偉大なる女王ベルカーナの追憶
全ての始まりは私がちょうど12歳になって、1カ月後のことでした。
当時我がフェングランス王国は、王ヘンネリク8世の、唯一生き残っていた最後の嫡出子が逝き、重大な局面に立たされていました。
8人もいたはずの王子、王女。彼らはいずれも戦死あるいは病死し、王国は後継者の不在という事態に陥ったのです。
この時、ヘンネリク8世は41歳。まだがんばれば子供を望める年齢ではありましたが、それは世間一般での話。
往年の敵国、神聖ランファス王国との戦争――三十年戦争――で下半身に重傷を負った彼には、もはやそうするだけの能力がなかったのです。
かくして降りかかったこの問題に対して、貴族たちからは様々な意見が上がりました。
一番多かったのは、かつて他国へ嫁いだ王族……その子孫を据えようというもの。
その場合、その候補者はいずれも我がフェングランスの言葉を使うことができないでしょうが、逆に貴族にとってはそのほうがよいのでしょう。
次に多かったのは、貴族の中でも王家の血を引いている公爵家が王位に就くというもの。そもそも公爵家とは、王家が断絶した時のスペアですから、この判断が一番常識的でしょう。
しかし当時の我が国では、この選択肢は少々難しいものでした。なぜなら当代の公爵家は非常に仲が悪く、この選択をした場合、間違いなく国が割れることが誰の目にも明らかだったからです。
三十年戦争で疲弊した我が国にとって、内戦をする余裕などどこにもありません。そのため意見としては誰もが上げたものの、誰も頷きませんでした。幸い、本来なら権力を狙い互いに相食む公爵家当主たちも、さすがに自国を荒し、荒廃した領土を得ても無意味と判断できるだけの器はありました。
そして三つ目の意見。これによって、白羽の矢が立ったのが私でした。
ベルカーナ・アトルウォーシャ。それが当時の私の名前。アトルウォーシャは母方の姓であり、王族たるフェングランス姓は持っていませんでした。
そう、お察しの通り私は庶子なのです。母は三十年戦争の激戦地――終戦後、我が国に割譲――の出身の旧ランファス人。略奪によって接収された元敵であり、その身体もまた耳長の生粋なランファス人……エルフだったのです。
そんな母が、なぜヘンネリク8世のお手付きになったか……それは、私も知りません。最後まで母は語ろうとしませんでしたので。
ただ、世間で言われるような、性奴隷として扱われた様子はなく、欲望のはけ口であったという噂は、真実ではないと私は信じています。
……話がそれました。そんなわけで事情はともあれ、母は私を身ごもり出産しました。
が、生まれてきた私は当然ハーフエルフでした。純エルフに比べて短いとはいえ、人間に比べて長い耳はフェングランス人にとっては憎悪の対象。長年争ってきた敵の象徴なのです。だからこそ、私は庶子として王族からは除かれ……生まれてまもなく修道院へ送られることになりました。
そんな私になぜ、次期王位という望外の席が示されたのか? 答えは簡単です。この意見の提唱者が、時の王たるヘンネリク8世その人だったから。
果敢に敵と戦った勇猛な王であるヘンネリク8世ですが、やはり彼も人でした。血の上でも距離の上でも遠い遠い、顔も知らぬ親戚に王位を譲るくらいなら……庶子とはいえ自らの子供に譲りたいと思ったのでしょう。
幸い、フェングランス王国の王室典範は男系に拘泥しません。あくまで血筋のみを重視する規則のため、性別はもちろん、種族すら記載されていませんでした。この辺りは暗黙の了解で無視されるのですが、記載されていない以上正しくは「そう」です。王は、この暗黙の了解を無視したのです。
当然、多くの貴族がこれに反対しました。しかし王はその強権を用いてこれを封殺。それだけならば頑健な抵抗もあったのでしょうが……。
王室典範の管理者にして権威の裏付け……そして、修道院という己のホームで育った人間を王位に就けたいという野望を持ったケルマス教が、王に味方。これにより王は、自らの意見を通したのでした。
かようなやり取りの結果、遂に私は生まれてからのすべてを過ごした修道院を出て、王都ロムドリアへ向かうことになりました。最後の嫡出子が亡くなってから、1年後……私が13歳の春のことです。
もちろん、当時の私にそのような事情を察することはできませんでした。ただ、生まれて初めて修道院から出られるということ、それから生まれて初めてお父様に会えるということ。それがとても楽しみだったことは、よく覚えています。
護衛は近衛騎士団と神殿騎士団からそれぞれ一団が動き、総勢1500騎という軍勢がつき。私は母に見送られて修道院を発ちました。
旅路は順調でした。二つの騎士団に守られた王族を襲撃しようなどというものなどいるはずもなく、穏やかな旅路が続きます。
けれど、そんな誰から見ても万全であった軍勢は、脆くも崩れることになります。
きっかけは、空から飛来した3匹のワイバーン。空という絶対的に優位な場所から襲ってくるモンスターは騎士団の虚を突き、彼らは出鼻を盛大にくじかれたのです。
続いてクレイジーカウの群れが襲い掛かり、さらにはワイルドエイプの群れまで現れました。ワイバーン3匹だけなら、なんとか立て直せたのでしょうが……ここまで追い打ちをかけられては、ひとたまりもありませんでした。
まして騎士とは対人戦のプロ。モンスターを専門に戦う退魔士たちとは違うのです。勝手の違う相手にさんざん苦戦し、私たちは追い散らされてしまったのです。
それでも、この時はまだそこまでの恐怖はありませんでした。怖くなかったとは言いませんが、私は直接モンスターを見たわけでもないし、攻撃にさらされたわけでもなかったのですから。
本格的に身の危険を感じるようになったのは、這う這うの体で逃げこんだ森の中から。
そこにはなぜか武装した人たちが隠れており、私たちはこれに襲われたのです。
地の利を生かして徹底的に、確実に殺しに来ていた彼らの攻撃に、騎士たちは一人、また一人と減っていき。遂には馬車も壊れ、私は外に投げ出されてしまったのです。
それからは、ただただ恐怖しかありませんでした。敵は姿も見えないのに、次々に動かなくなる味方。まだ13歳の少女でしかなかった私には、耐え難い恐怖でした。
けれど、本当の恐怖はここからでした。急に攻撃が止んだのです。
それを、何事だといぶかしむ騎士たちの前に現れたのはデスウルフの群れと、それに追い立てられる敵たちでした。
