始まりの一日
漂流七日目
「とりあえず、こんなところかな」
田中一郎は頬に伝う汗を拭った。身につけた軍手は黒く染まっており、その点において少し心配もあったのだが、ようやっと責務が終わったそのことに安堵して、つい行ってしまったのだ。
「おいおい、顔がまっくろけになってるぞ?」
すると、案の定だったのか、同じように作業していた眼鏡の青年――向井速人が笑ってそれを指摘する。
「ホントですか、向井さん?」
「さんはいらねぇって。それか名前で呼んでくれたっていい。タメなんだから、遠慮する必要なんてねって」
「いや、でも……」
一郎は難しそうに顔を歪めた。速人は、それを見て苦く笑う。
「ま、しゃーねぇか。普通に会話できてるだけ、幸いと考えるようにするよ」
そう、仕方がないのである。今となっては気にするほどのことでもないのかもしれないが、しかし速人を含めて数人は、非常に声をかけづらい分類の存在だった。少なくとも速人自身はそう認識していた。この一郎の反応は、その認識からすれば十分すぎるものだ。それどころか。
「まぁ、流石にそのくらいは」
一郎は、平然と、淡々と、さも当然のようにそう言う。それも、少しばかりの笑みを加えるまでの余裕付きで。
「はっは、やっぱお前って面白いよな。そのくらいって言うけどさ、俺らみたいな野郎と何の気なしに話せるのって、結構すげぇんだぜほんと」
一郎には、速人の言うところが分からなかった。ただ、思い至ることがないわけでもない。昔から、時折どうしようもなく空気を悪くしてしまうことがあり、これはその延長線上のことを言われているのではないかと思ったのだ。
「ていうかあれか? 俺って舐められてんのかね。ま、迫力なんてねぇもんな俺にゃ。そりゃ、気負う必要もねぇって話になってくらぁなぁ?」
自嘲気味に速人は問う。そしてわざとらしく拳を握り固め、突き出した。父が趣味程度にボクシングをかじっており、一郎自身も何度かジムに連れて行かれたことがあった。だからはっきりと分かったのだが、速人の拳は素人のそれに近い雰囲気だった。強い、という印象は、どうしても抱けない。
「それでも、俺よりは強いですよ。多分」
「はははは、正直な野郎だな。ま、舐めてるって感じじゃねぇし、よしとするか。俺ァ、喧嘩は確かに弱いけっどよ、舐められてはい終わりってできるほど、器量も良くねぇし。ま、大丈夫だとは思うが、一応、覚えといてくれや」
速人の口調は、まるで冗談でも言っているかのようだった。だが、目が笑っていない。その発言の全てが真実なのだろうと一郎は思い、そのことでようやっと唾を飲み込んだ。
「お~い向井っち! 縛れたんなら早く行こうぜ。それとなんだっけとにかくもう一人も! 俺ぁ腹減って死にそうだぁ」
遠くの方から、どうにも気の抜けるような声が聞こえてきたのは、ちょうどそんな時だった。速人は、わざとらしく溜息を吐く。
「今行く!」
叫び、そして纏めた木の枝を肩に担ぐ。肉体労働は苦手なんだけどな、とはボヤけども、サボるという考えはないらしい。一郎も、それなりに気合を入れて枝を集めたのだが、速人が集めた束の方が幾分も大きい。
そんなことを思っていると、少し出遅れる。速人は、そんな一郎を見て笑った。
「ほら、俺たちも早くいこうぜ? あの馬鹿、誰も彼もがテメェみてぇに体力あるなんて思い込んでやがる。遅くなるとうるせぇんだ」
「でも、こういった状況じゃ、頼りになりますよ」
一郎は思う。もしも速人に馬鹿と呼ばれたあの男がいなければ、今どうなっていただろうと。きっとそこまで行動自体は変わらなかったのではないか、とも思う。けれど、同時にこれほど普通の空気ではいられなかっただろうと確信していた。明るい存在は、この状況下では貴重であった。
「そうかぁ? まぁ、下向いて俯くような野郎じゃねぇから、その点じゃましだわなぁ」
速人は一郎の評価に懐疑的である。とはいえ、やはり認めている部分はあるようで、最後にはあいつもあいつなりにいいところがあると結び終える。
「仲、ほんとにいいんですね」
「ん~どうだろうなぁ。良いとか悪いとか、そんな風に考えたことねぇから」
速人はしばらく言葉を捜す。そして、思ったままを言葉として紡ぐように、ぽつりと呟いた。
「一緒にいて居心地がよかった。つるんでた理由なんて、多分その程度だろう。ま、そうやって言葉にしちまうと、この状況であいつが、あいつらがいたってのは、よかったことなんだろうとは思っちまうな」
「……えぇ、本当に」
一郎は、速人の答えに頷き、空を見た。
「こんな訳の分からない状況で独りは、考えただけで恐ろしいですからね」
空には太陽が輝いていた。陽の光は、大地を平等に照らす。世界は明るく、その全ては一目瞭然であった。
そこには校舎があった。白い三階建ての高等学校の校舎が。その姿は日本ならば簡単に見つかりそうな、ありふれたもの。ただ、それは異常だった。
周囲を取り囲むのは樹海。それも永遠伸び、果ては見えない。樹海の中に道はなく、生い茂る姿は自然のまま。
文明と、それを否定するかのようなありのままの自然。訳が分からぬこの状況は、この場所にいる人間全ても同じだった。
何が起こりどうしてこうなったのか。全ては謎。あの日より早くも一週間が過ぎようとしていた。どうにか動き出した彼ら――あるいは彼女らに分かるのは、たったそれだけのことだった。
◇◆◇◆◇◆◇
漂流一日目
その日一郎は下校時間、それも完全に全ての生徒が退去しなければならないギリギリの時間まで、学校の中に残っていた。
理由は幾つかある。一つは、これは自業自得の部分も大きいのだが、担当の先生より雑用を任されたから。一つは、それを終えていざ帰ろうとしたその最中に、困り果てて人手を欲していた先生に見つかってしまったから。一つはそんなことをしていると一時間に一本しかない電車の時間に間に合わなくなり、暇を持て余したから。
