始祖様の戯れ
「なぁ柊よ、私は面白い遊びを思いついたぞ」
そう呟いた女は、短いプラチナブロンドの髪に血のような赤い目をしていた。
中性的な美貌のせいか、その佇まいは気の強い少女というより荒々しい武将を思わせる。黒を基調としたシャツとズボンを履き、すらりとした足には編み込みのブーツをはめていた。特に目を引くのはその上に羽織った毛皮のロープである。
その存在感たるや凄まじく、吸血鬼の始祖の1人ということを差し置いても人を圧倒させるだけの何かを持っていた。
「あぁ…また火山巡りですか?それとも雪山?」
興味なさそうに答えたのは、柊と呼ばれた少年だった。ソファにゆったりと寝そべり、本を読んでいる。少年らしからぬハスキーな声が特徴的だ。
「馬ー鹿。そんなんじゃない。もっとすごくて楽しいものだよ」
「何です?」
「私はな…人間になろうと思うのだ」
その場に静寂が訪れた。柊は本から目を上げ、胡乱げな目つきで女を見た。
「…本気ですか」
「あぁ」
「理由をお聞きしても?」
すると女はニヤリと笑った。
「吸血鬼の奴らが嫌いだからだ。もう吸血鬼社会にいたくない」
「あなたも吸血鬼でしょう。しかも始祖ではありませんか」
柊が立ち上がり、女の椅子の側に行く。彼女の膝に顔をすり寄せ、甘えるようにキスをした。
「そうだが、私以外の吸血鬼とは皆性格が合わぬのだ…えぇい、やめい」
猫のように膝にスリスリしてくる柊に、女は苛立ったように眉をひそめた。首根っこを掴み、容赦なく部屋の壁に向かってぶん投げる。柊は予期していたかのように空中で華麗に身を翻し、部屋の壁に両足をつけて着地した。
「というと?」
少年には彼女の言っていることがおおよそ理解できていたが、直接彼女の口から説明をしてほしいと思った。
すると女はすっくと立ち上がり、両手を広げて言った。
「みな暗い。笑い方もフッ…って感じで嫌な感じだし、それに長く生き過ぎているせいで感情に乏しい!」
「どんな理由ですか」
「貴族ぶりおって…毎夜毎夜夜会に明け暮れたり、人間を使って詰まらぬゲームをしたり。始祖に至っては詰まらぬ権力闘争ばかりではないか。あとは…あぁ、ややこしい恋愛とやらに夢中になりおる。しかも倒錯的な」
そう吐き捨てる女に、少年は溜息をついた。
「まあ確かに吸血鬼なんて皆そういうものでしょう…。暇ですからね。あなたが異常なんですよ」
召使いの少年に異常だと言われた女は、しかしそれを咎めることはなく、せせら笑った。
「異常だとか狂人だという言葉は聞き飽きたわ!陰口でな…」
「あと馬鹿とも言われてますよ」
「やめろ皆までいうな…」
悲鳴をあげる女に、少年は少し笑った気がした。
「だから私は人間になってみる。人として生まれ死に、転生を繰り返す。期間は千年。吸血鬼のやつらには自殺したとでも失踪したとでも自由に思わせておけば良い」
そう言って女ーーーロゼは、これからの遊びを想像して口元を緩めた。
*****
不思議な夢を見た。
豪奢な館の中で、吸血鬼の女が『人間になりたい』と言い出す夢を。
ラウラは寝台の上で溜息をついた。窓の外はまだ暗い。月の位置から推測するに、眠りについてから左程時間は経っていないのだろう。
「猛獣のような女の人だったわ…でも女の私でも惚れ惚れしてしまうくらい美しかった…また夢に出てこないかしら」
1人頬を染めて呟くと、ゴソゴソと隣で衣擦れの音がした。一緒に寝ていた双子の弟が目を覚ましたのだ。
「ん…ラウラ、どんな夢を見ていたの」
「起こしてしまったのね、ゴーシュ。ごめんなさい」
ラウラは謝りながら、再び自身も布団にくるまった。ゴーシュと鼻先をくっつけて、先ほど見た夢について話した。
「ふふ、吸血鬼なんているわけないのにね。娯楽本の読みすぎね…きっと」
「…記憶が戻りかけている…ではもうすぐ千年になるのか」
一笑に付されると思いきや、弟は神妙な顔をして何事かブツブツ呟いていた。
「ゴーシュ?」
「あぁごめん姉さん。随分変な夢を見たんだねぇ…。でも明日に備えて今日は寝よう?明日は僕たち公爵さまのお家に行くんだから」
「それもそうね」
ラウラは頷いた。
