間章 沈む月と昇る太陽
「あーらら、派手にやってくれちゃって。ほんっと、殺したくなるわね」
血に濡れた月の光の下で、一人の女が笑い狂う。憎悪に満ちながら、しかし煌々とした表情で。
「…………っち」
女は笑い、笑い続け、聞くのも煩わしいひび割れた甲高い声を上げ続けた。何がそんなにおかしいというのか。何も分からぬ男には、耳に届くだけで気分が悪くなるほどだった。
「あら? あらららら? なーに舌打ちなんてしているのかなぁ? いいの、死んじゃうよ? 私の機嫌損ねたら、あんた死んじゃうわよ?」
言葉は生き生き吐き出され、しかし声は死んでいる。思わずぞっとするような禍々しさが感じられた。男は、けれどそんなものどうでもいいと意に介さない。
「……っは、くだらねぇハッタリかます暇あんなら、頼むから消えてくれねぇか?」
狂気を前に、男の言葉は真っ直ぐだ。それが嘘偽りでも比喩暗喩でもなんでもなく、己の本心そのものだとは、男の目を見れば誰とて理解できるだろう。
狂う女とてそれは例外ではない。
「んんんっふふふふふ!」
狂気の色が濃くなってゆく。女はぬめりとした視線で男の姿を見直した。それから、先程のとはまた違う、本心そのものの癇に障る笑い声をあげた。
「っはははははははは!」
ひーひーひーと息を切らせる。
「そんな姿で――」
その時、風が吹き抜けた。男を月の光から隠していた木の葉の影が、ゆらりと揺れてあらわになる。
「そんな姿で、よくもまぁ吠えられるものね」
そこにいたのはボロ雑巾。一目で人だとは簡単には判断できまい。それはおよそ、人が人と判断するのに必要なものを幾つも欠いていた。何故言葉を紡げるのか、何故息をしていられるのか、何故命がそこにあるのか。疑問を抱くのは必然だと言えるほどに。
男――溝渕佳祐はしかしそんな状況の中でも、女に負けぬ笑い声をあげた。
「あぁ、幾らでも吠えてやるさ」
佳祐は、ニヤリとほくそ笑んだ。佳祐は知っている。この女にこれ以上ないほどに効果的な言葉を。
「なんせ俺は、神様に愛されてる、ようだからな」
そして呟く。禁断の呪文。空気が、すぅっと凍りついた。
「あぁ?」
様々な感情を爆発させながら。女には常に余裕があった。優越感が存在していた。
だが、佳祐が放ったたった一言によって、それはいとも容易く瓦解した。
「――ざっけんなよ」
それは憎悪一色。どろどろとした、可憐な姿の女には似つかわしくない、あるいはこれ以上ないほどに似つかわしいと言えるかもしれない感情に溢れていた。
「ざっけんなよてめぇよぉ!」
女は佳祐を蹴り抜いた。佳祐は低く呻くが、それだけだ。既に痛覚は容量の限界を大きく逸脱している。100が101に、1000が、10000が。今更増えたところで、それこそ今更だ。大きく反応するほどのことではなかった。
「何様だぁ、あぁあん!? テメェはちっぽけな、ちっぽけなちっぽけな、存在しようとしなかろうとどうでもいいちんけな存在だろうがよ! たまたま、たまたまあのお方の気紛れで死にぞこなっただけの分際で! 無力でしょうがない分際で! 欠陥品を相手に死にかけるようなヘボたれな分際で! 何が、なにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなになにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにが――
――なにが、神様に愛されてる、だあぁあああぁ!?」
渾身の力で、狙いを定め、躊躇いなく、蹴り抜く。鈍く、鋭く、焼かれたかのように熱い刺激が脳髄に突き刺さった。
意識が揺らめく。命が流れ出ていくのを佳祐は感じていた。
