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異世界漂流記  作者: yakuta
第2章
7/9

新たな一日 said B

「なるほど、そうなのですか」

「えぇ、そうなのですよ。嘆かわしい限りですが、どうしようもありません」

 整った服装をした初老の男が、悲しみの表情で顔を俯ける。その顔立ちは淡麗で、年より幾分も若く見える。ただ、それでも酷く老けているように感じるのは、疲れの色が色濃く現れているからだろう。

 それほどに、この街――ひいてはこの国での立場が厳しいのか。神代修司は、話に相槌を打ちつつ情報を整理していた。

「ありがとうございました。無知な私のためにわざわざ時間を裂いて頂き、誠にありがとうございます」

 ぺこり、修司は礼をする。初老の男は手を振って会釈をすると、己が責務に戻るべく席を立った。

「……本当に、何も知らないのねあなたは。いえ、あなたたち、か」

「えぇ、困ったものです。だからこそ、こうして情報収集にひた走るわけで。付き合ってもらい、申し訳ございませんね」

「別に――」

「――私も私で得るものはある、ですか」

「……勝手に言葉の先を言わないでもらえるかしら?」

「すいません」

 修司は愛想のいい笑みを浮かべる。それが気に食わず、ミリア・ハーネットはひくりと口角をひくつかせた。

「さて、私としましては、もう少しばかり書物を漁りたいと思っているのですが、どうしましょう? 都合がある、あるいは向かう先があると言うのなら、そちらを優先したいと思っておりますが」

「……どういうつもりなのかしら?」

「別に理由などありませんよ。強いて挙げるならば、付き合ってもらった対価でしょうか」

 修司とミリア。二人が訪れているその場所は、教会である。なんと大陸のほぼ全土で信仰されるらしい、ユグラシル、なる宗教の教会である。

 この世界には人間以外にも様々な種族が存在するらしい。らしい、というのは、実際に目で見ていないから。少なくとも、ミリアのような姿をした獣者なる種族を認めるとして、他にもまだいるとのこと。

 人類のみの世界とて、その地域ごとに様々な宗教が存在し、それぞれなりの理由で相容れることなく反発を続けている。日本というあるいは節操なしともとれる国生まれゆえにそれほど気にすることはなかったが、テレビの向こう側では日夜騒がれる程度には壁は存在するのである。

 にも関わらず、それ以上に混沌としそうなこの世界において大陸全土に行き渡るとは。言葉以上に凄まじい。ミリア曰く、その教えは常識とのことで、知らぬままではまずかろうと、他にも気になる点があったため、足を運んだのであった。

「……しかし、この国に限ればそうではないようだ」

 それほどに普及した宗教だ。その力というのは相当なものであろう。だが、それにしては、随分と教会は寂れていた。というよりも、意識して避けられているように感じられた。その威厳というものは、どこからも感じることができないほどに。

「まぁ、さもありなんね。ラウンガ。確か、そこかしこに喧嘩をふっかける迷惑な国だったはずよ」

「……なるほど。ですがそれならそれで、随分と街は平穏な空気でしたが」

 ここへと来る道中。街の様子を観察したが、とても戦争中のものとは思えなかった。ついでに、街を頑強な壁で覆うほどの『脅威』が外を跋扈している割に、旅人などのような服装の存在も目立つ。

「まぁ、確か半年ほど前だったか、協定を結んで停戦中のはずだしね。一応、だけど」

「それは穏やかではありませんね」

 つまりは火種が残っていると、そういうことか。綺麗に戦争を終わらせられるわけもないからそれも当然とは思うが、それにしても含みのある言い方だ。

「あなたたちには、結局関係のないことなのでしょう?」

「そうなのですが、しかしいつまでこうしているやら、現状皆目検討もつきませんので。他人事、と割り切ることもできませんよ」

 ミリアの言葉は、まだ校舎に留まっていた時とは決定的に違う部分がある。それは、修司がここを訪れた、もう一つの理由でもあった。

「元の世界に戻る方法。光明が見えたと思えば、しかし随分と曖昧だ。ゴールインはまだまだ先、ですか」


 それを語るには、話を数日前――ラガスへ向かう道中へと遡る。


「へぇ、異世界の迷い人、ってことなのね」

 発端は、そんなミリアの何の気もないような呟きだった。

「信じるの?」

 初めに問われたのは、発言の真偽。

 どうしてあんな場所にいたのか。どうして何も知らぬのか。そんなミリアが抱いて当然な疑問へと答えている最中の出来事だった。一応、真実をそのまま話してはいたのだが、信じてもらえるなどとは誰一人として考えていなかったのである。