モンスターにとって、人間の所属など関係ありません。私たちはその獲物でしかなかったのです。
そうしていよいよ私と、かろうじて神殿騎士団の騎士の一人、ゲイルだけとなりました。しかしそのゲイルも利き手を噛みちぎられ、今にも死にそうな状態に。
私は1人デスウルフたちに囲まれてと、絶体絶命でした。私の人生で、この時以上の危険、恐怖は二度となかったと断言できます。
私はあまりにも恐ろしくて恐ろしくて、泣くことも叫ぶこともできませんでした。恐怖で失禁してしまい、せっかく用意してもらった旅装など、もはや見る影もありません。
ああ、死ぬんだ、と。そう思いました。
けれどそうはならず――。
「太陽風!」
そんな声と共に、突然数匹のデスウルフが吹き飛ばされました。次いで、群れのただなかに人影が一つ、飛び込んできます。
「とーりゃあぁーっ!」
雄叫びと共に現れたその人物は――女の子でした。私と同じくらいか、少し上くらいの。
けれどその女の子は、臆することなくデスウルフに立ち向かい――今でも驚かれるが、素手でだ――、瞬く間にそれを撃退してしまったのです。
もちろん、すべてを倒したわけではありません。実際に彼女が斃したデスウルフは4匹で、せいぜい群れの半分以下でしかありませんでした。
けれどもその戦いぶりから、デスウルフたちは継戦を諦め撤退を選んだのです。
「ふぃー、危ないトコだったねー。大丈夫だった?」
そうしてモンスターたちがいなくなってから、彼女はそう言いました。私を怖がらせないように優しく笑いながら。
この時の彼女の顔を、私は死ぬまで忘れないでしょう。人懐こい、太陽のような明るい笑顔でした。
それがまたあまりにもまぶしくて、けれど優しくて。私は自分がお漏らしをしていたことも忘れて、彼女に号泣しながら抱きついてしまいました。
けれど彼女は私を邪険にすることもなく、ひたすら、ただひたすら私を気遣い続けてくれました。私の汚れた下半身にも気づいていて、それを魔法で知らないうちに浄化してくれるほどに、ずっと。
そして実は私だけでなく、ゲイルにも治療を行っていたのですが……あいにくと、私がそれらに気が付くのは、もっとずっと後のことです。
これが私と彼女――ミュウ・カスガイと名乗る不思議なお姉様との出会いの顛末でした。
****
ミュウという少女は、不思議な人でした。どこが、何が、と言われれば、すべてが、と答えられるほどには。
彼女は、鮮やかな水色の頭髪と瞳を持っていました。けれど、その色はエルフにのみ顕れるのもの。なのに彼女は、見た目は間違いなく普通の人間でした。
彼女は、見たこともない衣服をまとっていました。彼女の頭髪と同じく水色を基調にしたかわいらしい服。逆三角形が二つ並ぶ形の襟は白く、そこに走る水色のラインがいいアクセントになっています。
スカートには等間隔でぎざぎざに折れ曲がった、見たこともない形。二の腕には、鮮やかなエメラルドグリーンの腕輪が服の上から。靴もまた、とてもきれいに、そしてしっかりと仕上がったものでした。
その服装を彼女は、
「中学時代のセーラー服に魔改造がかかった感じだねー」
と評していましたが、当時の私には……いえ、今の私でもよくわかりません。
ともあれそんな恰好だけではありません。彼女の不思議はまだあります。
彼女は出会った当初、何も持ち歩いていなかったのです。武器はもちろん、着替えや食料すらなかったのです。その体で、
「遠いところから旅してきててー」
と言うのですから、ゲイルが相当に胡散臭いものを見る目で見ていたのを覚えています。私も、きっと似たようなものだったでしょう。
そして極めつけに、どうして一人で森の中にいたかを問えば、
「あははは、実はウチの転移魔法って森にしかできなくってさー」
などというのです。もうわけがわかりません。
そもそも転移魔法などという大それた魔法は、個人で使えるような気楽なものではありません。
しかもその存在は、ケルマス教のみが持つ秘儀中の秘儀。そんなことをあっけらかんと言い放つ彼女に、宗教人であった私やゲイルは唖然としたものです。
それでも私たちが彼女を受け入れたのは、彼女に助けてもらったことが大きいです。
それに、明らかに彼女は並みの人間ではなく、退魔士としてかなりの実力を持っていたわけですから。妙なところはありますが、頼っても……いえ、頼るしかなかったのでした。
「……ふーん、じゃあベルちゃんはお姫様なんだ。都に護送してる最中にモンスターに襲われて、ここでも刺客に襲われて、か……そりゃあ大変だったねえ。で、そんなベルちゃんたちのところにウチがたまたま通りかかったってことか……」
彼女の言葉遣いは気安いものでしたが、ゲイルはそれを咎めはしません。
彼は敬虔なケルマス教信者です。私の護送に就いていましたが、彼が剣をささげるのはあくまで神とその信徒なので、王族としての私にはそれほどの敬意は必要ないのです。
「……異世界巡りを続けて17回目にして、やっとテンプレ展開かあ。ここまで来ると逆に心配になるなあ」
そしてよくわからないことをぶつぶつとつぶやくミュウ。とにかくそんな調子で、彼女は他とはまるで違うタイプの人間だったのです。
それでも私が彼女に懐いたのは、やはり窮地を目の前で救ってくれたからでしょう。あの時の私には、彼女が物語の英雄のように見えていたものです。頼りになるお姉様。そんな認識でした。
「……このようなことを言うのは差し出がましいのだが。姫殿下をお連れするために力を貸してほしい。利き手を失った自分一人では、到底……」
「いいよー」
まあ、ゲイルの依頼をさも軽いものだと言わんばかりにあっさり承諾する様が、本当に頼りになるのかと言われれば……今ならいいえと答えますけど。
あの当時の私は、それを純粋にかっこいいと思っていたのですから、本当に幼かったんだなあと思わずにはいられません。
「あの、あの、お、お姉様ってお呼びしても、いいですか?」
「へ? あははは、いいよ! ウチでよければどんだけでも」
「はい、あの、よ、よろしくお願いしますお姉様!」
「うんうん、こっちこそよろしくね、ベルちゃん」
そう言うと、お姉様は優しく私を抱きしめてくれました。その身体は、お母様とはまた違った温もりがあって……うまく言えませんが、すごく幸せな気分になって、どきどきしたのを覚えています。