「……はぁ。まったく、いつものこととは言え、今回はお戯れが過ぎると思います。だからこそではありますが」
生の気配が薄れゆくのを知りながら。女は腹の中のものを全て出し終えたのか、どこかすっきりとした表情となって落ち着きを取り戻していた。
「……仕方ないわね」
女は一度、大きく溜息を吐く。それから左手を上に掲げ、ぱちり、と指をスナップさせた。
影が蠢く。それは世界の法則を無視して意思を持ち、独りでに動き出した。あの夜の日のように、佳祐の姿の全てを飲み込んでしまう。
「あのお方のおかげで命を繋いでいること、忘れては駄目よぉ?」
女の瞳には明確な殺意。それはつまり、あのお方なる存在が佳祐のことを、例えばどうでもいいなんて言った暁にはその命――。そういうことだ。
「どうでもいいな、んなこたぁよ」
影が晴れる。佳祐はむくりと立ち上がった。服はズタボロのまま。だが、見える肌には傷跡の一つだって存在しなかった。
「あらそう? っははははは、ほんっと、気を抜くとすぐこれなんだから。馬鹿は幾ら躾たって学習できやしない。我慢するのも大変なことを理解して欲しいわねぇ」
「……そんなことより、要件をさっさと言え」
如何様な手段であったにしろ、どういう思惑であったにしろ。命を助けられたのは事実であるの。佳祐はそれでも至って冷淡だった。薄っぺらい感謝の言葉はおろか、念の一つも浮かべない。
佳祐は理解している。助けるのは利用するためだ。何かをさせたがっている。それが何なのかまでは分からない。だが、それでもいいと断言できた。
従い続けることにこれ以上ないほどの利がある。それは間違いではなく、ならば、目的を達するそのために如何様にだって利用されたとて構わない。佳祐に迷いはなかった。
「――それじゃあねぇ。あまり期待はできないけれど、せいぜい簡単に死なないように」
「――それにしてもおかしな奴。せっかく元の世界に帰して上げるっていうあの方の提案を断ってまで」
「――まぁ、私には関係ないけれど」
女の姿が影に包まれる。影はもぞりと動いたかと思えば、ぱあぁっと霧散し。女の姿は消え失せた。
「戻るわけねぇだろ」
佳祐は呟く。
ゆらり、一歩踏み出した。
「まだ、こんなもんじゃ足りやしねぇ」
影の中へ。
行先知れぬ、未知の先へ。
求めるものがそこにあると。
そんな確信を持ちながら。
◇◆◇◆◇◆◇
かたりことり。
荷馬車は進む。御者台に座る商人は、陽気な声で語り合っていた。
「そうなのかい。そりゃ、大変だったろうね。しかしあんたらはよほど日頃の行いが良いと見た」
「それは、何故?」
「この俺と出会えたそのことさ。それも、たまたま積荷がなにもない、今日という日に、だ。荷台に商品積んでりゃな、あんたらみたいな怪しい奴、乗っけてやろうなんて思うはずがない!」
「それは、なんとも。本当に、運が良かった」
一時行商の旅もしたことのある商人の目からでさえ、異質と思わざるおえない衣服を身に纏い、愛想の良い笑みを浮かべ談笑するのは神代修司である。
修司の口から出るのはほとんどが嘘八百。ただ、そこは流石に作りこんでいて、あまりにスラスラと自然に話すことも相まって、商人は疑う様子を見せていない。
「何を話してるんだ、我らが生徒会長様は?」
「……うーん、なんか俺たち、技術一つで世界を渡り歩く旅芸人になってるんだけど。それも凄腕の」
「はっは、なにそれサイコーじゃん。おう賢司、なんかしてみせろよ」
「んな無茶振りすぎだろっ!? オメェの方こそ前に得意ヅラして見せた手品やればいいじゃねぇか」
「やーだね。そんな簡単に安売りはしねぇの……つか道具なんもねぇんだから出来るわきゃねぇだろ馬鹿」
「誰が馬鹿だってぇ!」
と、後ろの荷台ではいつも通りのやり取りが。