「まぁ、そういうこともあるでしょう」

 ミリアの返答は、ますますもって場を混乱させた。なにせ、異世界は存在する、それを前提として言葉を紡いでいるのだから。

「ごめん、一つ質問」

 皆の視線を背に受けて、田中一郎は口にした。

「異世界が存在するって信じているの? いや、知ってるの?」

 それは考えてもいなかった。異世界は存在しない。少なくとも、常識的に考えれば馬鹿らしい。それがこれ以上ないほどに当たり前すぎて、その可能性を誰もが失念していたのである。

 ミリア・ハーネットは、ひいてはこの世界は異なる世界を認知しているかもしれない。そんな可能性を。

 そしてミリアは答えを返す。それは望んでいた以上だった。

「……なにを当たり前のことを」

 当たり前。そう、ここは異なる世界なのだ。今まで培った常識に囚われているようでは、とてもではないが先が見えない。

 ミリアは語る。

 ユグラシル。そんな名前の宗教を。


 零の世界に壱を生み出せし創造の女神。

 女神は無数の世界を創り上げ。

 この世界は、七番目にできた世界であることを。


「……で?」

「どうでしょうね。根拠が不十分、というのもあるのですが……」

 神代修司とミリア・ハーネット。二人は帰路についていた。教会での調べ物は一旦終了。気が付けば、一日の全てをそこで消費してしまっていた。

 得られた情報は確かに魅力的だ。もちろん全てを鵜呑みになどできないが、随分と背中を押してくれる内容も多かった。こんな世界だ。今更、神様が実在したとてそこに疑問は抱かない。

 ただ、一つだけ気がかりが。

 女神は既にこの世界を去っていた。もうこれ以上見守る必要はないだろうと、力の一部を地上に与え、その姿を消した。古い、教えを記した書物は、そんな一文で締めくくられていたのである。

「まぁ、なにはともあれ、一度皆さんと話し合わなければ」

 個人的な判断で動く気は修司にない。

 大陸全土で、種族の壁を超えて信仰される宗教だ。以前なら荒唐無稽と思えたことも、今ならあり得るのかもと考えられる。となれば、このユグラシルなる宗教を調べない手はないだろう。現状、異世界を肯定する唯一の存在だ。あるいは、と可能性の一つとするのは悪くない。

 だが、例えそうだとして。例えば皆がそれを笑い、否定したとすれば。神代修司はきっぱりと諦めることだろう。神代修司は、そういう人間であった。

 帰路を進む。二人は黙していた。

ミリアは必要があるなら口を開くようになっていた。曰く、一緒に行動する以上最低限は、とのこと。だが、逆を言えば必要がなければ口を開かない。話しかければあるいは口を開くのかもしれないが、修司も修司で無駄に口を開くことをしないからだった。


 ◇◆◇◆◇◆◇


「では、情報の共有と行きましょうか。なんだか、慣れてきてしまったものですが」

 夜。太陽は沈み、該当なんかもないものだから、街は暗闇に包まれていた。ぽつり、ぽつりと光を漏らす家もあるのだが、歩くにしては頼りない。今日は雲が空を覆い月明かりもないものだから、賑わう通り以外の場所は本当に真っ暗闇だった。

 そこは宿屋の一室だ。大して広いわけでもなく、そして現在は尚の事狭っ苦しいことこの上ない状況となっていた。

「ではまず私の方から」

 そこには皆が集まっていた。ミリア、ナナも含めて全員が。大方は日が暮れてしまうよりも速く戻ってきていたのだが、一部がなかなか戻ってこず、こんな時間帯からの開始となったのである。