そしてなによりも致命的だったのが最後の一つ。教室に残って時間を潰していると襲ってきた腹痛。トイレの中に駆け込んで、それから厳しい格闘を続けていると、その時間はすぐそこにまで迫っていた。
「……最悪だ」
予定ではすぐさま家へと戻り、それから明日を提出期限とする課題をなんとかしようとしていたのだが、もう色々とアウトである。これは徹夜、最悪忘れましたという手で行こうかなどと考えていると、とうとう鐘の音が鳴る。
「ありゃりゃ、てか母さんにも電話しとかないと」
今では珍しい二つ折りの携帯電話をポケットから取り出す。ディスプレイには、午後七時の文字。それが、一分へと変わり、鐘の音が終わる……はずだった。
「!?」
歪む。
何かが歪む。
視界が、世界が。
歪み、そして暗転。
意識は遠く、闇の底へ。
落ちて、落ちて、落ちて、落ちて……。
「……っ!」
一郎は目を覚ます。はてと、何故廊下で眠っていたのか訝しむが、それもすぐのこと。目眩に似た何かを感じ、倒れたのだ。
「貧血、とかだったら泣けるな」
一郎は起き上がり、携帯電話の画面を見る。いったいどれほどの時間気を失っていたのか確かめるためだ。
「……あり?」
一郎は首をかしげた。映し出されていたのは、午後七時二分と数秒。感覚的に、もっと長かったように思っていたため、少し意外だった。
「まぁ、そんなものなのかな?」
一郎は今まで、気を失ったという経験がない。少なくとも、自覚する上では。だから、感覚との誤差を、そんなものだと受け入れた。ただ、それもそこまでの話。起き上がり、現状を理解するに従って、疑問がふつふつと湧き上がる。
「……なんだよ、これ」
それは窓から見える景色。気を失ったその時は、まだ遠くの方に茜色が残っていた。だが、今は深夜のように暗闇だ。星々の輝きが、簡単に見て取れる。いや、しかしそれだけならばまだ理解の余地はある。倒れた時に携帯が壊れて、今が本当は深夜だという可能性だ。
だが、だがである。明らかな異常が、空に浮かび、そして覆い、広がっていた。
爛々と輝くのは月だろう。それは分かる。しかしならば、その隣で同じように紅く輝くのはなんなのか。大きさは似たり寄ったり。こんなもの、見たことなど一度もない。
そして空全体を薄く覆う、星とは違う煌き。オーロラとはまた違う。例えるならば天の川。一本、二本と、星々よりも近い位置に伸びていた。
なによりも、一郎を困惑させたもの。それは学校の周辺。そこには住宅街があったはずだ。だが、今そこにあるのは不気味な樹海。人工物の気配すら、微塵も見ることはできなかった。
「なんだよこれぇ!」
一郎の叫びは虚しく校舎に響くのみ。職員室はそう遠くなく、反応があってもよさそうなのに、静寂のみがそこにあった。気がついてみれば、電気も消えて校舎の全ては暗闇の中。おかしい。十分すぎるほどにおかしい。一郎は、気が付けば駆け出していた。
廊下を駆ける。その距離は短く、駆けた時間など微々たるもの。その中で、一郎はこれは夢なのではと考えるようになっていた。なにせ何から何までがおかしいのだ。これを現実と簡単に受け入れるなど、馬鹿げている。夢だと思う方が、むしろ現実的だった。
下駄箱から外靴を引っ張り出し、履き替えて。上履きはそのまま放って、とにかく校舎から飛び出した。
「っ!」
切望していた。どこかに現実の匂いが残っていることを。だが、そんな願望は、どうしようもない現実に潰される。
やはり樹海。校門のすぐ近くまで、背の高い木々が生い茂っていた。二つの異なる月の光に照らされて、その放つ雰囲気たるやつい身じろいでしまうほど。そんなものは、そこに存在しなかったはずだった。
「なんで、どうなって……?」
一郎は、吸い寄せられるようにして門を出た。そして、一番近くの木に触れる。それは間違いなくそこに在る、本物の木だった。
一郎は考えを巡らせる。
攫われた? しかしここは学校だ。校舎は、間違いなく今まで通ったものそのままだ。
そっくりなだけで実は別の場所? いいや校門にある名前は、自身が通う高校のものだった。
なら、なにが? 分からなかった。何一つとして、理解できるはずがなかった。
「おいっ!」
と。呆ける一郎を呼ぶ声。心臓の音が、急激に跳ね上がる。ほとんど反射で、構えて振り返った。
「待て、俺たちはお前と同じだ」
「え?」
そこに立っていたのは、二人の男だった。一人は袴姿の武士然とした男。もう一人は眼鏡をかけた、どこか見覚えのある顔をした男だった。
「お前も、気を失ったかと思えば、こんな訳の分からん状況だった、といったあたりだろう?」
袴姿の男が、ずいと前に出て問う。それはまさしくその通りで、しかし一郎はその少し前が印象に残った。
「も?」
「あぁ、俺たちも同じようなものだ。加えて、他数人見つけたのだが、皆同じような認識だったのでな」
「他数人?」
「それを喜ばしきと思うか、悲しきと思うかは微妙なところだが、とにかく来ないか? とりあえずとして体育館で集まっている。訳が分からんが、何らか起きているのは確実だからな」
一郎に拒む理由はない。眼鏡の男を見る限り、この学校の生徒なのだろう。同じ境遇の存在は、こんな状況では喜ぶべきだ。
一郎は袴姿の男の言葉に、是と答えた。すると、二人はならば先に行くように告げた。なんでも、二人は他にも誰かいないか校舎全体を探していて、今はその途中なのだとか。一緒についていこうか、とも思ったが、何が起こるか分からない、もうすぐ終わりだから大丈夫だ、などと言われてまだ押すほど強い思いでもなかった。
「分かりました」
頷くと、一郎は体育館を目指して駆けた。幸い校舎に異変はないようで、体育館は記憶通りの場所にあった。