偶然に偶然を重ねた成り行きでしたが……私はこの日、お姉様という生涯忘れ得ぬ大切な人と出会ったのです。
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お姉様は見た目や素性も不思議な人でしたが、何より不思議だったのはその能力です。
見た目は私とさほど変わらない人――私たちには16歳と申告しました――なのですが……。
身体能力が、デスウルフと戦える域にあることは既にご承知の通り。けれどそれにとどまらず、多種多様な魔法にも通じていました。
最初に私たちが見たのは、野営のための火を用意した魔法。さらに身を清めるための浴場を作った土の魔法。次いで、飲み水や身体を洗うための水を出した魔法。洗った髪や衣服を乾かした風の魔法……他にも他にも。
普通魔法というのは、属性ごとに適正が分かれてて使える魔法使えない魔法がはっきりと分かれるものです。属性は色々たくさんありますが、どれだけ多い人でも4つがせいぜい。魔法に長けたエルフでも、6つくらいでしょう。
なのにお姉様は、すべての属性――回復を含む――を使いこなしたのです。そんな人は、聞いたことがありません。
それだけでも驚きなのに、さらに私たちを驚かせる魔法をお姉様は何事もなく使います。それは、錬成魔法です。
錬金術とも呼ばれるこの魔法は、この当時ようやく認知され魔法体系の1つになった新しい魔法でした。なのにお姉様は、それをやすやすとやってのけたのです。
「えーっと、【除去】して、【結合】に【縫合】と……あ、【保護】もいるっけ。それから【付与】で……仕上げに【定着】っと。よし、アイテムバッグ完成ー!」
夜。森で初めての野宿をすることになったこの日、私たちを手際よく洗って一段落した後に、お姉様はデスウルフの皮から鞄を作りました。
私たちはすることもなかったので、その様をずっと眺めていたのですが……ものすごく緻密で丁寧で、何より迅速な作業に、ゲイルの目が点になっていました。
「……今……アイテムバッグと言ったか?」
「ゲイル様、アイテムバッグってなんですか?」
「見た目よりもたくさんものを入れられる魔法の道具ですよ。しかしそのほとんどは遺跡からの出土品で、人の手で造れるものではないはずですが……」
「すごい! 本当ですか!?」
「試してみよっか? たとえばえーっと……」
ゲイルの探るような視線と、私の期待に満ちた視線を受けて、お姉様は笑いながら立ち上がります。そのまままっすぐ打ち捨てられていたデスウルフの死体に近寄ると、それを無造作にバッグの口に放り込みました。
既にこの段階で、バッグよりも大きなものがその中に入ったことになります。その光景に、私は思わず拍手しました。
「わあっ、すごいわ!」
「でしょー?」
お姉様はそれに、えっへんと誇らしげに胸を張ります。けれどすぐにばつが悪そうに頭をかきました。
「って言っても、急ごしらえの粗悪品だから、もう今のでかなりいっぱいになっちゃってるんだけどね。街に着いたら腰据えてじっくり作りたいなあ」
「これで全然なんですか!」
「そうだねー、ウチが今まで作った中で最高傑作は、城がまるごと入った奴があったかなー」
「えぇぇっ、すごーい!」
「はっはっは、もっと褒めてもいいんだよ?」
顔をほころばせながら照れるお姉様でした。
そんなお姉様を見ていて、私も錬成魔法を使ってみたくなりました。色んな物を作る魔法、というくらいにしか知らなかった魔法を目の当たりにして、好奇心がそれはそれは刺激されたのです。
「お姉様、私にもその魔法教えてくださいっ!」
「うん、いいよ。でもウチ、教えるの得意じゃないけど……それでもいい?」
「はいっ、お姉様に教えてもらいたいです!」
「おっけー、それじゃベルちゃんこっちおいでー」
「はーい!」
快諾してくれたお姉様の隣に座って、私はお姉様の魔法講義を聞きます。
けれどこの日は、あまりに激しい一日だったおかげでほとんど頭には入りませんでした。直前まで眠気が来なかったのは、良くも悪くも精神が高ぶっていたからなのでしょう。
気づけば私はお姉様にもたれかかる形で眠り込んでしまったのでした。
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お姉様が人並み外れた能力はこれだけではありません。これに加えて、彼女は神聖魔法すら使うことができたのです。
読んで字のごとく、この魔法は神聖な力を用いる魔法。そしてこの魔法は、神への祈りをささげ、深く厳しい修行をこなした聖職者にしか使えない魔法なのです。
それをお姉様は、いとも簡単に使ったのです。生まれた時から修道院にいる私や、敬虔な神殿騎士であるゲイルよりも高い水準で。
それを見たのは一夜が明けて、森の出口も近くなった頃。私を守るために力尽きた騎士たちや、それと戦って命を落とした刺客たちが倒れている場所に差し掛かった時です。
累々と連なる死体の山を見たお姉様は、死体をそれぞれ検めていくつかの道具を拝借すると、その後死体をすべて浄化したのです。
浄化……死体を清め、アンデッドモンスターにならないようにすることですが、これは並みの聖職者にはできません。だからこそ、多くの人や家畜は火葬にされるのです。
しかしお姉様はそれを、なんと周辺全体に使うという信じられないことをしたのです。これは明らかに、教皇様くらいにもならないと使えない大魔法のはずなのですが。
「ついカッとなってやった。今は反省している」
そう言いつつも、悪びれることなく笑うお姉様でしたが。私たちはそれどころではありません。
最難関の魔法を難なく使ったお姉様の姿は神々しく、慈愛に満ちた太陽のようで……愕然とするやら呆然とするやら。
いえ、私は改めて見た死体の山に私は強いショックを受けていたので、それこそそれどころではなかったのですが。
ゲイルがお姉様の御業に、聖女様と呼ぶようになったのは複雑な気分でした。
そう呼ばれるのはあまり好きじゃないのか、お姉様は苦笑しっぱなしでしたけど。
それでもお姉様は、わりと遠慮なく神聖魔法を使っていました。モンスターを極力避けるために、常に周囲に聖なる力を放ち続けていましたしね。森から出るために、方角を知る魔法もその応用らしいです。
ともあれ、錬成魔法に加えて、神聖魔法も教えてほしいと私がせがんだのは、当然の流れと言えるでしょう。