「……それは、荒唐無稽がすぎるんじゃないのか?」

 神代修司の報告に、苦い顔をするのは岩滝仁だ。所々に怪我が見えるのは、曰く特訓のせいである。

「私もそー思う。神様なんて、実際居るわけない」

 同調する遠野美紀の顔には傷はない。代わりに泥で汚れていた。この二人は、鍛錬をすると共に朝から出かけていた。仁は一人ですると言い張ったのだが、美紀が無理やりついていったのである。

「えぇ、かもしれませんね。私も、少し前までなら、どちらかといえば二人に近い考えでした。ですが、今この状況で、果たして可能性が皆無、というのも断言できますか?」

「…………」

「できる!」

 押し黙る仁に反し、美紀はきっぱりと言い切った。他の誰もが反論をせず、事実として修司の言い分を是としている状況での唯一の味方の謀反に、美紀は思わず仁を睨みつける。

「まぁ、今は可能性の一つとして頭に入れておいてもらえば構いませんよ。そういう価値観がこの世界にはある、その程度の認識で十分です。信憑性や、それでなくても本腰を入れて調べるに値するのかどうか。そのへんは、しばらく私一人で行いましょう」

 声高々にそうであると断じるのではない。美紀も流石にそれ以上どうのこうのと言うことはしなかった。

「えっと、じゃあ次は俺が」

 田中一郎が手を上げて、一歩前にでる。うっ、と思わずたじろぐ。こうして皆の視線を一心に受けるのは、相変わらず慣れないものであった。

 一郎が報告したのは、エレッタから聞いたことがほとんどだ。


 ・この街を含めた一帯を支配する国の名前はラウンガ。

 ・純血人族の国である。

 ・少しばかり前まではそこかしこと戦争を続けていたが、色々とあり現在は平穏。とはいえ、燻った臭いはそこらじゅうから嗅ぎ取れて、先行きは不明。

 ・ラウンガは大陸東部の草原地帯一帯を支配領域としている。ラガスは、そんな中でも比較的北西部に位置していた。


「こうなってくっと、地図が欲しいな。あ~、でもどうなんだ? 地図ってそんな簡単にできんのか?」

「はぁ? 何言ってんのよ向井っち、地図なんて簡単にできるだろ?」

「あのなぁ。見た限り機械類は見当たらねぇし技術レベルは俺らの常識よっか全然低いのは一目瞭然だろ。あぁ~、でも 適当なもんなら昔からあるか。でもそれどうなんだ? 信頼できるのか?」