「では、とりあえず現状を纏めますか」
一郎が体育館へと辿りついて、しばらく経った。二人は、三人の男と一人の女を連れて戻ってきた。ちなみに、体育館には袴姿の男の言うように、既に何人かが集まっていた。具体的に説明すれば、男が二人に、女が一人。あからさまに機嫌が悪いのが溝渕佳祐で、気弱な剣道部員が八坂八尋で、こんな状況にも関わらず携帯ゲームと格闘するのが森本彩だ。それとなく事情を聞いてみたのだが、やはりというか皆同じ境遇だった。
さて。
とりあえずとして、探した結果見つかったのは四人だけだったようだ。敷地内は全て捜索したため、この場にいるのは今いるので全員となるとのこと。様々な不安からか、皆は一様に押し黙り、体育館には沈黙のみがあった。
それを破ったのは、袴姿の男だった。現状を把握するためにも、皆で情報を出し合わないか、と提案したのである。加えて、話の進行役として眼鏡の男を推した。眼鏡の男は、初めこそ頭を振ったが、他に立候補する姿がないことを確認すると、仕方なしといった表情で皆の前に立った。そして、第一声。
「とりあえず、ご挨拶。生徒会長を務めさせてもらっている……いや、この状況じゃ、もらっていた、かな? 神代修司です。他に適役がいないということなので、及ばずながら進行役を務めさせていただきます」
一郎は、ようやっと思い出した。
この状況下でありながらなに食わぬ顔で在り来りな言葉を紡ぐその冷静さ。確固たる自信に満ちつつ、同時に謙虚さも伺えるその顔立ち。一郎には覚えがあった。
とある名家の生まれ。その学力たるや全国模試にて上位に食い込むほど。身体面にも抜かりなく体力テストでは陸上部のエースと競い合ったとか。株取引で成功しその個人資産高校生の身分にして百万を軽く超える。あらゆる雑事なんでもござれ全てスパット解決の生徒会長。喧嘩の仲裁をする姿を目撃されているのだがその全てで実力行使。ただし相手、自身共に傷一つなく完全制圧。入試なんて必要なしあらゆる分野から引く手数多金を出してでも来て欲しいとの声も……などなど。
何やら変なものやら流石に誇張されすぎなものも多いのだが、様々な噂に逸話を持つ、学校一の有名人。稀代の傑物その人だった。
修司は、自身の考えを述べながら、同時に皆を促す形で情報を集めていく。そうしてなんとか話し合いの形となり、ある程度の情報が出揃ったところで、体育館倉庫よりホワイトボードを取り出し言ったのがはじめの言葉である。
修司はホワイトボードに文字を綴った。
・一つ。
校舎に目立つ異変はなし。備品なども、見た限りではそのまま。ただ、当然かもしれないがコンセントに電気が来ていない。電池を使用するものならば可能だが、電灯や他コンセントが必要になる電化製品は使用できない。
・一つ。
外部との連絡手段はなし。固定電話は前述の理由から使用できず、携帯電話の類も圏外。
・一つ。
防災対策の一環としてか、第二倉庫に食料などの貯蓄がある可能性があり。後で確認が必要だが、当面の間は食うに困ることはないだろう。
・一つ。
現状、何が起きてこうなったのか不明。現在位置も不明。屋上から周囲を確認したが、夜ということもあり見通しが悪く、周囲を深い樹海が覆っていること以外には分からなかった。明日、日が出てから確認が必要。
「こんなところですかね」
キャップを閉じる。あまり喜べない情報の列挙からか、反応は鈍い。
「どうなるですかね、私たち」
そんな時に、どうにも不安を駆り立てる言葉を呟いたのは、森本彩だった。当事者であるはずなのに、その声はどうにも他人事を言っているように聞こえる。実際に、その目はゲーム機に向けられて、両手は忙しなくボタンを連打している。よくもまぁこの状況で、とも思えるが、かとすれば同時に話は聞いていたのだな、とも感心できる。皆の微妙な視線に気がついて、彩は顔を上げた。だが、何故そんな目を向けられているのかは分からなかったらしく、不思議そうに首をかしげる。
「何か変なこと言った?」
変なのは言葉ではない。とは誰も突っ込まない。代わりに、修司がやれやれといった表情で口を開いた。
「正直なところ、分からない、としか言えませんね。実はお前は夢を見ているのだ、などという世迷言を言われても、あるいはそれが真実なのかもしれないと思ってしまうほど、馬鹿げた状態なのが今ですから」
「じゃ、一度寝てみる? 夢の中で眠ったら、目が覚めるって。……どこかで聞いた気がする」
相も変わらず呑気である。危機感というものはないのだろうか、とはこの場に居合わせた全員が思うことだろう。
「そうですね。少なくともこれが夢なのか現実なのかはっきりとしますから、それも悪くないかもしれません」
ただ、修司の方もさすがというべきか。朗らかな表情で、それもありだと答えるのだ。
「っと。まぁしかし、それは何時でも試すことができますし、もう少し後にとっておきましょう。……あまり考えたくはありませんが、ここが安全という保証もありませんし、最悪でも何かしらの対策を講じた後、ということになりますね」
「とはいえ、具体的にどうする? 備えるとは言っても、何にだ?」
袴姿の男の問いは、皆の総意でもあった。これが地震ならば、あるいは他になんでもいいとにかく原因の分かる自然災害ならば、対策というのも素直に頷ける。だが、現状はそのどれにも当てはまらない。ばかりか、どれを参考にすることだって出来はしない。日頃の授業も、訳の分からぬ状況での対応方法までは教えてくれてはいなかった。
修司は、顎に手を当ててしばし黙考する。