お姉様は、やはり快諾してくれました。それからは、歩きながらいろいろなことを教えてもらうことになりました。
過酷な環境で生き抜くためのサバイバル技術は、この時お姉様から教わったことが大半。この知識がなければ、恐らく今私はこの手記を書いていないでしょう。
また話が逸れてしまいましたね。
やがて森の木々がまばらになってきたところで、私たちは壊れた馬車を見つけました。私が乗っていた馬車です。
けれど馬はとっくにおらず、その中身もぐちゃぐちゃに荒されていました。森に逃げ込んだ時に樹にぶつかったので、車軸も壊れていて使い物にならないでしょう。とても悲しい気持ちになりました。
「……大丈夫、ベルちゃんが気に病むことなんてない。それに壊れてなかったとしてもさ、どっちみち引くお馬さんがいないよ。だから、ね」
「……はい……」
よしよしと私の頭をなでるお姉様の手は、とても暖かかったです。
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それから、私たちの徒歩での旅が始まりました。
本来であれば、修道院から王都ロムドリアまでの道のりを、馬車で10日で移動する予定でした。けれどそれができなくなったので、私たちの旅はその3倍くらいは覚悟する必要が出てきました。
私は修道院から一歩も出たことのない箱入り娘でしたが、修道院では修道士として様々な労働をしていました。なので、普通のお姫様より体力はあったと思います。お姉様もゲイルも、「意外と歩ける」と褒めてくれましたし。
問題は食料と服です。服は、結局お姉様が錬成魔法で新品同前まで直してくれたのでなんとかなりましたが、食料ばかりはどうにもなりません。
食べ物になるものがそこらに転がっているはずもなく、最初の街に辿り着くまでの3日ほどはとてもつらい道のりでした。
……デスウルフのお肉は、できればもう二度と食べたくありません。
最初に辿り着いた街は、本来であればあの日の日暮れ前には着くはずだった城塞都市。その昔、我がフェングランス王国が一つでなかった頃の、都の一つです。
ここに入った私たちでしたが、お姉様とゲイルの意見で私の正体は隠して行動することになりました。
なぜなら、あの日お姉様が浄化した刺客たちの中に、モンスターをおびき寄せるお香を持ったモンスターテイマーがいたのです。しかもそのうち数人は、騎士崩れ――三十年戦争で没落した元騎士――と示す剣を持っていました。
確証はありませんが、私の命を狙っている人間がいる。お姉様とゲイルはそう判断したのです。幸い、王家の血筋を示すもの……ペンダントは胸元に入れていればよかったので、それはさほど難しいことではありませんでした。
そんな事情はさておき、私は生まれて初めての街で舞い上がっていました。大勢の人ごみ、嗅いだことのない香ばしい香り、聞いたことのない言葉……。
そのどれを取っても私には初めてのものばかりで、完全におのぼりさんになっていました。
ただ、この時私はまったく思ってもいなかったのですが、私はハーフエルフです。周りからの視線は険しく、冷淡なものでした。お姉様も見た目は耳が普通なだけで、エルフの特徴を持っているので余計です。
宿屋でも法外な値段をふっかけられた、というのは後で聞いた話ですが……お姉様はにこにことした顔を崩すことなくきっちりとお金を払っていたようです。
ちなみにお金ですが、お姉様が錬成魔法で作ったものです。刺客たちが身に着けていた金属部品からさまざまな金属を抽出して、彼らが持っていたお金を複製したのです。
道中で彼女は何気なくやっていましたし、私は単にすごいすごいと言いながらやり方を教わっていたのですが、今になって思えば間違いなく贋金鋳造です。大罪ですね。これ以上は何も言いません。
それはともかく、私たちの旅はそんな感じで、周りからの悪意に振り回されることになりました。
街では行く先々で因縁をつけられたり、さらわれそうになったり、暴漢に襲われそうになりましたが、大体はお姉様がすべて返り討ちにしました。
ゲイルは利き手を無くしていたので、表だって戦うわけにはいきませんでしたから。彼はそのたびに身を挺して悪意から守ってくれました。その大きな身体は傷だらけになっていき、申し訳なさをずっと感じていたのを覚えています。
「お、またテンプレみたいなやつが来たなあ」
ただ、そんなことを言いながら笑っていたお姉様が頼もしすぎて、私の気持ちがゲイルに向かなかったのは……のちの政治的な視点をすれば、よかったのかもしれませんが……。
そのお姉様は、相手を殺すことは絶対にしませんでした。どんなに無体な相手であっても、黄金の輝きを宿した拳だけで相手をするのです。
これは聖なる力を放出して体内に送り込み、生命力を暴走させて全身を麻痺させる……という、武僧が使う神聖魔法です。生命体には高い威力を発揮しますが、決して殺さない。そんな魔法です。なんて慈悲深い人なのでしょう、と思ったのを覚えています。
「この子に指一本でも触れてごらん。そしたら次は全力で波紋……じゃない、魔力叩きこむから覚悟するんだね」
「すいませんでしたァーッ!!」
一目散に逃げていく暴漢たち。それをただ見逃すお姉様。
そんな感じで何度も助けられた私は、お姉様への尊敬をさらに深めました。頼もしくて、かっこいいお姉様。私の気持ちが尊敬から違うものへ変わっていくのに、さほど時間はかかりませんでした。
****
この頃、私は素敵なお姉様にふとどうして旅をしているのかを訪ねたことがあります。
私の質問に、お姉様は少し照れたように笑ってこう答えました。
「大切な人を探してるんだ」
「大切な、人?」
「そう、大切な人。ウチが心に決めた大切な人」
この時のお姉様の答えに、胸の奥がずきんと痛んだのをよく覚えています。苦しくて切なくて、身体の奥底がかあっと熱くなるような、そんな痛み。
まだ成熟しきっていなかった私には、それがもしかしたら病気なのではないか、そんな風に思ってしまったものです。
ええ、今ならその理由はよくわかります。それがなんだったのかもよくわかります。恋、ですね。そして、嫉妬でしょう。
その気持ちはやがて、お姉様からその「大切な人」のことを聞けば聞くほど大きくなりました。
だって、お姉様がその「大切な人」を語る時、その笑顔は蕩けていました。まるで自慢するかのように、その人を語るお姉様は……いつもの頼れる優しいお姉様ではなく……そう、恋する乙女のそれでした。