明日から二人はこの国一番の大貴族の家に引き取られる事になっていた。双子が生まれ育ったのは貴族ではないが、そこそこ生活にゆとりのある商人の家だった。そのまま2人で家業の跡を継ぐと思っていた。
だが、ラウラ達が16歳の時に受けた健康診断を機に、将来が一変する。
今でも何故なのかわからないのだが、診断を受けた数ヶ月後、1人の男が突然家に数人の側近を連れてやって来た。身なりがよく、一目で貴族とわかる所作の男は自らを公爵と名乗り、ラウラを見て作り物のように美しい顔をうっとりと綻ばせた。そして『うちに来なさい』と言い、ラウラを引き取ることを申し出たのだ。
少し雨に濡れてしっとりとした黒髪に、白磁のような肌。身震いするほど美しい公爵の誘いに、しかしラウラは首を縦に振らなかった。公爵の家に引き取られれば一生何不自由ない暮らしをさせてもらえるが、なぜ自分が選ばれたのか全くわからなかったし、家族と離れるのが嫌だったからである。両親も最初は反対していた。
だが公爵様の命令に逆らえるはずもなく、結局ラウラは明日、公爵の家の子になることに決まった。…せめてもの救いは、ゴーシュも付いて来てくれることだ。跡継ぎは2人の弟に任せて、2人で公爵の元へ行く。
「明日からは慣れない環境に身を置くことになるけれど、2人で頑張りましょう。ついてきてくれてありがとね」
「感謝されるほどの事じゃないよ。僕は僕の意思でラウラについて行くことに決めたんだからね」
ゴーシュは微笑んだ。その皮肉げな笑顔はどこか、夢の中に出てきた柊という少年を彷彿とさせるものだった。
***
「愛しい人。…でも君はとても意地悪な人、僕を置いていったりして」
自らの寝室で、恍惚とした表情の彼はラウラの頬に手をやった。冷たくて大きな手が、ねっとりとラウラの頬にまとわりつく。この屋敷に来てどれくらい経っただろう。意外にも平民出身のラウラ達は、屋敷の皆に歓迎されていた。公爵やその友人にも優しくしてもらえて、ラウラ達は幸せな毎日を送っていた。
執事が言うには、ラウラは将来彼の妻になるらしい。だから連れてこられた初日から、ラウラは彼の寝室で眠った。彼は紳士で、いつもラウラに対して優しいが、時折こんな風によく分からない事を話すのだった。
「いつになったらこの遊びは終わるのかい?早く僕のお嫁さんになって欲しいのに…」
成人したら結婚するって彼は言っていたのに。
なぜ彼は今更そんな事を言っているのだろう。
「なにを仰っているのです…?」
いつもなら、執事に忠告されたように公爵がどのような言動をしようとも、彼を拒まなかった。だがつい頬に置かれた手から逃れようと後ずさると、その瞬間公爵の顔が凍りついた。
「そんな…また逃げるの…?」
彼は行き場の無くなった手をさすりながら、地を這うような声で言った。豹変した彼に怯えたラウラは一歩も動けずにいると、ドア口から声がした。
「ラウラ、もうすぐ千年だ。…君のために忠告しよう。手錠をかけられる前に目を覚ませ」
「ゴーシュ?」
ドアを開け、飄々とした様子で部屋に入ってきたのは別室で眠っていたはずのゴーシュだった。
「弟か…君がどうしてもというから連れてきてあげたのに。何を知っている。君は誰?」
男は不快げに言った。静かな、しかし濃密な殺意が立ち昇る。しかしゴーシュはそれを綺麗に無視して、ラウラを見つめて言った。
「目を覚ませ。僕の愉快なご主人様…ロゼ」
その刹那、ラウラの頭の中で何かが弾けたーー。
*****
「目を覚ませ。僕の愉快なご主人様…ロゼ」
僕がそう声をかけると、ラウラ…いや、ロゼ様の顔から、全ての表情が抜け落ちた。身体中から黒い湯気のようなものが立ち昇る。そうしてブルリと震えると、その場には先程までいた少女とは全く別の人物が立っていた。
真珠のような光を放つプラチナブロンドの髪に、まっすぐな緋色の瞳。誰もがひれ伏したくなるような圧倒的な存在感。
ついに目覚めた。
本物のロゼ様だ。
僕はその美しさに身震いした。
ずっと側で見守って来たとはいえ、元の姿を見るのは千年振りだ。
「ロゼ…」
公爵…いや、ロゼ様と同じ始祖のルシウス様は、その姿を見て掠れた声を出した。