「例えば、例えば人間です。一応探したとはいえ、相手に隠れるという意思があれば、私たちの目を誤魔化すことなど容易だったでしょう。もし仮に、その者に私たちへの害意があったとすれば、どうでしょう。例えば獣です。周囲は深い森。私たちが暮らしていた町とは違い、なんらか獣が潜んでいたとしても不思議ではありません。ガラスなど存外と脆いものです。肉食の、それも凶暴な獣が現れれば、私たちには何ができますかね。あぁ、それに伴って虫というのもありますね。まぁしかしこれは、建物を閉め切ってしまえば、少なくとも一晩程度は平気でしょう。……さて、他にはなにがあるでしょうか」
修司は他にも幾つか例を挙げた。集まっていた皆も、それに触発されてか不安要素を上げていく。中には発言者以外の賛同を得られない意見もあったのだが、話し合うことで、ようやく落ち着きが生まれだした。
だが、そんな時のことである。何かが、皆の耳に届く。話題が話題だっただけに、頭の中に浮かぶまさかの文字。ごくり、と唾を飲み込み固まる中、修司は己が確認に行くと告げた。ただ、流石に一人はまずかろうということで、もう一人共に行こうという流れに。
選ばれたのは、一郎だった。
「えっ、自分ですか!?」
一郎は驚く。なにせ、ついて行ったところでという思いが大きすぎる。人並みに体力があるつもりだが、それも帰宅部としては。運動部と比べれば当然のように劣るし、この場所にはもっと適任がいるだろうと思ったからだ。
だが、袴姿の男は言う。
「ここも備えておかなければいかないからな」
一理ある。頷くほかなかった。
八尋は言う。
「ぼ、ぼぼ僕、はその、いえ行きますよ。僕なんかて役に立つのなら、その、喜んで!」
これにはさすがの一郎もじゃあお願いしますとは言えない。
佳祐は言う。
「なんで俺がんな危険かもしれねぇことする義理がある。あぁ?」
絶対に無理だ。これはどんな方法を用いようと代わってくれることなどありえない。
他にも聞いてみようかとしたのだが、その前に一郎は諦めた。残っているのは女性と、あとは連れてこられた三人組。どうも三人組は面識があるらしく、なにやらあーだこうだと話している。若干一名は沈黙を貫いているとはいえ、その中から誰か一人代わりを務めてくれないか、とは空気が読め無さ過ぎるし、女性に押し付けるのも男が廃るというものだ。
一郎は、気が付けば分かりましたと返事をしていた。
「ほんと、不気味ですよね」
校舎の壁はそのほとんどが白塗りだ。だから、月明かりがそのまま色として全てを染め上げていた。紅く妖艶に輝く校舎は、そこかしこに散らばる影も相まって、必要以上に神経を尖らさせる。
「先程はああ言いましたが、実際のところそこまで神経質になる必要はありませんよ。この状況下でなおなんらか悪意をもって動こうと思える者などそうそうにいるわけがありませんし、校舎は四方全てを塀が囲っていて、出入り口の門も閉めておきましたから」
先を歩くのは修司である。曰く、生徒会長として前を歩かせるわけにはいきませんから、とのこと。一郎はその後ろで、携帯のライトで行先を照らしていた。
「あ、そうなんですか? でも、だったらどうして?」
「まずありえない。だとしても、可能性が0ではありません。もし万が一、ということを考えれば、せめて事前に知ることで覚悟だけはしておいて欲しかったのですよ。万が一が起こってしまった時、動きを止めてしまわないために」
「あぁ、なるほど」
「ま、気休め程度ではありますがね」
修司は、未だ余裕の表情だった。一郎は、それに頼もしさを覚える反面、同時に少しは不安になってくれとも思っていた。第一に、不安で腰が引けている自分が情けなくなってくるから。第二に、だからか歩むスピードが早くついていくだけで心臓に悪いから。
口に出せば、この男はきっとスピードを緩めてくれるだろう。一郎はそう思いつつも、口に出すことは結局なかった。別に、意地になって、というわけでもない。単純に、早く戻りたいとも思っていたから。要するに、どっちにしろ構わなかったからである。
校舎には入らず、体育館の周囲と、それから中庭を見て回る。だが、動く影も見つからない。風で何かが揺さぶられた音だったのだろうか。だが、しかし、もしかしたら……。不安は可能性をそこらじゅうから拾い集める。
だが、結局一通り見回っても、何も見つかることはなかった。それは良いことのはずである。なのに、どこか残念がっている自分に気がついて、一郎は首を横に振った。恐怖でおかしくなっている、正気に戻れと胸の中で呟く。
「戻りましょう。これだけ探して何もないのですから、風の悪戯かなにかだったのでしょう」
「えぇ、そうですね」
修司の言葉に、一郎は頷く。断る理由がないどころか、賛同する理由ばかりが思いつく。ただ、それはつい今しがたの己の思いを否定するかのようでもあった。
校舎の端まで見に行ったとはいえ、学校の敷地の広さなどたかがしれている。大学ならばいざ知らず、ここはどこにでもありそうなしがない高校なのだから。早足なのも相まって、すぐに体育館が見えてくる。
「はぁ」
ほっと一息。一郎は、何もなかったことに胸を撫で下ろす。現状の何が変わったわけでもないのだが、それでも良かったと思った。
と、そんな時のことである。
――――。
声が、聞こえた。
「!」
「? どうかしましたか?」
修司は首をかしげる。そのことに、一郎は違和感を覚えたが、それが何を掴む前に、足が動いていた。
「どこへ?」
「声が、聞こえたんです。その、多分なんですけど、絶対なんです」
「?」
修司が首をかしげるのも当然だ。一郎ですら、己の言動が異常だとは認めざるおえない。だが、そうとしか言えなかった。確証がないのに、確信はあったのである。
「こっち」
声のした方へと歩く。そこは先ほど探したばかりの場所。誰がいる訳もないのに、一郎はそこを目指した。
果たして。
