬の分泌がさらに増えたせいだろう。
そのせいか、頭の片隅では気配の正体が警備員でなかったことに安堵したくらいだ。
少なくともまだ俺がここにいることはばれていない。
目の前にいるのは正体不明の人体模型のみ。だとすれば俺がしなければいけないことは、この場からの脱出、その一点に尽きる。
思考が切り替わればそこから行動に移るのは早かった。机の影に隠れた状態はそのままに、素早く出口へと向かう。
あれがどうしてそこにいるのか、なぜこの教室にいるのかは知らないが、少なくとも関わることがいいことだとはちっとも思えないし、思いたくもない。どう考えたって状況的におかしいのだから、そんなものからは早く離れてしまうほうがいいに決まっているのだ。
教室の扉までたどり着いたところで、机の影に隠していた状態を起こす。
流石にいつまでも体をかがめた状態では素早く進めないし、何より教室の扉を開けることが出来ない。
再度人体模型の気配を確認し、扉に手をかけたその時だった。
直立不動、一心不乱に前だけを見ていたはずの人体模型の首が突如として動いた。正確に言えば、回ったと言った方がいいだろうか。
今まさに教室を出ようとする俺の方向に向け、首が真横に回ったのだ。そこで俺はようやく恐怖というものを感じる。その現象はすでに小学生向けの怪談話を超越している。
「おいおいおい!?」
そこにいただけでも異常だったそれが、突如として動き始めたのだ。
無機物には自我など存在しない。するはずがない。それが世界の常識であり世の理だ。そこに例外などはありえない。
しかしそれはそんな常識をあっさりと覆し動き始めた。洒落になっていない。
開いた扉から一気に体を廊下に滑り出す。
いろいろと突っ込みたいことはあるがとにかく今は逃げるのが先決。廊下を全速力で駈け出すが、俺の頭にはまだ冷静な部分も残っていた。
逃走経路のシミュレーションをぎりぎり冷静な脳内で行う。
いかに予測不能の事態が起こったとはいえ、そのまま逃げてしまえば警備員に鉢合わせてしまうリスクは跳ね上がってしまう。そんなことを言っている場合ではないのかもしれないが、それでも会わないに越したことはないのだ。もし遭遇してしまったら、なんのために今まで隠密に行動をしてきたかがわからない。となれば逃げ道はおのずと限られてくる。
少ないリスクで最大のリターンを。
一番いいルートはやはりここに来る際に使った旧校舎経由だろうか。そのためにはまず屋上に出る必要がある。
廊下を走り抜け階段が目の前に迫る。直進からほとんど直角に体重を傾けたその時だった。
正面を向いていた顔が廊下とちょうど直行し、視界の端に廊下の奥が映るその瞬間。今まで教室の中にいたはずの人体模型が廊下へ飛び出し、こちらへ向けて一気に走り出してくる姿が映ったのだ。
恐怖のバロメーターが一気に跳ね上がる。
もはやその光景はこの世の物とは思えない。
無駄に姿勢よくこちらへ向けて走ってくる人体模型。それから逃げるため階段を一段飛ばしで駆け上る。
現在の俺がいるのは3階で、屋上は6階に位置している。
普段、特別運動をしているわけではない俺の体力を考えれば、そこまで今のペースを維持するのはほとんどギリギリだろう。
それでもペースを落とすわけにはいかない。
あれがどういうものであれ、間違いなく追いつかれていいことになるわけがないのだ。先ほどまで考えていた、警備員に見つかるリスクなどは、あの人体模型の走りを見た瞬間、全てどこかに吹き飛んでしまっていた。
今の最優先事項は、あれに追いつかれることなく脱出を果たすこと。それ以外は全て二の次だ。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
肺に空気を取り込むのが、一段階段を昇るごとに辛くなってくる。それでも足を止めることはしない。足に乳酸が蓄積し、上げることも辛くなってくるがそれでも階段を昇り続ける。
息も絶え絶えになりようやく頂上にたどり着く。もっともそこに着いたからゴールというわけでないことなどわかっている。
屋上への扉はもう目の前。
往路に時間をかけて開いた扉を、帰りは一気に開け放とうした。
しかしそこから体が不思議と動かない。いや、本当はわかっているのだ。自分の背後、というよりも、もう真後ろに感じる気配。
振り返りたくない。
だが相手はそんなこちらの気持ちなどは当然だがお構いなしだ。
肩に触れる何か。
多分それは人体模型の腕だったのだろう。
背筋に感じる寒気が、今までの人生で一番の物となって体中を駆け巡る。今すぐにでも逃げ出さなければいけないのに、まるで体が金縛りにでもあったように動かないのだ。
このままじゃやばい。
そう思うのにどうしようもできない。本能が警告をけたたましく鳴らしているのにどうしようもない。
触れられた肩に感じる力がだんだんと強くなっていくのを感じる。ここまで大した時間は経っていないはずなのだが、その時間が俺には永久にも感じられるほど長かった。
―コツッ
もはや呼吸の仕方も忘れかけた時、不意に背後で物音が鳴り響く。
その音の出どころはわからない。しかしその音のおかげで凍りついたように動かなかった俺の体に再び力が入る。
俺の肩に置かれている手は左肩。その手を軸にして反時計回りに体を回転させる。そうすることで背後にいるものと正対することなくその横を突破することが出来る。
回転の勢いをそのままに足に力を込め一気に前方へと走り出した。
追撃はない。
だが俺は見てしまった。人体模型の横を通り抜ける一瞬、その頭部がまるで意志があるかのようにこちらを見ているのを。
こんなのはもう、恐怖なんて言葉じゃ表現できない。それほどに異常な事態に俺は見舞われていた。
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