私はそんなお姉様を見るのがなぜか辛くて、やがてお姉様の前に立つのも辛くなってしまいました。
自分の気持ちに気づけないまま、私たちの旅は続き――いつしか私たちの旅は終わりを迎えました。
王都ロムドリアに辿り着き、私はそのまま父ヘンネリク8世の嫡子として迎えられたのです。
お父様は、思っていたよりも優しそうな顔立ちの方でした。勇猛果敢に戦場に立っていたと聞いていたので、それこそクマか狼のような、おっかない人だと思っていたのですけど。
下半身不随となったお父様は、最初は少し遠慮がありましたが、言葉の端々にお母様との絆が感じられて、私は少しずつお父様に心を許していきました。
そのうちに私は立太子の儀式を済ませ、ベルカーナ・フェングランスとなり。今まで経験したこともない、政治のあれこれを学ぶことになったのです。
その間ゲイルは聖騎士からは外れましたが、高位の聖職者として迎えられ、教会へと戻っていきました。
そしてお姉様はというと、お父様たっての願いで王宮に滞在することになりました。
たった一人残った娘の命を守り、都まで連れてきてくれたお姉様に、お父様はいたく感激したのです。そうして、どうか気の済むまで滞在してくれて構わない、とまで言いました。
「明確な予定は決めてないですけど、たぶん1か月か2か月くらいでいなくなると思いますから」
そう言ってお姉様は、遠慮なく王宮に留まりました。
ですが、そんなお姉様を多くの貴族は歓迎しませんでした。
無理もありません。素性がわからないのももちろんのことですが、お姉様はエルフと近しい見た目の持ち主。しかも、王族はおろか貴族に対してさえざっくばらんな態度を崩さなかったのですから、礼儀作法にうるさい貴族たちには、さぞ鬱陶しい存在だったことでしょう。
別に、お姉様は礼儀を知らないというわけではなかったのですが。ただ、この国とは無縁の人なので、この国特有の作法を知らなかっただけなのです。相手を敬うという気持ち自体は、ちゃんとありました。
あとは……そうですね、本来であれば死んでいたはずの私を助け、王都まで連れてきた恩人でもありました。だからこそ邪険にされたのは、否定できないでしょう。
私への襲撃が、実はとある貴族派閥の一計であったことが知れるのはかなり先のことになりますけどね。
ただ、そのすべてをお姉様はなんなくいなしていました。
一番すごかったのは、あれだけ作法を知らない無礼者だと言われていたお姉様が、半月も経たずにあらゆる作法をすべて、完璧に覚えてしまったことでしょうか。
これで貴族たちは完全に口を閉ざしました。目に見える問題点がそれしかなかったのですから、当然です。
お父様が積極的にお姉様をかばったのも、大きかったですね。それだけの権威が、老いたとはいえお父様にはありました。
これ以降、お姉様に対してはものを要求したりとか、決闘を申し入れたりというものがほとんどになりました。どんな無理難題を吹っ掛けられても、すべてこなしてみせるのですから、やはり貴族たちは黙るしかありません。
ですが、私は少し不満でした。お堅い作法にのっとった、婉曲でわかりづらい言い回しをするお姉様が、なんだかお姉様じゃないみたいで。
私が慕っていたのは、王侯貴族はおろか、庶民にだって亜人にだって分け隔てなく接するお姉様でした。ですから、この頃の私はお姉様にそんなわがままを言って、困らせていた気がします。
****
そんな私がお姉様への気持ちをはっきりと自覚したのは、それからひと月ほどして。
お父様からお見合いのお話が舞い込んできた時のことです。
もちろん、将来のことを考えれば私は結婚しなければいけないでしょう。そして子をなして、世継ぎを産むこと。女にできない仕事です。
フェングランスの過去の歴史では、女王として君臨しながらも自ら子を産み育てたという、稀代の女傑も存在します。そういう存在になることが、私には求められていたのです。
ですが、お見合いで渡される殿方の姿絵には、私一切興味がわきませんでした。
そして何より、結婚という言葉を聞いた時に最初に脳裏に浮かんだのは、お姉様の姿だったのです。
まさかとは思いました。
だって、ケルマス教では同性愛は禁じられています。それは不毛な事であり、神が定めたこの世の摂理に反することだからと。
そして私は、そのケルマス教の修道院で育った身。そんな私が、まさか女性に恋慕するなんて。
……ですが、そんなはずはないと思えば思うほど、私の中のお姉様への気持ちは大きくなっていきました。
お姉様、お姉様と夜毎に想いを募らせ、満たされない心をせめて慰めようと、覚えたばかりの自慰を一体幾度したことか。
これが恋という感情なのかと悩みながら。
あるいは、私に神へお仕えする資格などないとなげきながら。
そのくせ、禁止の理由を理解できず、神などいらないと言ってみたり。
とにかくこの頃の私は、情緒不安定に陥っていたのだと思います。
そんな私を救ってくれたのは、やはりお姉様でした。
****
「ベルちゃん最近様子が変だけど、なんかあったでしょ」
不意に部屋にやってきて、お姉様が開口一番にそう言った時のことは、今でもよく夢に見ます。
最初は驚いて硬直して、次に慌てて両手を振って否定をして。
ですがそんな一連の挙動は、お姉様に言わせれば
「はっはーん、やっぱなんかあったんだ」
と看破するための材料でしかありませんでした。
それからも多少は抵抗した私でしたが、結局私はお姉様に秘めた想いを告げることにしました。
けれど、いきなり吐露するには勇気が足らず、
「お姉様は、その、ど、同性同士のれ、恋愛……って、どう、思いますか?」
そう私は尋ねました。
「普通じゃん?」
返事はすぐでした。
あまりにもあっさりとした答えだったので、私は耳を疑ったものです。勇気を振り絞った私の決意はなんだったのかしら、なんて思いました。
「好き嫌いに男も女もないよ。性別だろうが種族だろうが、こまけぇこたぁいいんだよ」
ひらひらと手を振って、お姉様は言います。
「好きなものは好きだからしょうがない! そこに理屈なんかあるもんか。そうでしょ?」
「……はい」
にっこりと笑うお姉様に、私は頷くだけでした。
ああ、お姉様はこんなにも強くて、まぶしい。こともなげに世界の摂理に真っ向から挑めるなんて、こんな人がかつていたでしょうか?