そこにはやはり誰もいない。誰かがいた気配もない。ただただ不気味な空気だけが、その場にはあった。
「確かに、聞こえたのですか?」
「そのはず……なんですけど」
修司の問いに、強く頷くことはできない。一郎自身も、思い返せばどうだったか不安になる。なにせ、聞こえた声というのがどういう言葉で、また男のものなのか女のものなのかさえ、分からないのだ。
「気のせいだったかもしれません」
だから、一郎はそう答えるしかない。
「そうですか……。ふむ、気にはなりますが、しかし見つからない以上どうすることもできませんしね。とにかく、戻りませんか? あまり遅くなっては、皆さんの不安を煽る結果にもなってしまいますからね」
「……はい」
一郎は頷く。気のせいだった、とは思えない。けれど、修司の言うとおり人影はなく、探して回ったところで結果は同じだろう。二人は、再び体育館を目指して歩き出した。
校舎の端から、中庭へ。ふと、修司が立ち止まった。周囲に意識を向けていた一郎は、気がつくのが遅れてその背中にぶつかる。
「どうしました?」
「……聞こえませんでしたか?」
「えっ!?」
次は、どうやら一郎の番らしい。立場が変わり、理解するが、これは非常に不安を煽られる。一郎は、慌てて耳を澄まし、周囲に意識を張り巡らせた。一体何が、と思ってそうしていると、今度ははっきりとその耳に届く。
「――あぁああぁあ!!!」
それは悲鳴。さっきの、あのあやふやなものとは違う。生々しく、はっきりとした人間の、男の悲鳴だった。
声がどこから聞こえたかなど、考えるまでもないことだった。この状況下で、はっきりとした悲鳴をあげる存在がいる場所は、一つしかないのだから。動き出すのは、修司の方が速かった。険しい表情になったかと思えば、目を見張るほどの勢いで駆け出していた。
「あ、待って!」
一郎も、遅まきながら続いて駆け出す。
修司は速かった。一足ごとに、差が生まれる。だが、途中まで戻っていたこともあって、体育館までの距離は短い。そこに辿り着き、その光景を目にしたのは、ほとんど変わらぬタイミングだった。
「な――」
言葉を失う。それは、一郎も修司も同じ。目の前の光景は、こんな状況の中にあっても、そうなってしまうくらいに馬鹿げていた。
端的に言ってしまえば、骸骨の集団。その数は、いったい如何程になるのか。
先ほど見たときはなにも存在していなかったはずなのに、体育館の入口の前を、不気味で馬鹿げた存在が占拠していた。
「皆さんは!」
修司ははっと気がついたように動こうとする。それはほとんど同時だった。
爆ぜた。まさしくそう表現するしかない。わらわらとした動きで体育館の中になだれ込もうとする骸骨の先頭集団が、何かに吹き飛ばされて空を舞う。その飛距離たるや。どじゃ、と地面で砕け散ったのは、なんと一郎と修司の目の前だった。
「ふんっ!」
と。骸骨の隙間より、その姿が見える。
体躯は日本人離れして、二メートルはありそうなほどに巨大。その上で、まるでアメフト選手のように逞しい体格をしている。発揮される力たるや、その見た目に違わぬほどに強大。振るわれる拳は時に骸骨を吹き飛ばし、時に砕き。まさに無双。体育館に侵入しようとする骸骨の集団をたった一人で圧倒するのは、修司に袴姿の男が連れてきた三人組のうちの一人だった。
「――あぁああぁあ!!!」
その悲鳴は、聞き覚えのある声だった。九条和也は、閉じていた瞼を開く。瞳に映る景色に、見慣れた姿がないのを確認すると、無言で立ち上がった。
「何事だ!?」
袴姿の男が、警戒の目を体育館の入口へと向ける。だが、それだけ。その場をすぐに動こうとはしない。それはきっと正しい判断だ。むやみやたらと動くべきでないことは、和也も分かる。
だが、関係ない。
和也は、その隣を歩き、声の方を目指した。
「お、おい!」
呼び止めるのは、袴姿の男。大方、慎重に、とでも言うつもりなのだろう。
「関係ない」
「なぁ!?」
「俺がどこに行くのも、俺の勝手だ」
そうして、一人で体育館の外に出たのだ。
「これは……」
流石に、そこにある光景は予想外だった。
骸骨。
それが、視界の全てを埋め尽くしていた。それも、地面に転がる訳でもなく、生きているように蠢いた状態で。
「なんだよこりゃぁ」
「速人、そこで腰を抜かしてる阿呆をとっとと中に連れ込め」
後を追ってきた、眼鏡の男に和也は告げる。見れば、入口の窓に背中を預け、腰を抜かした男の姿がそこにはあった。
「お前はどうすんだよ和也!」
「……さぁな。言葉で済むならそれでいい。だが、通じねぇってんならやることは一つしかないだろう」
実力行使。降りかかる火の粉は払うまで。和也と、眼鏡の男とは長い付き合いだった。わざわざ言葉にせずとも、言いたいことは分かる。
「分かった。気ィつけろよ!」
眼鏡の男は、力強く頷くと、腰を抜かす友人を引っ張って体育館の中へと消えた。普通、否定する場面である。相手は、訳の分からぬ存在なのだから。だが、眼鏡の男は信じていた。和也のことを、これ以上ないほどに信頼していた。
たとえ何が相手であれ、遅れを取ることなどありえないと。
「さて」
二人が体育館へと引っ込んだのを確認して、和也は一歩前に出る。骸骨たちは、次第に距離を詰めてきていて、それだけでもう接触しそうなほどに迫っていた。
和也は問う。
「何もんだ、てめぇら?」
だが、答えは返ってこない。
「ここに何の目的がある?」
これもまた、当然のように。
「帰れ、と言って帰るのか?」
骸骨が、その腕をあげる。力強さは感じないが、和也は理解していた。
骸骨が発するのが、敵意であるということを。
「やれやれ」
腕に力を込める。
骸骨の左腕が振り下ろされた。想像していたよりも鋭く速い。和也は、上半身を捻ってそれを躱す。そして――。
「ふんっ!」
