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異世界漂流記  作者: yakuta
第2章
8/9

動き出す日常

少し遅れました。

ちょいとこの時期は忙しくて。


漂流22日目


「ふっ、やっ、はっ!」

 木刀を振るう。一心不乱に。ただ懸命に。

 岩滝仁は、ふうと汗を拭いた。

「で、今日も相手になれというのか? 正直、格闘の類は不得手なんだがな」

 じろり、影を見た。そこには、遠野美紀の姿がある。この街へと来てからというもの、仁は連日鍛錬に明け暮れていたのだが、そこに美紀も半ば強引に参加していた。そして、最後には決まって言うのだった。実践練習しませんか、と。仁はもちろんのこと断るのだが、無視して襲われれば応戦する他ない。そんな無理矢理な実践練習は、今日この日まで続いていたのだった。

「……どこが苦手やねん」

 生身の相手に木刀を振るうわけにもいかない。美紀を相手にする時、仁は常に素手だった。格闘となれば、仁が不利と言わざるおえない。そう思い、せめて竹刀でも使えと美紀は怒鳴ったのだが、仁は面倒くさそうに溜息を吐いた。そうして素手同士での格闘が始まったのであるが、結果は全戦全敗。仁が勝者で、美紀が敗者である。

「……まぁ、心得がないわけでもないからな。破れかぶれに、八つ当たりのように襲いかかってくる程度なら、どうといなせぬ訳でもない」

「心得? なんや、部活以外にもなんかしとるん? や、しとったん、か」

「元々、部活のほうが後だ。まぁ、それはどうでもいいだろう。で、どうする。するのか、せんのか?」

 ある意味異種格闘戦。とはいえ、仁が武器を手放しているから、格闘戦という観点では同じ土俵ではあるが。仁は別にやりたいとは思わないが、もう避けても通れぬのだろうと諦めていた。

「する! もちろんするに決まっとる。今日こそ、せめて一本取らせてもらうで!」

 美紀はぐっ、ぐっと屈伸して、備える。仁も慣れた様子で木刀を手放し、袖を捲った。

「こい」

 仁は動かない。先手は常に美紀に譲っていた。あくまで、仕掛けてきているのは美紀の方。乗り気ではないという、仁の意思表明でもあった。

「行くでぇっ!」

 それに応じて、美紀は大地を蹴る。鍛え抜いた足腰が、美紀の体を発射した。ぐっと小さくなり、突進するかのような迫力だ。

「…………」

 仁は動じず、あくまで待つ。ぎりぎりの瞬間まで、動く気配すら見せない。

「ふっ!」

 足を踏ん張る。突進を止め、勢いの全てを拳へと集約した。ぐるりと体を捻り、右の拳を打ち放つ。

 仁に驚きはない。その瞬発力は、既に何度も目にしていた。あるいは初対面ならば意表を付けたやも知れぬが、もう理解している。体を低くして拳を躱し、懐へと潜り込もうとした。

 だが、美紀もそれを理解している。仁は強い。こんな正面突破は通用しない。奥歯を噛み締め、軸にしていた足を踏ん張り、遅れていた足を無理やり前に運ぶ。

 そして、跳躍した。

 目の前から美紀の姿が消える。仁は一瞬そう錯覚した。ちりっと、焼けるような気配を感じた。仁は反射で前へと転げ避けた。

 ぶおん。次の瞬間、鋭い蹴りがその空間を切り裂く。

「くっそ! これでもあかんのかっ!」

 成功を確信していたわけではないが、受身に回す余裕もなく。美紀は地面に落ちた。どうにか衝撃を殺し、即座に跳ね起きる。しかし、遅かった。

「今日も負けだ。あぁ、何度でも言ってやるがな、今のままでは、明日もまた同じ結果となるぞ?」

 美紀の目の前には拳が。これを無効だと騒ぎ立てることはできない。

 こうして今日もまた、美紀は敗北の記録を増やし、加えて、妙に嫌な気分になる言葉をもらうことになった。


「なぁ、なにがあかん?」

 しばらく経ってから。一通り鍛錬を終えた頃に、美紀が聞いた。仁は何かを考えるようにしばし黙り、それから、ポツリと呟いた。

「……心、だろうな」

「や、精神論とかはええんよ、もっとこう、具体的に……」

「それ以外のことは分からんな。俺の勝手な見立てだが、お前は心技体のうち技と体はその道に素人な俺が口を出せる段階を終えている。ならばこそ、問題があるとすれば心であろうし、俺もまた、手合わせの中でそう感じた」