「えっと、ここを、そう、そんな感じ」
「? ――?」
「あ、おしい。残念」
森本彩は、ナナにゲームを教えていた。某赤い帽子がトレードマークの配管工が活躍するような、横スクロールアクションゲームの類である。充電ができないとのことで封印していたのであるが、趣味の共有が嬉しいのか、はたまたお人好しなのか、興味を持ったナナに大奮発で振舞っていた。
「あの~、部長も乗せてもらえば……」
「いらん。あんなものに頼っていては、体が鈍る」
「でも傷が」
「心配は無用だ。動ける程度には回復している……っ」
心配そうに声をかける八坂八尋。その声を頑なに聞き入れようとしない岩滝仁。二人は荷馬車に乗ることなく、歩いてその後ろを歩いていた。仁が言い出し、心配した八尋が付き合っている形なのは言うまでもないだろう。
ぱっと見た限りでは仁に目立つ外傷はない。とはいえそれは、長袖のシャツとズボンで隠しているから。衣服の下が青あざだらけだ。
ただ、一つ不思議なことが。全身に渡り痛めつけられているにも関わらず、骨折の類は一箇所もない。それが偶然なのか必然なのか。それは仁を痛めつけた本人を除いて知る者はいない。
「…………」
馬車に乗らないのは二人だけではなかった。仁と八尋から少し離れ、一番後方。九条和也は、皆から離れて歩いていた。目覚めてからずっとそう。意図的に、物理的に、心理的に、距離をとっていた。
「てっきり、どっかに行っちゃうと思ってた」
「……迷惑ならそう言えば?」
「別に、迷惑なんて。ただ、意外っていうか。……嫌われてると思ってたから」
「……さて、ね。まぁ、何も言わないのが不安なら、一つだけ。私は、私の目的のために動いている。そうね、都合が良かった、とでも思っておいて」
ミリアもまた、荷馬車に乗っていた。
「…………」
そのことに、遠野美樹は未だ納得しきれないものがあるらしいのだが。今も嫌悪の色を瞳に灯し、ミリアを警戒している。反論を口にしないのは、神代修司に説得されたから。
ミリアは出会った当初と同じように、茶色のローブを頭まで被っている。尻尾もうまいこと隠していて、一目見ただけでは彼女は人間以外の何者でもない。隠す理由は色々と想像は可能だが、それは未だ口を閉ざして誰にも教えてはいなかった。
少し時を遡り。
太陽が昇る。皆は目覚めた。
心の拠り所であった、今までの唯一の名残。それを無くして、何ともないわけではなかった。
だが、じっとし続けられる訳が無い。何よりも、洞穴が崩れたとは言え、恐怖が拭いきれたわけではないのだ。
当てもなく歩いた。頼りのミリアも、詳しい地理は分からないとのことで道を示すことはできない。
丘を下り、しばらく。道を発見できたのは偶然だった。
道を辿って歩き、商人が乗る馬車を見つけ、その商人が街へと戻るところで、たまたま積荷がなく、気さくでお人好しな人物であったことは――本当に幸運だったと言えることだ。
陽気で気さくな商人に助けられ、しばしの旅となった。
馬車は進む。かたりことり、と。
「あっ!」
遠くに見える、高い岩の壁。最初に見つけたのは一郎だった。
「おぉう、ようやっと見えてきたな。あれが、ラガスだ」
そうして漂流16日目の早朝。
ラガスと呼ばれる街へと着いた。ここら一帯を統べる領主が暮らす街である。
「さて、どうなるんだろう」
この街にいったい何が待ち受けているのか。
それは誰にも分からぬこと。
馬車は進む。
出来ることは、良きことがあれと願うこと。
今はその程度。
燦々照らす太陽の下。
新たな日々が始まった。
一ヶ月かけてこれか、とは自分も思います。
次の章の構成で悩み中。次までには……!
次回更新は10月11日。
第二章の始まりです。
……その予定です。頑張ります。