右腕を放つ。
和也は、幼い頃より畏れられてきた。その身体能力は、物心つく前から常軌を逸していた。ばかりか、成長とともにそのタガの外れ具合も増して行き、ついには化け物と呼ばれるにまで至っていた。
捨て去りたいと思ったことは、数えればキリがない。生んだ母を恨みこそしなかったが、だからこそ一層己を嫌悪した。なぜ、己はこうも異常なのだろう、と。
だが、そうした和也の想いなど世界は知らぬとばかりに、力を振るう日ばかりが続いた。始めはその大きな身体にいちゃもんをつけられたから。歳が三つも離れた上級生に、和也は何の苦労もなく勝利した。それからは、その仇討と仲間連れで挑まれ、それを返り討ちにし。それを聞きつけた別の誰かに喧嘩を売られ、また圧勝。繰り返すうちに噂が一人歩きして、和也自身にもどうすることもできなくなり。
気が付けば、喧嘩は日常の一部となっていた。忌避していた力は、繰り返される喧嘩の中で更に磨きがかかり。
その結果。
高校生になる頃には、その身体能力たるや常軌を完全に逸脱し、本人ですら化物と認めざるおえないほどとなっていた。放たれた拳は、骸骨の肋骨部分へと突き刺さり、穿ち、それでも止まらず背骨を押し上げ、骸骨を空へと打ち上げた。
「手加減はしねぇ。さっさと墓場に戻ってもらうぜ」
骸骨たちに怯む様子はなかった。のそりとした動きで、なおも迫り来る。不気味だ。和也も、流石に気味の悪さを感じていた。
だが、怯む理由はない。
和也は己の力が嫌いである。己の力を誰よりも理解しているからこそ、嫌っていた。皮肉かな、それ故に和也は己の力をある意味で信頼もしていた。骸骨の集団に負ける姿を、欠片も思い浮かべることはできなかった。
和也は骸骨の集団の中へと飛び込む。四方からの攻めを難なく躱し、圧倒的暴力を振りかざす。骸骨に抗う術はなし。次々に打ち上げられては砕け散り、その数はあっさりと減っていった。
異形の化け物を相手に一方的に蹂躙するその姿は、まさしく化け物と形容されても仕方ないほどであったのだが、本人はそのことを知らない。
さて。
場面は変わり、ここは体育館の中。和也が骸骨の集団を蹂躙する、ちょうどそんな時。体育館の中に、叫び声が響いた。
「ああぁあぁあぁああああぁああぁああ」
その叫び声は、奇妙なものだった。聞いているだけで、気分が悪くなってしまうような、どろどろとした、歪な叫び声だった。
その声を発するのは、溝渕佳祐。彼の姿は、しかし体育館の中には見られない。声は、体育館の中央で揺らめく、不気味な影から聞こえていた。
「なにがっ……!」
袴姿の男――岩滝仁は、目の前の光景に絶句するしかなかった。
経緯を説明するならば、少し時間を遡らねばならない。
それは、和也が外へと向かったその時だった。仁は、その後を追おうとしたのだが、八尋の声がそれを止めた。
「あ、あれっ! なに!?」
後輩の驚嘆の声を無視するわけにもいかない。足を止め、後ろを振り向く。そこには、奇妙なものが見えた。
影である。まごうことなき影。暗闇の中でさえ一際目立つ異質な影が、体育館の二階から一階へと水のように滴り落ちていた。
固唾を飲んでそれを見る。あまりにもあまりにな光景に、誰もが動くことを忘れていた。
影は、とうとう全てが一階の床へと落ちる。予兆はなかった。きっとそれは偶然だ。まるで水たまりのようになった影が動いたかと思えば、最も近くにいた溝渕佳祐が影に飲まれた。
そして、上がる悲鳴。姿が見えるうちこそ溝渕の声と分かるものだったが、その姿が影に飲まれるに従って異質なものへと変わってゆき、そうして、今に至る。
「部長、溝渕さんが!」
「あぁ、分かっている!」
八尋の不安げな声に、まるで自分に言い聞かせるかのように仁は答える。そして、怯んでいた心を叱責し、影に向かって飛び出した。
「っ!」
恐れない訳が無い。だが、恐れていては何もできない。ぐっと奥歯を噛み締めると、仁は右の手を影の中に突っ込んだ。
「~~~~っ!」
全身を、これまで感じたこともないほどの寒気が舐めまわす。気を抜けば腰が抜けてしまいそうだった。今すぐにでもこの場を離れてしまいたい。それが仁の本音だった。
気が付けば、口の中に鉄の味が広がっている。どこかを噛み切ってしまったのかもしれないが、痛みは不思議としなかった。
「――っらぁあ!」
もう無理だ。思ったのと、突っ込んだ右の拳が何かに触れたのは、ほとんど同時だった。それが何かなど分からなかったが、しかし仁に余裕はない。遮二無二力を振り絞り、それを引き抜いた。幸いにしてそれは佳祐であり、二人はごろりと地面を転がって影から遠ざかる。
「っはぁあああぁあぁあ!」
仁は呼吸した。随分と久しぶりな気がした。肺が、一呼吸ごとに蘇っていくのが分かった。汗が噴き出す。まるで真夏の炎天下の中で全力疾走をした後のように、全身は汗で濡れていた。
「あぁああああぁあぁあああぁああああ」
その隣で、佳祐は喚く。どうにもまずいように見えたが、声は溝渕のもの。先程の異質なものではなかった。
「部長! 大丈夫ですか!」
「あぁ、大丈夫だ。それより、影は!」
駆け寄る八尋に、仁は問う。手を突っ込み、分かった。あれはまずい存在であると。理屈を抜かして、本能がそれを理解していた。
「分かりません。ずっと、あそこに……」
首を捻ってそこを見る。確かに、影は未だに佳祐を飲み込んだその場所で蠢き続けていた。
「他の奴らは?」
「外には出られないとかで、二階に」
「そうか」
何故外に出られないのか。この時、仁はその理由を知る由はなかったのだが、疑問に思うことはなかった。何か起こったのだと、起こっているのだと、そう思った。
「なら、八尋、お前も行け。佳祐と、それと皆を任せたぞ」