「……心」

 ぐぬぬぬっと美紀は唸る。そんな抽象的なもの、どうすればよいのか分からない。

「…………」

 仁はその様子を黙って見守る。しかし、一向に答えを出せぬことが分かると、おせっかいだなと思いつつ口にしていた。

「お前は、分かっているじゃないのか?」

 そんなつもりはないのに、言葉には刺が。美紀もそれを敏感に感じ取り、仁はしまったという表情をした。

「なんや感じ悪いな」

「そうか、しかし謝らんぞ」

 開き直る。面倒だから、と避けてはいたのだが、しかしそれも遅かれ早かれだと。

「なんでやねん!」

「誰のせいで、などと言い争う必要すらあるまい。お前は既に自覚しているのだから」

 あくまで仁は一方的だ。その言い分を、相手が素直に飲み込まないことは理解していた。

「だからっ――」

 だから、ぴしゃり言い放つ。

「認められないだけだ。違うか?」

 語尾は問いかけ。しかし言葉の雰囲気は、肯定以外を許していない。

「……はぁ、お前自身のためでもあると思うぞ、俺は?」

 結局のところは本人の問題。いくら外野がやいのやいのと言ったとて、踏み出さぬ限り進展はなし。ならばできることはこの程度。仁は溜息一つに歩き出した。

「…………」

 美紀はしばらく、俯いて考え込む。それから、はっと気がついて小さくなる仁の背中を追う。


 ◇◆◇◆◇◆◇


「地図が手に入ってよかった」

「でも、日本、ないね」

「そうだな。けど、一歩前進だ。きっと、大丈夫だって」

 昼を少し過ぎた頃。田中一郎と森本彩は、行きつけの料理店で食事をしていた。そこは本業は夜からであるのだが、もう慣れたからかなにも言われない。

「文字、読めないんだっけ?」

「……残念ながら。ほんと、なんで言葉は分かるのかな?」

 一郎の疑問に、彩が回答を用意できるはずがない。そんなことは誰も分からない。こうしているから繋がりがあるのが、こうしている以前など、同じ学校の生徒という以上の関係を持ってはいないのだから。

「ほんと、俺ってなんなんだろ……」

 一郎はつい、言葉を続けてしまう。そんなことを言っても気を遣わせるだけだと分かっているのに、気がついた時には言葉が口から漏れ出ていた。

「知らないわ、そんなこと」

 彩はそっけなく、躊躇いなく、ただ思ったことを口にする。気遣いなんてものはなかった。一見すると、冷たい言葉である。

 だが、彩は更に言葉を付け加える。

「あなたはあなた、でしょう?」

 何を当たり前のことを。一郎には、そんな言葉も聞こえた気がした。あぁ、だからこそだ。一郎はそこでなんで口にしてしまったのか悟る。

 森本彩はマイペースだ。何をするにも己が基準。それは時として軋轢を生むこともあるのだろう。

 だがそれでも。その心根は優しいもので、決して他人に興味がないわけではない。あくまで価値観にブレがないだけで、紡ぐ言葉は本心で。甘えてしまったのだと、一郎は反省した。自分の問題だろ、と呆れる。

 幾ら価値観がぶれることを知らないとて、この状況で疲弊していないわけがない。ならば自分ばかりが甘えるのは、悪いことと思えたのだ。そもそも、甘える、というのにも、一郎はあまりいい感情を抱けない。

 なんというか、情けない。そんな考えを持っていた。

「ありがと」

「? どういたしまして」

 一郎は感謝の言葉を口にするが、彩はその意味を理解していない。己が異端気味だとは自覚しているが故に、わざわざ聞き返そうとは思わなかった。

「旅、しなきゃいけないかな」

「……どうだろ」

 一郎は微妙な表現をするが、実際のところ、その可能性は大いにある。というよりも、ほとんど間違いのないことだ。


 神代修司とミリア・ハーネット。

 二人は相変わらず、教会の書庫に入り浸っていた。歴史書以外にも、各地の情報やその他様々な書物の集まるそこは、今現在最も調べるべき場所だ。

 とはいえ、それも簡単なことではない。そもそも文字が分からない。ばかりか、ところどころ妙な言い回しな文章もあったりで、翻訳と解読を同時並行する他ない。そんな作業が誰にもこなせずはずもなく、現状、ほとんど二人に任せきりだった。