好きなものは好きだからしょうがない。本当に、そうです。
たとえお姉様が心に決めた人がいるとしても、私は、私はお姉様のことが。
「あの、お姉様……私」
「なーに?」
そっとお姉様の身体に身を寄せて、そのかわいらしいお顔を見上げる私。
優しげな表情を崩すことなく、私を受け入れてくれるお姉様。
その青い瞳に、私は意を決して。
「わ、私、お姉様のこと、お、お慕い申し上げております……」
「……およ?」
「あ、愛しているんです……お姉様を……お姉様を、どうしようもなく、私……!」
「え? あ、ちょま、タンマタンマ。え、ウチ? ウチなの?」
私はこの時、初めてお姉様の慌てふためく姿を見たと思います。
ですがその時の私に、それを気にする余裕はありませんでした。本当に、一生を賭けたくらいに、覚悟を決めた告白だったのですから。
「あ、ちゃー。ウチかあ……そっかー、うーん……ベルちゃん、ごめん」
「えっ……」
「ほんっとごめん、ごめんね。ウチ、もうあんまり長くないんだ」
「……っ!?」
だというのに、返ってきたお姉様の告白に、私は雷に撃たれたような気になりました。
長くない? お姉様が? どういうこと?
混乱するばかりの私を、お姉様がかき抱きます。そして、ぽつりぽつりと、耳元で私に語って聞かせてくれたことには。
「ウチね、実はこの世界の人間じゃないんだ。夢の世界から来たんだよ」
「夢の、世界……?」
「そう。夜、寝てる時に見る夢の世界。でも逆に、この世界はウチにとっての夢の世界で……ウチの夢がリンクしてるからこそこうやって存在できるだけなんだ」
「……そんな……」
「そもそもおかしいでしょ? 16歳の小娘が、あんなにたくさんのこと完璧にこなせるなんてさ。じゃあなんでって、それは夢だからなんだ。こうだったらいいなっていう、夢だから。
……今のウチはね、ちょっと絵やお話しづくりが得意なだけの高校生が見てる、『理想の自分』でしかないんだ」
自嘲気味に笑いながら、お姉様は空中に絵を描きます。魔法と同じ光の粒子で描かれたそれは、私が普段見ている絵画とはまるで異なる、かわいらしいものでした。
「……だから、ね。ウチを好きになってくれるのは嬉しいんだけど……でも、ベルちゃんにはもっと大切な出会いがあるはずだよ。ただの夢に夢を重ねるより……もっと幸せな現実が、あるはずだから」
「い、いや、いやぁ……! そんなの、だって、現実なんて、夢よりもっと怖いもん……!」
「ベルちゃん……」
「お母様も死んで、私も死にかけて、あっちこっちで戦争があって……! そんな怖い現実なんかより、私、私ずっと夢を見ていたいわ……!」
「……夢は、いつか覚めるものなんだよ。だから、夢って言うんだよ」
「やだ……やだぁ……! お姉様ぁ……!」
ぎゅうぎゅうとお姉様を抱きしめる私。そこには確かにお姉様の温もりがあって、お姉様の匂いがある。
それが夢で、そう遠くない未来に消えてしまうなんて、そんなのとても我慢できそうになくて。
「……いっそ、ウチのこと忘れてくれれば楽なのかもしれないけどねえ……。ウチが消えてもウチが起こしたことは、この世界にとっては現実だからなあ……」
そんなつぶやきが聞こえました。
そう、いっそ忘れられればいいのに。まさにそう思っていた私は、そこで遂に我慢できず声を上げて泣いてしまいました。
それでもお姉様は、汚れることもいとわずただ私を優しく受け止め続けてくれていたのです。
****
それからの私の生活は、お姉様との思い出づくりに費やしました。
泣いて、泣いて、一晩中泣いて、お姉様に添い寝までしてもらって夜を明かした私は、どうしようもない現実を受け止められず、でもお姉様を諦めることができなくて、とにかくお姉様にそばにいてくれるようにお願いしたのです。
お姉様はそれを受け入れてくれました。そして、どんなことにも付き合ってくれました。
いろんなことをしましたが、私が興味を持ったのはお姉様の世界のこと。
その世界には魔法がなくって、デンキという力を利用した機械で色んなことを賄っているんだとか。
でも実は魔法は隠れて存在していて、お姉様はそんな魔法使いの友人に頼んで夢の世界を旅させてもらってるんだとか。
お姉様はまだ成人していなくて、学校に通っている一般人でしかないんだとか。
そんなことを、色々と聞いて、色々と教えてもらいました。
興味深かったのは、お姉様の世界のとある国に昔いた女王様。一生独身ですごしたその人は処女王と贈り名されたすごい人で、「国家と結婚している」と宣言して、国を盛り立てたんだとか。
夢の世界には、やっぱりすごい人がいるんだと思いました。そして、お姉様と絶対に結ばれることがないなら、いっそ私はこのフェングランスと結婚してしまえばいいのかな、とも。
お姉様は、結婚する機会があるんだったらしておいたほうがいいんじゃないかって言いましたが、それができるなら私はお姉様と結婚したかったです。
そうそう、お姉様の世界の結婚についても聞きました。お姉様の世界では、女性は真っ白なドレスを着るそうです。それで、神様の前で指輪を交換して、一生の愛を誓うんだとか。
素敵な話だと思いました。
そして私は、それをやりたいと……ダメでもともとで言ってみました。
お姉様はそれに困った顔をしました。自分には心に決めた人がいるから、と。
でも、私はどうしても、どうしてもとわがままを言って、無理やりにお姉様に頷かせました。
悪いことをしたとは思います。でも、お姉様がもう少しで消えてしまうんだと思ったら、止まれませんでした。
それから私は、お姉様と一緒に錬成魔法で指輪を手作りして、交換し合いました。私の作ったのは、明らかに不出来でしたけど。でも、お姉様は大丈夫と受け取ってくれました。
そして。
そして、式の真似事ではありましたが、私はこの時初めて、お姉様と口づけを交わしました。
胸がどきどきと高鳴って、うるさいくらいでした。顔が真っ赤になって、熱かったのを覚えています。お姉様の唇は柔らかくて、傷一つなくて、果物のようでした。
お姉様にそんなつもりはなかったとは思いますが……私はこの時、お姉様と結婚したんだと心に刻みました。他の誰でもない、この世のどんな殿方に対しても、またあるいは女性に対しても、私は絶対になびかないと決めたのです。