仁の言葉に、八尋は反射的に頷きかけて、すんでのところでそれを止めた。任せた、その言葉が、どうにも頭に引っかかった。
「部長は、どうするんですか?」
「……俺か」
仁は足に力を込めて、立ち上がる。立ち上がり、心配そうな、同時に心強さを感じさせる面持ちの八尋を見て、笑った。
八尋は臆病な性格だ。誰と争うことも苦手で、心底嫌っている。些細なことにすぐ怯え、恐れ、泣きっ面になるのは日常だった。この一年間、剣道を続けられたのが、一時は不思議でならなかったほどである。
だが、とある日に気がついた。八尋は確かに臆病な性格かもしれないが、だからといって腰抜けではないことを。
八尋は、絶対に曲がらない芯を持っていた。その芯を貫き通すために、泣きっ面なのに語気を荒くし、溝渕と真っ向から言い合っていたことを思い出し、仁はふと笑ったのだ。
「俺は、あれの相手をする」
八尋ならば大丈夫だ。不確定要素の多い今、これに挑むのは自分の役目。仁は、腰の木刀を前で構えて影を見た。
「早く!」
仁の気迫のこもった言葉に、八尋は圧倒されたようにようやく動き出した。溝渕を担ぎ上げ、遠ざかり出す。
「っ! おとなしく待ってはくれないか!」
影が動き出したのは、ほとんど同時。まるで溝渕を返せとでもいうかのように、担いで退く八尋の方へと迫る。
「お前の相手は俺だ!」
木刀を振り抜く。相手は影。まるで手応えは感じられず、空を切ったかのように思えた。
だが、意味はあった。影は動きを止めて、その場で再び揺らめいた。
「ふっ!」
続けて、更に一撃。やはり手応えはない。悪寒が背中を走る。仁は、ほとんど反射で後ろへ跳ね飛んだ。
「!」
影が、今の今まで自身のいた場所を飲み込む。頬を汗が伝う。改めて、相手が異形の存在だということを認識した。予備動作も、予兆も、何一つとして感じ取ることができなかった。
果たして時間稼ぎすらできるのか。疑問が頭の隅に浮かぶが、仁はそれを押さえ込んで、再び攻める。
「せあぁ!」
影は仁を飲み込もうと、時折蠢いた。仁は、感覚の全てを研ぎ澄まし、それに対応する。
まるで綱渡りのようだ。別段、影の動きは速いでも、鋭いでもないのに、気を一瞬でも緩めれば飲まれそうになる。その上で、影の意識が八尋の方へと向かぬよう、攻めを緩めるわけにもいかない。精神力は、簡単に擦り切れていった。
「くそっ!」
とうとう、影が仁を捉える。仁は、何を考えるよりも早く、遮二無二避けた。
「っ」
受身のことなど考慮していない。床に顔から突っ込んで、鈍い痛みが脳を揺らす。一瞬、動きを止めてしまいそうになるが、気合一つに跳ね起きて、影を見る。
だが、既に遅かった。
影は視界の全てを覆っていた。もはや逃げることは不可能。仁にできたのは、迫り来る影の壁を見ること、ただそれだけだった。
「邪魔だ!」
その時、後ろから声がした。かと思えば、仁は殴り飛ばされる。無様に地面を転がって、見ればそこには溝渕佳祐が立っていた。
「テメェに助けられたなんぞ反吐が出る。借りのつくりっぱなしなんざ死んだほうがマシだ!」
「なっ!」
「俺は――」
なんと言おうとしたのか。仁の耳には届かなかった。佳祐は、再び影に飲み込まれる。
「あぁああああぁあぁあああ!」
悲鳴。初めこそ、佳祐の声だと分かったが、次第に異質なものへと変貌していく。
このままではまずい。仁は、再び影の中から佳祐を引っ張り出すべく、影へと突っ込もうとした。
「――――――――」
だが、それは間に合わない。
一際大きな、もはや悲鳴と言っていいのかも分からない咆哮を最後に、声が止む。すると、影が揺らめいたかと思えば、霧散した。
宙を影の残骸が舞う。それはふわりと地面に落ちて、溶けるように消えていった。しばらくして、体育館から異質な影は消え去って、
同時に、佳祐の姿さえも消えていた。
◇◆◇◆◇◆◇
漂流七日目
「これ、ちょっとやりすぎじゃないですか?」
一郎は、目の前の光景に、つい問うた。目の前には、ごうごうと燃える炎。それは深く樹海の中に踏み込むようになった捜査班をここへと導くためのもの。いわば、狼煙のようなものである。
だが、である。
炎の勢いたるや相当のもの。もうもうと黒煙を吐き出して、果たして狼煙とはこんなものだったかと疑問を浮かべてしまうほどであった。
速人は言う。
「あ~、馬鹿に任せたのは失敗だったみてぇだな」
馬鹿、とは富田賢司――三人組の残るひとり、あからさまにチンピラ然とした姿の男のことである。一週間の付き合いでそのことを理解していた一郎は、特に迷うでもなく視線を動かし、賢司の姿を探した。
「で、えっと富田さんは?」
賢司の姿は、見える範囲にない。これだけの炎を生み出しておいて、一体どこへ消えたというのか。
「…………はぁ」
速人の疲れたような溜息に、一郎は思わずお疲れ様と呟いていた。
「おぉうおぉう、どけいどけい!」
と、そんな時であった。噂をすればなんとやら。後ろの方から、賢司の声が聞こえた。どたどたどたと、その足音はかなり重い。
「ったく、どこ行ってたん――ってうおぉ!」
速人が見たのは、迫り来る錆び付いたドラム缶。ものすごい勢いで、目の前に叩きつけられる。ずしん、と洒落にならない地響きが鳴った。思わず後ろへ飛び退いた速人は、すんでのところで炎を躱し、それを行った男に食ってかかる。
「あっぶねぇだろうが、なんだよこりゃぁ!」
「見て分かんねぇのか? ドラム缶だよドラム缶! 物置の中で見っけたんだ! これに水張ってよ、で下からあの火で熱するだろ、ドラム缶風呂の完成だぜ!」
賢司の顔色はぱぁあと明るい。まるで、世紀の大発見を自慢しているかのようだった。速人はげんなりと、一郎は興味深げにドラム缶を見る。
「お前、昨日から妙に機嫌が良かったのは、これか?」
