第1話~出会い~
誰しも小さい頃、そもそも小さい頃という言葉があやふやなもので人によってその定義に差異がでるであろうが、ともかくそんな時代はあったはずだ。そしてそのときにこんなことを考えなかっただろうか。自分には何か特別な力が備わっているだとか、何か特別な使命があるだとか、はたまた自分じゃなくても特別な何かを持った誰かが自分と何かを成すだとか。人にはとてもじゃないが言えるはずもない、それどころか思い出すだけでなんというか腹の下あたりがむずかゆくなる、そんな妄想話が一つや二つあったと思う。
大半の奴らは成長とともに社会というものの構造や常識を知り、また日々の生活を過ごすために遮二無二生きていくうち、いつしかそんなことは考えなくなっていく。それが当然であり、むしろそうなっていくことが当たり前なのだろう。
しかし中には大人になってもその妄想から逃れられず、いつまでも妄想の中の理想の自分に憧れを抱き続ける奴だっている。別に考えることが悪いことだとは言わないが、中には理想と現実のギャップに耐え切れず社会に順応できないで部屋の隅で膝を抱えているやつだったり、どこをどう解釈してその結論に至るのかは知らないが犯罪行為に走ってしまう極端な奴もいたりする。つまりは日曜昼のつまらないワイドショーで取りだたされるような人間を生んでいることもまた事実だ。
そんなつまらなく、さりとて特に内容があるわけでもない話はこれくらいにしておこう。
何が言いたいのかというと、俺もまたそんなくだらない妄想から脱しきれていない、かといって現実がどういうものかを理解できていないわけでもない、そんな中途半端なお年頃ってわけだ。人よりも少しだけその時期が遅いってのはあるかもしれないけれど。
これから話すのはそんな人よりも少し妄想癖が強くて、人よりも少し心の成長が遅い奴の日常の話。だけどその日常と呼ぶ代り映えのしないものが、一人の少女の出会いと、少しのきっかけでほんの少しだけ変わっていく話だ。
あんまり期待はするなよ。別に世界が救われたとか全米が泣いたとかそんな大層な話じゃないんだ。ただまあ、時間があるなら聞いていってくれ。今日はなんとなくそんな気分だからさ。
朝の駅前の喧騒を背中に受けつつ長い坂を上りながらため息をひとつ。本来なら今頃涼しいバスに揺られこの坂の頂上までむかっているはずだった。というよりももう到着していただろう。乗る予定だったバスはどういうわけか予定発車時刻を待たずに俺の目の前から去って行ってしまった。乗り遅れたのが今回はじめてというわけではない。もともと交通量の多い幹線道路にあるバス停だ。今日のように早めに出てしまうこともあれば渋滞により遅延が生じるなんてことは日常茶飯事。そのためにバスの本数は比較的多く、利用者の多い時間帯であれば五分も待てば次が来る。だからこの炎天下の中、わざわざこのあほみたいに長い坂を徒歩で上る必要は何もないのだ。というよりもいつもは実際そうしている。
ではなぜ今日に限ってそんなことをしているかというと、別に特別な理由があるわけでもない。ただなんとなく歩きたかった。バスの中という密室の中に知らない人間と一緒に押し込められている状況を回避したかっただけ。もちろんそれにも特に理由はない。今の行動に理由をつけるとしたらやっぱりなんとなく以外の言葉は見つからないのだ。そのなんとなくを思いついた五分前の自分にすでに腹が立っていたりもするわけだけど、ともかく俺はいまこの長くいまいましい坂を上っている。目的地はその頂上にある高校だ。なぜって、それは俺がそこに通っているからだよ。
高校までの距離も後半分まで差し掛かった坂道の途中、残りの距離を思うとこのまま引き返して今日はさぼってやろうかという気持ちも湧き上がってくる。その思いを実行に移そうかと思い歩みをとめた時だった。
「日常と非日常の境目ってどこにあると思いますか」
不意に背後からかけられる声。暑さと疲れで周囲への注意を怠っていたようだ。すぐさま振り返るとそこには見知らぬ人がこちらを見て……
「いないじゃん」
「あのー、確かに私の身長が低いことは不本意ながら認めざるを得ないことですが、さすがに正面に立っていて見えないことはないと思いますよー」
「いきなり人の背後に現れた奴に哲学めいた問いかけをされたからな。こっちとしても何かしらの趣向をこらした返しが必要かと思ってさ」
「あー、身長のことはフォローしてくれないんですねー」
視線を斜め下に下げた先では不満そうに唇をへの字に曲げた顔がこちらを見上げていた。目測にしてその身長は150㎝以下、肩まで伸びた少し茶がかった髪を白いリボンでハーフアップにまとめている。くりっとした目はらんらんと輝いていて、容姿だけで判断するなら中学生と言われても納得してしまいそうだ。
「あんまり私が妖艶な色香を出してるからってそんなに体を嘗め回すように見ないで下さいよー。訴えますよー」
「そういう趣味の人間もいるのは間違いないが、少なくとも俺には幼女趣味はないんだ。
悪いが他をあたってくれ」
「冷たいですよー。こんなに可愛い女の子が勇気を出して声をかけたんですよー。レディーに対して失礼だと思わないんですかー」