 現在位置は分かった。だが、その現在位置がどこであるのかが分からない。これでは、どこを目指すことだってできはしない。

「そうですね。地図の歴史は案外古い。ある、と考えて大丈夫でしょうが……どうなのでしょう、ミリアさん」

「懐次第、と答えておきましょうかね」

「……なるほど」

 ミリアの答えに、修司は納得して頷くが、富田賢司の頭の上には疑問符が浮かんでいた。にこりと修司は笑う。

「つまるところ、地図はある、ということですよ。そして向井君が気にした信頼は、お金に寄る。そんなところでしょう」

 元の世界でも同じだ。安物のしょうもないものと、高級な一等物。どちらの方が詳しく書かれ、信頼に足りるかどうかは、わざわざ考えるまでもないことだ。

「それじゃ、最後は俺らか……って、なんかいっちゃんに全部言われちまったような。なんか残ってたっけ?」

「えっと……特には、なにも」

「どぁっは! くっそぉ次は負けねぇからな!」

 果たして何を勝負していたのか。それは賢司のみの知るところ。

「さて、情報の共有はこんなところですか。まぁ、一日で、ということを考えれば上出来でしょう」

 まだまだ足りない、というのは言うまでもない。実際、知ったところでどうすることもできぬことばかりだ。

 修司は続けて、明日はどうするかを話し合おうとした。だが、それを口にするよりも速く。

 ぐぅううう。

 腹のなる音がした。皆の視線が一点に集中する。修司は苦笑い気味に告げる。

「そうですね、まずは夕飯にしましょう」

 どうせ明日もまた同じ。希望を求めて右往左往。わざわざ話し合うまでもない。

 修司の提案に、一部を除き頷く。

 仁と美紀は帰る途中で、森本彩は皆が戻るよりも早い時間帯に済ませていて、ミリアは必要ないと断った。



「はぁっはぁっ……っぐ」

 男は走る。走る。走る。ひたすらに、迫る者たちから逃げ切るために。

 この街については知り尽くしている。だが、それは相手も同じ。逃げ切れるかどうかは、単純な身体能力に委ねられていた。

 結果は見えている。先に体力が果てるのは、間違いなく己であった。もうすぐ六十に届きそうかという老体と、二十前後の全盛とを比べれば、当然だ。

 それでも。

 男は走るのを止めない。それだけはできない。

 皆のため。

 なにより己のため。

 足を止めるのは諦めだ。裏切りだ。それだけは絶対にできなかった。

 走る。

 光が見えた。どうやら、裏の入り組んだ街路を抜け、大通りまで辿りつけたようだ。とはいえ、それでどうなるのか。まだ入り組んでいる場所を右往左往と逃げる方が確率は高そうだが、既に退路はない。

 ええいままよ。

 元から諦められぬのなら、選択肢は何もない。男は速度を欠片も緩めず、暗闇の中から飛び出した――。



「どぅおおぼ!」

 それは夕飯を終えて、宿へと戻る道中に起こった。道を歩いていた富田賢治は、強烈な突撃を受けた。

 何故。疑問が頭をよぎるが、そんなことを気にするよりも速く。

 飛び込んできたそれと一緒くたになって、賢司は地面を転がった。

「おいっ! 大丈夫か賢司!」

 ひらりひらり。賢司は手を上に挙げて、それからぱたりと力を抜く。そのあんまりなわざとらしさに、心配する声は上がらず呆れた空気が漂った。

「っ――つつつ」

 賢司がクッションとなったのか、飛び出してきた男に怪我らしい怪我はない。顔をしかめつつ、どうにか立ち上がる。

「おいおっさん、テメェなんだよ」

 速人は詰め寄る。男は、ひぃいいっと悲鳴を逃げ出そうとした。

「おい待てよ。……ってぇ! テメェ!」

 それを許すはずもない。速人は肩を掴み阻止を試みるのだが、瞬間、拳が振るわれる。油断していたのもあって、速人は躱し損ねた。ごっと鈍い骨の音が響き、眼鏡が宙を舞う。

 ぶちり。何かが千切れる。次の動きを察知できたのは、賢司に、九条和也くらいのもの。

「……」

「あぁ? 離せよ和也」

 ぐわぉっと。振り上げられた拳は、打ち出される直前。和也の太い腕によって止められた。力の差は歴然で、ぴくりとも動こうとしない。

「止めとけ」

「理由がねぇよ」

「今は面倒事は避けるべきだ。それにな……」

 静止の声は届かない。和也が止めているから他人目には分からないが、拳にはずっと力がこもったままだ。

 和也は、ちらりと男が飛び出してきた街路を見る。

「どうも、そいつぁ面倒事の種らしい」

 どたどたどたり。暗がりの中から男たちが飛び出してきた。その数は六人。どうにも、厄介者な臭しかしない風貌だ。

「~~っ、てめぇら誰だよ!」

 がなるのは速人だ。だが、それでどうにか気持ちに踏ん切りをつけたのか、和也は拘束を解いた。

「――――!」

 速人はまだまともに言葉が話せない。頭に血が上っていたこともあって、叫んだ言葉は日本語だ。当然のように言葉は通じず、ただ、剣幕で敵意があることだけは伝わってしまったのだろう。

 唯一この場で難を覚えず二つの言葉を解する田中一郎は、苦い顔をしてすぐさま告げる。


『やっちまえ』



 乱闘が始まる。

 だが、それはあまりにあっけなく終わった。

 九条和也を筆頭に、向井速人と神代修司は慣れているのか怯えを知らない。何故か一番不良じみた見た目の富田賢司はへっぴり腰気味だが運動神経は本物で胆力はあるので立ち向かえる。八坂八尋は怯えきってはいるが鍛えているのは伊達ではなく、田中一郎も及ばずながら助力して完全に無力な彩にナナを守る。

