お月様と猫
*
瑠美は大きく息を吸い込むと、頭までお湯につかった。
ぷくぷく……ぷくぷく……
「ブハァ〜! やっぱり息は止められないよ」
浴槽の縁で、猫のルーが『何をやってるの?』と不思議そうにヘーゼル色の目で見ている。
ちょいちょいと白い手をつけて、ブルブルブルと湯を瑠美の顔にとばす。
「ルー! やめてよ! そんなにお風呂に入いりたいなら、入れちゃうぞ!」
浴槽のふちにチョコンと座っていたルーは、シャンプーが大嫌い。慌てて瑠美ちゃんの手が届かない場所に逃げる。
「シャンプーが嫌いなら、お風呂についてこなきゃ良いのに……」
そう言う瑠美ちゃんは、夕食の時から元気が無い。それが心配でルーはお風呂までついて来たのだ。
『何か悩んでるの?』
今年で十六歳になるルーは、十歳の瑠美ちゃんの保護者なのだ。
ぷくぷくの赤ちゃんだった瑠美ちゃんが、ハイハイしたり、よちよち歩いたりするのをずっと見てきた。
「泳げないの……クラスで私だけになっちゃった」
ルーは『なぁんだ!』とホッとする。人間は陸上の動物だ。
『泳げなくても良いにゃん!』
またお風呂の縁に来て『ニャン!』と鳴いたルーに、瑠美ちゃんは「かっこう悪いもん!」と愚痴る。
「夏休みの間、ずっとプールに通っているけど……息継ぎしたら、沈んじゃうの……だから、水中で息ができたら良いのに……でも、駄目だよね」
そう言うと、瑠美ちゃんはまた頭までお湯に浸かった。
ぷくぷく……ぷくぷく……ぷくぷく……瑠美ちゃんの涙も泡になる。
**
その夜、ルーは瑠美ちゃんのベッドからそっと抜け出した。勉強机にトンと飛びのると、窓を見上げる。雲の間からお月様が顔を出している。
『お月様、瑠美ちゃんが水の中でも息ができるようにして下さい』
お月様に年老いた猫の願いが届いた。
『猫や、人間の子どもは水の中では息はできないのだよ』
『そんなのは私も知っています。でも、瑠美ちゃんは泳げないので泣いているんです。ママやパパには内緒でお風呂の中で……私はもうすぐ瑠美ちゃんの側から離れます。だから、心配で……』
お月様は溜息をつき、風が運んだ雲に隠れてしまった。猫の愚かな願いを叶える事はできないが、人間の子どもを思う強さに何とかしてやりたくなった。
雲に隠れたお月様が出て来て『水の中で息はできないが、泳げるようにしてあげよう』と一筋の月光を瑠美ちゃんの寝顔に届けた。
『ありがとうございます』
ルーは『ニャン』とお礼を言い、瑠美ちゃんのベッドに帰った。
***
「ルー! 待って!」
青くきらめく海の中で瑠美ちゃんはルーを追いかけている。
『おかしいわ。ルーは水が嫌いなのに、なぜあんなに早く泳げるの?』
変だなぁ? と思いながらも、ルーを捕まえようと必死で追いかける。
ぷくぷく……ぷくぷく……ぷくぷく……
「息ができない!」
猫のルーは海の中でも平気そうなのに、瑠美ちゃんは海面に顔を出して大きく息を吸う。
『瑠美ちゃん! こっちだよ!』
ルーがシッポをパタパタして呼んでいる。瑠美ちゃんは、胸いっぱいに空気を吸い込んで、海の中のルーを追いかける。
『ルーを捕まえなきゃ、いけない気がする』
この前、ママとパパがルーがすごい年寄りだと話していた。猫の十六歳は人間の八十歳になるだなんて、びっくりだ。そう言えば、前はカーテンレールの上にも軽々とジャンプしていたのに、近頃は出窓にもよっこらしょって感じだ。
『ルーはそろそろ……そんなの嫌!』
赤ちゃんの時から一緒のルーがいなくなるなんて瑠美には考えられない。
何度も何度も海の上に顔を出して、大きく息をしてはルーを追いかける。
「捕まえた! ルー、ずっと一緒だよ!」
海の中のはずなのに、ルーはいつものフカフカのままだ。白いフカフカのルーの毛の中に顔を埋めて、その暖かさに瑠美ちゃんはホッとする。
『瑠美ちゃん、泳げるようになったね!』
そう言うと、ルーはぷくぷくと泡になって空へと上がっていった。
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「ルー!」
瑠美ちゃんはガバッと起き上がると、横で寝ているルーを抱き上げた。
「ニャン!」うるさそうに目を開けたルーをぎゅっと抱きしめる。
「良かった! ルー、ずっと一緒だよ!」
ルーはごろごろとのどを鳴らしたが、別れが近いのはわかっていた。
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十歳の夏、瑠美ちゃんは泳げるようになった。
十歳の秋、ルーはお月様の元へと旅立った。
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「今年の十五夜はルーが好きだったミルク団子をお供えしたのよ。ほら、このススキ……いつもタマを取っていたでしょう」
瑠美ちゃんは、縁側にススキとミルク団子をお供えした。
「ルー! ……ルー!……」瑠美ちゃんは、ルーがいないのが悲しくて仕方ない。
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『瑠美ちゃん……泣かないで……』
真っ白なうさぎがぴょんぴょん跳ねて、どこかへ逃げてしまったので、寂しくなったお月様は真っ白なルーと一緒に暮らしていた。
『お月様、瑠美ちゃんの元に帰して!』
『ここにいれば、あらゆる苦から逃れられるのに……それに、地上に降りたら今の記憶は無くなってしまう。それでも帰りたいのかい?』
『もちろんだニャン!』
お月様は真っ白な子猫を、そっと月の光に乗せて庭に送り届けた。
「ミュ……ミュ……」
「何処かで子猫が鳴いてる!」
瑠美ちゃんは、庭のサツキの植え込みの下で鳴いている真っ白な子猫を拾った。
「お前はルーなの? 違うわよね? でも、ルーにそっくりだわ。今度は私が世話をしてあげるわね」
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『やっぱり月にはうさぎがいないとなぁ……』
お月様は、お供えのミルク団子を一つ食べて、いなくなったうさぎを探すことにした。一人で夜空を照らすのが寂しくなったのだ。
おしまい