語尾が間延びするのは癖なのだろうか。そして俺はなぜ初対面の幼女に詰め寄られているのだろうか。そうか、気まぐれでバスに乗らなかったのが悪いのか。いや待てよ、そもそも発車時刻を守らず出発してしまうバスに問題があるんじゃなかろうか。となればこのクレームの矛先はバス会社だな。小一時間ほど文句を言ってもバチはあたらないと思うがどうだろう。
「そのクレームはおそらくバス会社さんも迷惑以外の何物でもないと思いますよー」
「人のモノローグに突っ込みをいれるんじゃない」
「モノローグの割に人に聞こえるほどの独り言をつぶやいていましたので突っ込み待ちなのかと思いましたー。そんな私の優しさに感謝してもいいんですよ?それから人のことを幼女といったことに対して心から詫びてください」
申訳程度の胸をそらしてどや顔をしたかと思えば一転してむくれ顔に変わる。感情表現の豊かな奴である。というよりもこのままじゃ埒が明かない。どうにもこいつと話していると漫才に移行してしまって話が何も進まないどころか話が脱線して収集がつかなくなってしまう。仕方ない。ここはひとつ大人の対応でこちらから話を進めようじゃないか。
「話を戻してもいいですかー。このままじゃいつまでたっても私のしたい話ができませんので」
なぜか俺が悪いことになっているらしいが我慢だ。今しがた大人の対応を取ると決めたばかりだからな。
「言いたいことは山ほどあるが話があるなら早くしてくれ。まだ時間に余裕があるとはいえ悠長にしてたら遅刻しちまう」
ポケットの中から取り出したスマホのデジタル時計はHR開始二十分前を示している。今の地点から普通に歩けば十分もあれば学校に到着するが、長話に付き合うほどの余裕はない。さっきまでさぼうろうかと考えていたなどということはすでに忘れた。どうでもいいことで脳の容量を圧迫するなんてナンセンスだからな。
「大丈夫ですよー。そんなに長くなる話でもありませんので」
にこっという擬音が一番似合いそうな表情でこちらの目を正面から見据える幼女らしき女。不覚にも少しどきっとした。待て、俺には幼女趣味はないはずだ。俺が好きなのは清楚な幼馴染系の同級生だぞ。昨日のおかずだってそうだった。いや、あれは久々に当たりを引いたね。ネットサーフィンをしながら偶然見つけた産物だったのだが、幼馴染の委員長とまさかあんな展開になるとはわからないものである。
「朝っぱらから性癖の暴露はやめてもらっていいですか。真剣に引くんで」
「だから人のモノローグに突っ込むなって言ってんだろうが」
「先ほども言いましたけどダダ漏れなんですよ」
何か気持ちの悪いものを見るかのような目で俺を見るな。男なら誰だって少しくらいは人に言えない性癖を持ち合わせているものなんだよ。
「今の発言は私の人生史上トップスリーに入る気持ち悪さでした。朝から男の人の本質を垣間見ることになるとは最悪の極みです」
「貴重な体験ができてよかったじゃないか。お望みならもっと詳しく深くいろいろと教えてやってもいいんだぞ」
「いえ、やめておきます。私もまだ恋に恋する乙女ですので、そちらの汚らわしい世界への一歩を踏み出すわけにはいかないんですよー。あ、そうだ汚らわしいと言えば最近のことなんですけど、家の前の道に何か黒い塊があったんですけどそれがですねー」
「待て待て、お前とのコントも名残惜しくはあるがいい加減本題に移ってくれ。話が目的地からどんどんそれていって、終いにはバックし始めてる」
初対面にもかかわらず、こいつとは話が切れ目なく続いてしまう。しかも悪いことに中身も何もない会話が不毛に繰り返されてしまうという感じになのだ。しかし今は時間がない。そろそろ急いで向かわなければ本当に遅刻してしまう。
「あのさ、急ぎじゃなかったら後でじゃだめか。放課後とかだったら時間あるっていうか暇してるから」
言うが早いか返答を待たずに踵を返す。チャイムまであと八分。少し小走りでいけば間に合う時間だ。駈け出そうと足に力をこめようとした瞬間、腕に細い体がしがみついてきた。
「待ってくださいよー。これでも私結構な勇気を出して声をかけたんですよー。このまま話できないままで別れちゃったら応援してくれた道端のアリさん達になんて言ったらいいんですかー」
「いやそんなこと知らねーよ。ていうアリが応援なんてできるのかよ」
「できるわけないじゃないですかー。そんなこと小学生だってわかりますよー」
このやろう。
腕にまとわりつく小さな体を力ずくで振りほどいてしまおう。こんなふざけた奴の話なんて聞く必要もないし第一に俺が聞いてやる義理はない。そう思い、腕を引き抜こうとした時だった。
「あー、もう。どうしてちゃんと聞いてくれないんですかー。もういいです。今すぐ言い
ますから耳をダンボにしてよく聞いといてください。いきますよー」
そうまくしたて、そのあたりの通行人まで聞こえる大きな声で叫んできやがった。
「私と一緒に“闇”と闘ってくださーい!!」
まわりには登校中の学生がまだ多数いる。他の人から見れば朝っぱらから男女がいちゃついている光景ですらうっとうしいだろうに、おまけに中二発言まで飛び出したときたもんだ。悪事千里を走る。このことはすぐに学校で噂になるだろう。そしてそれも大事であるが、目の前の問題も看過できない。
「遅刻だ・・・」
時計の表示はすでに始業三分前になっていた。