 遅れて二人ほど増えたのだが、そんなもの些細な誤差だと吹き飛ばし。

 大した時間も、怪我をすることもなく、総勢八人の男たちは撃退された。何人かは散り散りに逃げ出して、仲間を呼ばれてはまずいと一行はその場を急ぎ足で離れた。

「追われてはいない、か? いまいち分からんな」

 念のため、宿とは別の方向へ。しばらく進み、別の道から宿へと向かって。そうして宿近くの一角で、一旦息を整えていた。

「地の利は相手にありますからね。これで追われていたのなら、もう諦めるしかないでしょう。幸い、ご覧のとおり真っ暗だ。明確に顔を覚えられてはいないでしょうし、逃げる味方をしてくれた、と今は思っておきましょう。それよりも、今は……」

 修司の視線の先。速人は苦々しげにそれを見た。

「そう、怖い顔で睨みつけるな。悪気があったわけじゃない」

 そこには問題の発端たる男がいた。どさくさに紛れてついてきたのである。途中、体力が尽きて足で纏い気味だったのだが、速人が無理やり連れてきた。

「まざぁ言い分を聞いてやらねぇとな。まぁ、それでどうなるわけでもねぇがよ」

「おーちーつーけ。そりゃ、殴られたなぁ腹立つだろうけどよぉ、さっき発散しただろう?」

「かんけーないね。それはそれこれはこれだ。とりあえず一発で許してやっから殴らせろ」

「お前、まだキレてんのか!?」

「キレてねぇよ。安心しろ。言ったとおり一発だけだ」

「安心できねぇよっ!」

 普段とは真逆である。阿呆をやらかす賢司を諌めるのが速人の役割なのに、見事に逆転していた。幸い、膂力のみの話しであれば、賢司に軍配があがる。そちらは任せ、修司は男から事情を聞くことにした。

「すみませんね、お願いします」

「いえ、別に大丈夫ですよ」

 いかに修司といえど難しニュアンスとなるとうなる他ない。実際のところ言葉を交わすのは田中一郎の役目となった。

「で? できればえ~っと、あの人を納得できるだけのしっかりとした事情を聞かせて欲しいんだけど」

「事情、と言われてもなぁ。私にもよぉ分からんのだ」

 男はほとほと困り果てた、といった表情だ。

「だ、そうですけど」

「嘘ですね」

 一郎に聞いて、修司は断言した。ちなみに日本語で、男には通じていない。

「嘘、ですか」

「えぇ、そんな顔をしています」

 修司は同情するかのような表情を浮かべていた。不自然さは欠片も見受けられず、さすがの役者ぶりである。

「なら、分かるだけでも」


 曰く。

 家に帰るために歩いていた。すると、突然襲われた。なにが何やら分からなかったが、身の危険を感じてひたすら逃げた。

 考えてみれば金銭目当てだろう。

 気がつかず、巻き込んでしまったことは深く謝罪する。だが、あくまで被害者なのだ。

 とのこと。


「やっぱ一発殴らせろ」

 説明を聞き終えて一言目がそれ。再び賢司が押さえ込む。修司曰く、やはり分かったのだろう、とのこと。つまりは、嘘をついているということが。

 いまいち分からない。一体どこで見極めているのかと、一郎は思わず男を見ていた。男は不審に思ったのか首をかしげ苦笑いをし、一郎は謝罪の言葉を反射的に口にしていた。

「どうします? 聞きますか?」

「……素直に答えてくれる、とは思えませんね。それなら、嘘をつく意味はない。とぼけられるのが関の山でしょう」

「じゃあ……」

 さてどうしたものか。一郎と修司は、どういうふうにして聞き出すか探る。その様子を男は黙って見守っていたのだが、ふと思い出したように立ち上がった。

「どうされましたか?」

「いや、家内を待たせていましてな。慌てていてうっかりしていましたが、これじゃ雷が落ちてくる」

「おや、それは大変だ。しかし、大丈夫ですか? これも何かの縁です。どうでしょう、ご一緒致しましょうか?」

 どうにも胡散臭い。面倒事の種と言える存在だ。離れて、それきりにするのが一番であろう。ただ、今はまだそれができない。もし万が一にも、顔を覚えられていたとすれば。完全に目の敵にされていることだろう。そんな時、潔白を示す一番簡単な方法を手放すことは、どうにもしたくなかった。