 作業が遅々として進まないのは語るまでもないことだろう。

 そういう理由で、泊まり込むほどの勢いで、二人は協会にこもっていた。


 まだまだもたらされた情報は少ないが、無ではない。一郎たちも、なにか少しでもと街を駆け巡り、そのおかげで地図を手に入れられることもできたのだ。

「……ねぇ、聞いてもいい?」

「うん?」

 一郎は思わず間抜けな返事をしてしまう。彩の方から声をかけてくるのも珍しいのに、それに加えて、その声は困っている風だ。どうしたのだろうか、と一郎は言葉を待つ。

「……帰れないかも、って考えたことある?」

「それは……」

 返事は喉を出てこない。だが、黙って見つめ合っていても仕方がない。

「考えたことは、ないこともない」

 それは偽らざる本心だ。どれほど強がったって、つい、誰だって考えてしまうだろう。それでも、そればかりというわけでもない。一郎は更に言葉を続ける。

「けど、諦めたことはないし、諦めるつもりはないよ。簡単じゃない、とは思うし、そりゃそうかもしれないって考えてしまいそうにもなるけど、それでも、そうやって納得できないまま終わっちゃうのは、嫌だから」

 意味不明な出来事だ。だから見通せず不安になる。だが、だからこそだろう。もし仮に、確固たる根拠があって、可能性を否定されれば、それこそだろう。それでも、結局諦めないのだろうし、屁理屈じみているとは自覚しているのだが、とにかくそう、中途半端は嫌だった。

「それに、さ。分かるだろ?」

 帰る意味。帰る目的。小難しい理屈を並べるまでもなく、諦めそうになる背中を支えてくれるものはある。

 彩も、静かに頷いた。

「……そうね。うん、ありがとね」

「どういたしまし、て?」

 先ほどとはまるで逆の光景だとは、二人は気づいていない。



 二人は昼食を終えると、教会を目指した。

 様子見と、経過報告。その二つを済ますためだ。それほど急な事態もないのだろうが、何よりも暇なのだ。

 ここでできることは限られている。その上で、更に金銭的枷が加わるのだから、尚の事。

 相変わらず、情報収集は続けている。だが、一郎以外は言葉が通じず、一郎とて文字が分からない。

 そのうえ、ここに限った話かもしれないが、娯楽の類が少ない。そうなると、できることがなくなるのは思った以上に早かったのだ。

「できること、なにかないかな?」

「……う~ん」

 彩は尋ねるが、一郎は答えを用意できない。彩も、別に期待していた訳ではなかった。神代修司一人が身を削る中、何もしていない、というのが嫌だった。

 もっとも、そんなことを言っても、その本人は当然のことと笑うのであろうが。

「まぁ、バイトとかかな。お金も、そんなに余裕ないし」

 なにせ宿代とは言ってもこの人数。それなりの部屋を、男女で一つずつ。学校から持ち出したものはここでは物珍しく、ここまで送ってくれた商人はそれなりの金額で取引してくれていたのだが、それでも、余裕がある、とは決して言える状況ではなかった。