****
それから……それから4日後のことでした。お姉様の身体が、突如透けるようになったのは。
不定期に明滅するかのように、お姉様の身体が半透明になるのです。そしてその頻度は、だんだん増えて行きました。
お姉様が言うには、あちらの世界でお姉様の身体が目覚めようとしているのだとか。お姉様の眠りが浅くなってきていて、少しずつ、でも確実に、現実に戻ろうとしているのだとか。
「いつもの感じなら、あと10日くらいかなあ」
そう言って、お姉様は寂しそうに笑っていました。
死ぬわけではないので、彼女に悲壮感はありませんでしたが……それどころではなかったのが私です。
いよいよ現実味を帯びてきた、お姉様との別れ。それを否応なく見せつけられて、ショックだったのです。相当に取り乱しました。
お姉様はこの症状が出た直後、人前に出なくなったので、恐らくお姉様のこうした状態を知っている人間は、当時でもほとんどいなかったでしょう。
だからこそ、世間では私に何かよからぬことがあったようだと思われていたようです。……まあ、大体その通りです。
嫌だ嫌だと、散々にわめいたことを覚えています。ですが現実はどうしようもなく、お姉様の透明化はどんどん進んでいきました。
まだ触ることはできましたが、それすらもいずれできなくなるのだと聞いて、私はもう、正常な精神状態ではありませんでした。
「お姉様っ、最後にっ、最後にっ、私を抱いてください゛ぃぃ……!」
あふれる涙を隠すこともなくそう言ったのは、あるいは若気の至りかもしれませんが。
それでも、悩みながらも、そんなみっともない私に応えてくれたお姉様の温もりは……この先何があろうと、私は絶対に忘れないでしょう。
そう、死ぬ瞬間まで……いえ、死んでもなお、絶対に。
そうしてそれこそ夢のような夜が過ぎ、幾度となく快楽の波に溺れた私の前で、お姉様が最後に見せた微笑みも、絶対に。
「消える瞬間に誰かの前にいたのは最初以来だけど……あの時と違って、気持ちを伝えられたのは、進歩かもねえ」
「お姉様……」
「ベルちゃん、ありがとね。2ヶ月ちょっとだったけど、楽しかった。ベルちゃんに会えて、楽しかったよ」
この時、既にお姉様の身体に触れることはできなくなっていました。
ですが、お姉様はまだそこにいました。ですから私は、お姉様と本当に文字通りの意味で身体を重ねて、嗚咽をこらえて……。
「……さよなら、ベルちゃん」
「お姉様ぁ……!」
――そうして、手を伸ばした私は虚空を掴んで。
夜明けの寝室に、私一人が残されたのでした。
****
私ことベルカーナ・K・フェングランスの治世はこれから7年後に始まります。
お父様が崩御し、私が即位するや否や、世界は一斉にフェングランスを孤立させようとしました。二十歳そこそこの小娘が継いだ国など、恐れるに足らぬと思ったのでしょう。
ですが、私は負けるつもりなんてなく。
お姉様から学んだ神聖魔法と錬成魔法、そして夢の世界……チキュウの歴史の知識を利用して、怒涛の34年を過ごして今に至ります。
今やフェングランス王国は、過去最大の領土を持つと共に、世界最大の国家とまで言われるところまで来ました。我ながら、まさに「怒涛」の一生であったと思います。
最後まで結婚せず、もちろん子もなかった私は、やはりお姉様から頂いた知識をもとに、この国を少しずつ立憲制君主制へと移行させつつあります。
王は君臨すれども統治せず。たった一握りの王族と、そこに付随する貴族だけが特権を有することのないように。
そして衆愚政治に陥らぬよう、教育にも力を注ぎました。
もちろんまだまだ完成には遠く、貴族を中心とした議会政治の状態ではありますが。
ともあれ未来への道筋はつけたと思います。ここから先は私ではなく、次の世代に任せることにしましょう。
私も、もうあまり身体が動きません。死期が日ごとに近づいているのを感じます。
そしてだからこそ、私はどうしても忘れたくない思い出をつづることにしました。
たとえそれが、王室のスキャンダルになるようなことであっても。ただひたすらに、あの日心と身体を捧げた愛しい人のことを、歴史の闇の中に埋めたくなかったのです。
この手記が、たとえば五百年くらい先の時代に見つかったとしたら、歴史を覆す一級品の史料になるかもしれませんが。
その辺りは、私最後のお茶目ということで、なんとか許していただきたいものですわ……。
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「ベルちゃん」
「……!?」
背後から突如として投げかけられた言葉に、世界最大の国を率いた国母はペンを取り落とした。そのまま、インクで紙が汚れることも忘れて、彼女は恐る恐る振り返る。
閉めたはずの窓が、空いていた。既に夜は遅く、彼方には沈みかけの月がある。
その淡い光を遮って、人影が一つ。
「……そんな、まさか」
月明かりが雲に遮られ、逆光が絶えたことで露わになったその姿は。
「……お姉様!?」
「やっはろー、久しぶりだね!」
かつての記憶にあるままの彼女が、にこりと笑っていた。
その姿に、ベルカーナがまろぶようにしてすがりつく。かつてのように、虚空を掴むだけかと思われたそれは、しかしそうはならず。
記憶のままの温もりが、彼女の腕の中に広がった。
「お姉様……お姉様……! 本当に、本当にお姉様ですか……!?」
「うん、本物のウチだよ。……えへ、また来ちゃった」
ぺろりと舌を出して、いたずらっ子のように笑う彼女を……ミュウを見て、ベルカーナはただ涙を流す。
それは、己の一代のみで国を隆盛させた女王のものではなかった。そこにあったのは、ただ一人の、等身大の乙女でしかなかった。
「……えーっと、あれかな。もしかしなくてもこっち、結構な時間経ってるよね。40年くらい経ってる……って認識で、あってる?」
「はい……ですが、あの、お姉様は……」
「ウチのほうは10年くらいかな。時間の流れが違うんだよね。っていうか、そもそもこの姿はウチの『理想の自分』っていう夢でしかないから」
「……ああ」
そうだった、とベルカーナは納得する。
そう、彼女は夢なのだ。夜が更け、日が昇るまでの刹那に見る夢。