 決して褒められる方法ではないが、何事にも優先順位が存在する。

「いえ、それには及びませんよ。これ以上、ご迷惑はかけられませんから」

 しかし、男は断った。普通、渡りに船だと飛びつきそうなものなのに。あるいはそれほど謙虚と考えることもできなくはないが、前科がそれを否定する。

「そうですか、では、お気をつけて」

 困るには困るのだが、強引に引き止めるのも変な話。結局のところ、修司の思い過ごしとなる可能性もあるのだから。

「えぇ、本当にありがとうございました」

 男はぺこりと礼をして、その場を後にした。


 その後、警戒して宿へと戻る。

 遅れた事情を宿に残った者へと話し。これから当面の間、三人以上で動くことを決め。

 そうして、一日が終わる。


 ◇◆◇◆◇◆◇


 男は臆病者だった。これ以上ないほどに臆病者だった。

 何もかもが恐ろしい。それだけで済めばまだいいものを、恐ろしいと思うことすらも恐れてしまうほどに、根っからの臆病者だった。

 唯一信頼に足る幼少の頃からの世話係と共に弟を排除したのとて、恐ろしいからに他はなかった。

 かつりかつりかつり。

 見慣れた廊下を靴音鳴らせて歩く。目指すその場所は、男にとって一番の安らぎを覚える場所。己が己であるのだと、再確認できる場所。

 男はそこにいなければ、落ち着くことすらままならない。

 ぎいぃいっ、と。

 扉が開く。その席に辿りつくには歩かねば。一歩、一歩と近づいていく。思えば、この瞬間が唯一興奮を覚えるかもしれない。席に座り込んだ時、なんとも言えぬ安堵感に包まれるその瞬間が、喉から手が出るほどに恋しい。

 だが。

 男がその席に座ることは、結局できなかった。その席には、既に先客がいた。

「あらら、なぁにその顔は? 酷いわねぇ、まだ、私はなにもしてないわよ? 殺したくなるから、やめてくれないかしら?」

 女だ。綺麗な顔つきの女である。生まれて初めてだった。何よりも速く、そんなことを思ったのは。だが、だというのに何故だろう。女の浮かべる笑みは、どろりとした、今まで感じたこともないほどの、吐き気に近い恐怖を抱かせる。

「はぁ、私もほんとに成長した。こーして我慢するなんて、ほんと自分を褒めてあげたいわ。まぁ、褒める価値なんて私にゃないんだけど」

 女は笑う。高らかに。なにがそんなにおかしいのか。分からないから、愛想笑いを浮かべておいた。それが、一番簡単で妥当な反応だと思ったから。

 だが。

「あぁ?」

 女の態度が一変する。女はぎろりと男を睨みつけた。

「っくっひひひひいぃひひ、あぁ~もう、やっぱ駄目ね。どーにか話してみようかと思ったけど、やっぱ無理。頑張った、私はほんっとに頑張った。あぁ、でももう少し、もう少しよ」

 女はぐねりと身を捻じれされる。ぐりぐるぎりりと。

「答えろ、一度しか聞かない。死にたい? 死にたくない?」

 どこか、ふざけているような声音だ。だが、そんな訳でもない。男は伊達に臆病者ではない。恐怖から逃れる術は人一倍理解している。返答は即座、迷いはなかった。

「そう、いい返事ね。えぇ、それに免じて、命は我慢してあげましょ。えぇ、ほんっとは我慢なんてできないけれど、どうせ遅いか早いかの違いなのだから、我慢してあげましょう」

 いったいどいういことなのか。後々殺す、と言っているようにも思えるが、男は思考を放棄し気がつかない。

 女は告げる。己の要件を。男に化す仕事を。

「それじゃぁ、頑張りなさいよぉ。死にたくなければ、ね」

 男は二つ返事で駆け出した。初めてだ。ずっと怯えていた男は、本当の意味で初めて恐怖に染め上げられた。なまじ恐怖を排除し続けてきた故に縁遠く、逆らうことなどできはしない。


「女を探せぇ! 速く、早く、疾くっ!」


 ヒステリックな叫び声は、館じゅうにこだました。


遅れ気味ながら投稿。

それではまた来月!

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