全く、このお方の執着には呆れたものだ。…僕も後から知ったのだけれど、ルシウス様はずっとロゼ様のことを愛していたという。それこそ吸血鬼になる前の人間の頃から、ずっと。
だけど、ルシウス様の愛がしつこくてしつこくてロゼ様を疲れさせるし、おまけに嫉妬深すぎるのでロゼ様を束縛していた。だから、ついに僕のご主人様は怒って出て行ったらしい。
ルシウス様の追っ手をかいくぐりながらロゼ様は自由を謳歌し、友人もポツポツと出来たのだという。だけどそれに激しい嫉妬をしたルシウス様が、始祖の力を使い吸血鬼に根回しをして彼女を孤立させた。曰く、「彼女と言葉を交わし情を交わすのは私だけでいい」と。
ロゼ様は強い。それこそ吸血鬼の始祖の中でも2,3位くらいに食い込めるほど。だが残念、ルシウス様はまさかの1位だ。いや、絶望の1位。
吸血鬼社会は強さが全てだ。だからロゼ様より強いルシウス様の命令の方が優先される。いくらロゼ様が「友達になろう」と言っても、ルシウス様の「彼女に近づくな」という命令がある限り他の吸血鬼達は彼女の願いを叶えることが出来なかった。
一千年前、彼女は自分には友達がいない、陰口ばかり叩かれると嘆いていたけど、どれもこれもルシウス様の陰謀だったってことだ。
それを知らないロゼ様は、寂しさを紛らわせるためこうして人間になった。勿論、僕も面白そうだから一緒に人間になる事にした…ただし、僕の方は記憶を持ったまま転生を繰り返したけど。事前に僕と彼女の魂に組み込んだ術式のおかげで、僕は彼女と近しい存在として毎回生まれ変わることができた。
僕は記憶があったし、いざとなればいつでも吸血鬼に戻ることが出来た。だからこの千年間、色々と情報収集をしてきた。そのおかげで、ロゼ様とルシウス様のことに気づいたんだけど。
とにかくルシウス様は、ロゼ様が失踪されてから気が狂ったように彼女を探した…500年かけてやっとロゼ様が人間になった事を知ると、今度は血眼になって彼女を探し出した。諸国に圧力をかけて健康診断という形で一斉に血液検査をさせるまで、彼の行いは本当にひどかった。
片っ端から人間の血を吸って、彼女と同じ味がしないかと試していたんだ。確かに、魂が同じだと血の味も同じになるんだけど…。寒気がするね。
それからというものの、転生したロゼ様を見つけると、自分の屋敷に引き取って妻にした。成人したら始祖の力で、人間だった彼女を吸血鬼にしたんだけど、どうやらロゼ様の術は強固らしく吸血鬼になってもいつも80年くらいで死んでしまった。
その度にルシウス様は転生したロゼ様を探し、屋敷に引き取り、噛んで吸血鬼にする事を延々と繰り返して来た。もちろん、その後はルシウス様の想いを満たすため手錠をつけて、死ぬまで軟禁状態にした…。
僕はそれをずっと見て来た。
可哀想なロゼ様。人間としての人生を謳歌できたのは最初の500年だけだった。
「あぁ…やっと本当の君に会うことができた…!ロゼよ…ロゼ…!」
「…せっかくの遊びも貴様のせいで台無しだ!この粘着野郎‼︎」
滂沱の涙を流しながら抱きしめようとしてくるルシウス様に、すっかり記憶が戻ったらしいロゼ様が顔面キックをお見舞いしながら吠えた。
「クソッ不愉快だ。おい柊」
「はい、何でしょう」
「行くぞ」
僕は嬉しさで口元が緩みそうになるのを我慢して「はい」と言った。…無理やり表情を抑えたせいか、嫌そうな顔になったけど仕方がない。
人間のロゼ様と一緒にいるのも楽しかったが、久しぶりにこうして吸血鬼のロゼ様にお仕えできるのは身が震えるほど嬉しかった。ロゼ様といると、どうでもいい毎日ががらりと変わる。
「逃さない。また置いて行くの…?」
暗い目をしたルシウス様が、ゆらりと戦闘体制に入る。目を細めたロゼ様が、僕を見て頷いた。
僕も頷き返した。
逃げ切る自信は…ほぼない。
だけどロゼ様は何度も成功してるんだから、頑張ればなんとかなるかも知れないだろう?
「…行くぞ」
ロゼ様の掛け声に、僕は頷く。
万が一負けてもロゼ様と一緒に捕まればいいや、などと腑抜けた事を考えながら。
僕たちは戦闘に入った。