 だからこそ、金を稼ぐ必要がある。あるのだが――。

「言葉、分からなくても大丈夫かな?」

「……そこが問題だよな」

 言葉が分かるのは一郎と修司のみ。そのうち、修司は他に手を回す余裕なんてないから無理で、残るは一郎のみ。

ただ、一郎は体格的に恵まれているわけでもなく、鍛えているわけでもない。どうにも隠し事を抱えている様子で。更には常識知らず。会話はできるが読み書きは不可能。

 こうなると、雇ってくれる場所はない。というか、雇ってもらうにはどうすればいいのか分からない。二、三件直撃してみたが玉砕で、そこれから一歩も前進できていなかった。

「なにか、こう、どんっとお金が入ってくるような……そんな都合のいいことは、そう簡単には起こらないか」

「人間、地道が一番」

 そう、今は一歩ずつでも確実に。焦ってもうまくいくとは思えない。地道が一番。まさしくその通りだった。

「おや、君は……」

 道も半ば。街を両断する川に辿りついた時だった。聞き慣れぬ声が一郎と彩の歩みを止める。その言葉は、日本語ではない。

「……誰?」

 彩は首をかしげた。

「あなたは」

 一郎は振り返り、その顔を見て気がついた。


 ◇◆◇◆◇◆◇


「うぉおおぉ!」

「いけぇ!」

「ぶっとばせぇっ!」

 汚いヤジが飛び交う。

 表の街路からは少し離れ、奥まった場所にある薄暗い広場。そこでは現在、試合が開かれていた。

「でりゃさぁっ!」

「どぉりゃせ!」

 試合は白熱していた。

「おいおい、いい加減勝負決めろよ!」

「うっせぇ、分かってらい!」

 向井速人の声援に、富田賢治は怒鳴るように返した。

「ひぃっ」

 そして意気込んだと同時に、迫る拳をへっぴり腰で躱す。

「おいおーい、最強無敵の喧嘩師さんはどこいった~」

 好き勝手言いやがって。賢治は悪態をつきたかったが、今はそれどころでもない。

「逃げ回ってんじゃねぇよへなちょこがっ!」

 厳つい外見の男が、恐ろしい形相で襲いかかってくる。

「とぉ、はっ」

 腕は太い。ぶおん、と空を切る音も野太く、ぞわりと背筋に寒いものが走る。必死で避けるが、今にも直撃しそうである。

「おら~戦えよ!」

「逃げてんなよビビリが!」

 普段の賢治なら、目の前のことも忘れて食ってかかったことだろう。だが幸いに、賢治には言葉が分からない。おかげでどうにか、危なっかしい試合は成立していた。

「……はぁ」

 速人は一人、その姿を見て溜息を吐いた。

「なにしてんだか」

 呆れるように笑う。客観的に見て、富田賢治のほうが強い。それは間違いがないと断言できた。

 あれは運動神経の塊だ。大抵のスポーツに適合できる肉体も持っている。まさに鬼に金棒。事実として、一年の時はそこそこ有名人だった。色々とあってエセ不良と成り果ててはいるが、別に授業をふけるなり教師に反発するなり喧嘩をするなりで、酒やら煙草やらには手を出しているわけではないから、その能力は未だ当時のまま。いや、当時以上かもしれない。

 そこらにいる適当な奴らなぞに遅れを取る理由など、本来ないのだ。

 事実、賢治はこの試合が始まってから一発も拳をもらっていない。全ての攻撃を見切る目を持ち、相手よりも早く動けるのだから、当然だ。

「そろそろ決着付けねぇと、今度からビビりって呼んでやるぞ~」

 外から茶化す。それは信頼の表れでもあった。

「あぁもう、うっせぇなこの野郎!」

 速人急かされようやっと。賢治は意を決して飛び込んだ。随分と遅いストレートを躱し、そのまま、右拳を顔面に叩き込んだ。ちょうど、クロスカウンターのような構図。

「おぉおぉぉ!」

 歓声が上がる。速人は楽しそうに笑う。

 富田賢治は臆病者である。元々、喧嘩ができる精神ではない。

 だが、持っている。ここぞという時に、周りを沸かせる何かを起こせる。そんな魅力を持っている。へっぴり腰の臆病ファイターな賢治が受けているのも、その劇的な決着に魅せられた者が少なからずいるからであろう。

「はーいお疲れ」

「テメェ、さっきは好き勝手言いやがって!」

「まーまー、勝ったんだからいいじゃねぇか、なぁ?」

 ここは試合会場。非合法な、あまり人に進められぬ場所だ。速人が見つけたのは、三日前。チンピラに襲われたということで、その手の人間がいそうな場所を片っ端からあたっている途中でだった。

 聞けば、誰でも飛び入り参加可能だという。勝利すれば、楽しませてくれれば金も出すとのこと。それを聞き、いい役者がいると思いついたのだった。

「じゃあな、またそのうち顔出すわ」

 速人と賢治はその場を離れる。この程度の言葉なら、聞きかじっただけで微妙だが、ニュアンスで伝わる。

「そーいや、最近兵隊どのの姿が増えた。一応、気ぃつけとけよ」

 相手の意味の分からぬ言葉に愛想笑いを浮かべ、その場を後にした。



「しかし流石だな」

「あ? なにが?」

「……いや、なんでもねぇ」

「気になるじゃねぇか」

「なんでもねって。秘密だ秘密」

 賢治はしつこく教えるように迫るが、速人は一切答えようとしない。別に、深い意味はない。ただ、嫉妬しているだけ。その能力を褒めるのは、速人にとってあまりいい気分にはなれないのだ。

「……まぁいいけどよ。それよっか、俺は腹が減った。いつものとこ、行こうぜ?」

 いつもの場所。ここへときた初日に見つけて、それ以来頻繁に利用する料理店だ。本来なら酒を出す場所で営業は夜からが本番なのであるが、一度入れてしまったからと対応してくれている。赤いバンダナがトレードマークの看板娘が切り盛りする店である。

「結構金、手に入ったな」

「どうだろうな。こいつの価値が、イマイチ分からねぇ。適当にされてる可能性だって無きにしもあらずだぜ?」

 とはいいつつ、ある程度は掴めつつある。無駄遣いというのも、物価を知るためと言えば正当な行為へ早変わり。実際、それで成果があるのだから問題もない。もっとも、そのあたりの計算をするのは速人で、賢治はただ美味しそうに食べるだけなのだが。