それでも、いやだからこそ、また同じ夢を見れるということが、どれほどの奇跡か。
「……道中にいろいろ聞いたよ。ベルちゃん、がんばったね。こんなにおっきな国にするなんて、ウチびっくりしちゃったよ」
「お姉様のおかげですわ……。あの日学んだこと、一つ一つが私の武器に、防具になってくれましたから……」
「そっか。だったら、ウチがこの世界に来たかいがあったってもんだ」
えへら、とミュウが笑って頬をかく。その指には見覚えのあるリングが、見覚えのないリングと共に光っていた。
それを見て、今ならもっとうまく指輪を作れるとベルカーナは苦笑したが、そんな不格好なものを今でもつけてくれているミュウに、嬉しさがこみあげてくる。
同時に、もう一つの指輪は、本来の想い人のものだろうかとも考えて……年甲斐もなく嫉妬で胸がちくりと痛む。
「お姉様……今度は、どれくらいこちらにいられますか?」
「ここに来るまでにもう2か月くらいかかっちゃったからね。そんな長くはいれないよ。でも、それまでの間、一緒にいることはできるから……」
「あっ……」
言葉と共に、ベルカーナはミュウに抱き寄せられた。そしてそのまま、唇を奪われる。
「……それまで、またよろしくね」
「お、お姉様……もう、もう私はおばあちゃんになってしまったんですから……そんな」
「そう? ベルちゃんは変わんないと思うよ。あの時と一緒で、かわいい女の子だと思う」
「お、お姉様ぁ……!」
あの日聞くことのできなかった言葉の数々に、ベルカーナの心拍数は上がり続ける。
走り続けてきたこの40年間で、一度たりとも感じることのなかった感覚。彼女は今、押し込めてきたおよそ40年分の感動に押し流されようとしていた。
その身体が、文字通り夢のように急速に若返っていくのを、彼女本人も知らぬまま。
そうしてその日、フェングランス王国の国母と呼ばれ、また錬金王、あるいは処女王と呼ばれた女王ベルカーナは、こつ然と姿を消したのであった。
その行方を知る者は、誰もいない。
ただ、それから時折、世界中の様々な場所に、ハーフエルフの姉妹と思われる二人組が目撃されるようになったという。
時代を超えて現れる不思議な二人組の正体を知る者は……やはり、誰もいないのである。
Fin.
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◆ベルカーナ・フェングランス
フェングランス王国エリアトナ朝最後の王。
悠久歴208年~263年。在位221年~263年。
フェングランス王国史上初のハーフエルフの王であり、同国の歴史において亜人種の王の先駆けである。
ヘンネリク8世の庶子として、辺境の村トヤックに生まれる。
母は神聖ランファス王国の王女と言われているが、真偽のほどは不明。
12歳までキラーファ修道院で過ごすが、ヘンネリク8世の後継が相次いで逝去したため、急きょ王の意向で還俗、嫡子となる。
その後21歳で父王の死を受けて即位し、ベルカーナ1世を名乗る。
女であることを利用した巧みな外交手腕と、持ち前の錬金術の才覚を駆使して多難な国際情勢を乗り切り、むしろその危機を好機として、王国の最大版図を築き上げた。
「余は国家と結婚している」は彼女の名言として知られており、劇などでもたびたび使われる。
元修道女であったためか、彼女は結婚をかたくなに拒み続け、終生子をなすことがなかった。
このため、エリアトナ朝は彼女の代で終わりを迎えることになるが、一説には同性愛者であったという説もある。もちろん実際のところは定かではない。
いずれにしても、彼女以降、王国が異なる王朝へとすげ代わり、同時に立憲君主制へと少しずつ移行していくことは間違いない。
未来をまるで知っていたかのような施策、演説が多く、予言者であったとのうわさもある。
実際、彼女の採っていた政策はいずれも当時としては先進性が高く、1世紀は先を行くものだと評価する歴史家も多い。
特に、魔法と科学を融合したマギ学の分野においては実に3世紀以上時代を先取りしたものであり、王国の繁栄は偏にその技術によるところが大きい。
科学というものが一切知られていなかった時代に、彼女がその境地へ至った理由はいまだ不明である。
また、彼女の錬金作品には必ずどこの国の文字でもない文字で『ミュウ・カスガイへ捧ぐ』と印刻されていることは有名だが、その意味については今もって謎が謎を呼んでいる状態である。
(この文字はベルカーナの創作した暗号文字というのが定説だが、他の文字が見つかっていないため信憑性は薄い)
その死については、不明な点が現在でも多い。
直前まで健康であった彼女が突然死を迎えたことには、暗殺説も根強いが、実は死んでいないという説が今のところもっぱら有力である。
彼女の墓に遺骸は収められておらず、また火葬などが行われた記録も残っていない。
何より、遺骸を見たという記録が残っていないのも不自然である。
このため、彼女が自らの意思で去った、あるいは何者かによってさらわれたのではないかという説は現在でも有力なのである。
オペラ「処女王」では、その最期を「錬金術の知識を授けた天使が迎えに現れ、肉体を捨てることなく天に召される」という解釈で描写している。
パルナージのポップカルチャーにおいては、主にフェングランス王国を代表するキャラクターとして扱われることが多い。
その場合大体は同性愛者として描かれ、各国の偉人が相争う同国の著名なシミュレーションRPG「カオスグローリー」シリーズの二次創作においては、同国の傑出した女王であるトラージュとカップリングを組んでいることが大半である。
(ベルカーナ1世とトラージュは同時代人だが、この時代両国が接触したことは一度もない)
江戸前ダンジョンの息抜きに。
息抜きのつもりだったので、あちこちかなり端折ってありますが……おおむね書きたいものが書けたので満足です。
なんていうか、純粋に百合が書きたかった。
同性愛という点で悩む、ということに関しては百合と言っていいのかどうかって感じもするんですが、ともあれ女の子同士にいちゃいちゃさせたかったので……。
異世界転移ものの王道を地で行くミュウですが、実際に異世界転移ものの主人公めいた作品の案があるので、この子メインの話もいつか書きたいなあ、なんて……。