「他に誰かいるかなぁ」

「どうだろな。時間的には、ちょっと遅いしな」

 体感時間で二時~三時くらい。賢治のへっぴり腰のせいで試合が長引いたせいである。

 二人は歩く。いつも通りのくだらない話をしながら。それは近道をしようと細く薄暗い路地を歩いている時だった。

 どん、と速人は押される。誰かは、なにか適当な言葉を残し、慌てて去っていく。

「テメ……っ」

 賢治はやれやれと呆れた。

 速人は理性的なようでいてこれで結構本能的。怒りのツボが限定的だから生意気なだけで穏やかに見えるが、その実、凄まじいまでの短気である。

 怒声を上げてその背中を追いかけるのだろう。賢治はそう思った。だが――。

「あぁ?」

 速人は、立ち止まり目を細めた。

「どうしたよ、いったい」

 珍しいことだ。それに、なにが気になっているのか。

「いや、あいつのあの顔、お前覚えてねぇか?」

「ん?」

 しかし賢治には分からなかった。見ようとしたその時には、角を曲がってしまうところだったのだ。

「あいつがどうした――って、おい」

 速人は無言で駆け出した。慌てて賢治も後を追う。

「あいつがどーしたっての?」

「あの時の中にいただろう。ったく、覚えとけよな」

 あの時とは。思い当たるのは一つしかない。賢治は思わず叫び返しそうになった。覚えられるわけねぇだろバカやろう、と。

 あの時とは、あの時以外にありえるまい。その手の人間と接点を持ったのは、その一度きりなのだから。

 あの、老人によって巻き込まれた夜のことだ。

 あの時は街は暗かった。街灯がないものだから仕方ない。そんな中での乱戦だ。元々はっきりと焼き付けるなんてできず、この数日でそれは更にぼやけていて。おそらく正面からであっても、富田賢治は気がつかない。

 そこでもう一つ。富田賢治は思い出していた。

 向井速人は短気である。

 そしてもう一つ。

 執念深い。

 顔を覚えていたのは、その執念深さのなせる技だった。

「追いかけるか」

「だな」

 あるいは本拠地が分かるかも。別に、狙われない限り何をするわけでもない。相手もあの暗闇であまり明確に顔を見れていないのか、誰かが襲われたということもなかった。だがまぁしかし、偶然の産物かも知れない。そういう意味で、拠点を知るのは悪くないのだ。

 男は急いでいるのか駆け足だ。とはいえ、疾走というほどではないのは幸いだった。間違いなく、速人が脱落することになる。

「あ、やべ兵隊さんだ」

 目の前から兵隊が歩いてきた。一度、ちょっとした出来事で厄介になっているから、賢治は少し焦る。

「一応顔伏せとけ。ま、運が悪くなきゃ捕まらねぇわな」

 条件としては二つ。一つは賢治が捕まりかけた案件に関係があること。もう一つは、賢治の顔を覚えていること。もう一週間は前のこと。何もしていないのに捕まってしまう可能性は限りなく低い。

 ただ、速人は兵隊とすれ違う直前になって、ふと気がついた。賢治の頭の色についてである。染められた金髪は、ここでは異様に目立ってしまう。もしかして、とごくり唾を飲んだ。

 交差する。一瞬、兵隊の視線が賢治向いたかと思えたが、声をかけられることはなかった。

 二人は安堵の息を漏らし、先を行く男の背中を追う。

 そうして少し進んだ頃。今まで大通りを通っていたのに、ひょいと裏の方へと飛び込んだ。

「……あそこか」

「うっし、乗り込むぜい」

「馬鹿、様子見で終わりだ。わざわざ面倒事に発展させる理由はねぇよ」

 あくまでもしもに備えてだ。今のところ問題はないのだから、それならそれでいいのである。

 とりあえず様子だけでもと、速人は壁に張り付いて路地の様子を伺った。

「…………」

 速人は、思わず言葉を失っていた。

「どした?」

 賢治が尋ねる。

「……いや、どうやら面倒事発生」

 路地の奥。そこに人だかりが出来ていた。詳しくはまだ分からないのであるが……人ごみの隙間から、見慣れた顔が見つかった。

次の更新はおそらく二月になります。新年はごたごたしてて、多分無理です。

それではまた来年。

楽しみにしてもらえていれば嬉しい限りです。

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