速人は、ふと思い出す。そういえば、夜中に姿を消すことがあった。この状況下であるし、何をしているのかと頭の片隅で引っかかっていたのだが、まさか倉庫を漁っていたとは。何らか目的を持って動くのは苦手のはずだし、ドラム缶を見つけたのは偶然だろう。まったく、どうしてこうも馬鹿なのだろうと、速人は呆れた。
だが、同時に惹かれもした。この一週間、まともに体を洗えていない。それは女子も含めて全員である。軽く水で体を流すばかりで、風呂に入れるというのは喜ばれることだろう。幸いにして、つい二日前に樹海の中で川が発見されていた。それなりに遠いのだが、水不足になるからと却下する必要もない。
「俺、今から水汲みに行ってくるわ! んでよ、お前らこれ隠しといてくんね? こういうのはやっぱサプライズじゃなきゃぁよぉ!」
この体力は、本当にどこから溢れ出てくるのか。一郎も、速人も、こればかりには感心せざるおえなかった。
と。
意気揚々と、賢司は歩き去ろうとする。隠すならなんで持ってきた。てか押し付けるんじゃねぇよ。他にも、色々と言いたいことはあった。だが、それら全てを飲み込んで、速人は一つだけ問うた。
「なぁ、隠すって誰によ?」
富田賢司は馬鹿である。頭の中は単純に出来上がっており、ドラム缶が見つかったそれだけでもテンションを上げるのは頷ける話である。
だが、果たして、ここまで意気揚々となるのか。
答えは否。何かしら他に考えがあることは、間違いのないことだった。
賢司は、振り向き答える。
「そりゃ、もちろん女たち二人に決まってるだろ? 野郎なんかより、女の方が喜ぶに決まってる!」
それだけならば、いい奴じゃないかで済んでしまう。しかし、それで済まないからこそ、賢司は馬鹿なのである。
誰が何を言うわけでもないのに、賢司は更に語った。少し離れているから大きな声で。
「んで、俺は感謝され好感度アップ。気を許してくれた彼女らは、きっと俺に頼んでくるんだぜ。『お願いします。お風呂に入っている間見張っておいてくれませんか?』って。俺の答えはもちろん応! 俺はもちろん真面目に仕事は遂行する男だ。けっどまぁ、ちょっとしたアクシデントってのは、何事にも付きものだろう? ちらっとその姿が見えちまっても、仕方ねぇってもんだよなぁあ? はっはははははは!」
高笑いが響きわたる。一郎は、どうしたものかと頬をかいた。すまないあいつは本当に馬鹿なんだ、との隣の声には、乾いた笑い声を返す以外にできなかった。
賢司の言葉は、なおも続いた。それは、発表のタイミングはいつのしようか、といったまともなものから、どこでどんな言葉を使い、どのタイミングでちょっとしたハプニングを起こすべきなのかという、至極どうでもいい内容のものまで、事細かに。
もしも賢司に、もう少しばかり知恵があったのなら。
学校の敷地がそれほど広いわけでないことを覚えていただろう。
もしも賢司に、もう少しばかり知能があったのなら。
他の、特に女子の現在の動きを把握していただろう。
だが、何度も言うように、賢司は馬鹿なのだ。行うべき当然も、彼には意外な盲点と成り果ててしまう。
「ちぇぇえええぇりりゃああぁあああああっぁあ!」
後ろから飛来する影。それは賢司の背中に勢いの全てを叩き込み、賢司の体を吹き飛ばす。
「うごおぉおおおぉおああぁ!」
転がる。突然のことで、賢司には何が起こったのか分からなかった。ごろりごろりと転がって、自らがつくりあげた炎の中へ突っ込む。灰を派手に撒き散らし、そこから更に転がって。最後に顔を地面に減り込ませ、賢司はようやっと止まる。
「うっへぇ、流石にあらゆる格闘技に精通してるだけはあんなぁ」
賢司の惨状を目の当たりにし、速人は思わず漏らす。一郎も、声にこそ出さなかったが、頷いてしまっていた。
シュタ、と華麗に着地。そして、ギン、と鋭い視線を二人に向けたのは、遠野美樹。あの日、修司と仁が見つけてきた女子生徒である。あらゆる格闘技に精通する、というのは速人の冗談。だが、曰く父のせいで幼い頃から様々な格闘技の練習を課されていたとかで、そんじゃそこらの存在に負けないほどの身体能力を有していた。
「さぁ、次! 変態は、私が成敗してやる!」
さて、そんな彼女が有無を言わせぬ闘気を放ち睨むのは、喧嘩が苦手な少年向井速人と、どこまでも平凡で喧嘩の経験皆無の田中一郎。先にこの状況のまずさに気がついたのは、速人の方だった。
「…………」
速人は、両方の手を上に挙げて、己の潔白を示す。ついでに、あなたが探しているのは隣の男ですよ、とでも言うように、ちらりと横を見るのも忘れない。
果たして、速人の策謀は見事に成功した。
「え?」
一郎は、思わず首をかしげる。
「えっ!?」
ようやっと事態を理解して、後ずさった。
「ちょっと待って! 違う! 違う違う!」
すがるような目で速人を見るが、当の本人はどこ吹く風。というよりも、その横顔はどこまでも愉しそうであった。助けは期待できない。一郎は、テンパった頭でどうにか言葉を捜す。
だが、残念かなテンパってはまともな言葉など出てくる訳が無い。
「問答無用!」
闘気がぶわっと膨れ上がったのが、素人の一郎ですら分かった。それからどうなったのかは、一郎には分からない。
腹部に衝撃。視界が暗転したかと思えば、思いっきり引っ張られた。次に感じたのは浮遊感。何、と思う暇はなく、再び背中から衝撃が突き抜ける。肺の空気が押し出され、意識が揺らいだ。
意識を手放す間際、一郎は思う。
あぁ、でも良かった、と。
こんな訳の分からぬ状況で、こんな風に過ごせることが、嬉しかった。失ってみて分かるとはいうが、退屈を感じていた日常は、存外と悪いものでもなかったらしい。
――まぁでも、これを日常というかは、ちょっと微妙だけど。
一郎は意識を手放して、夢の中へ。行き交う光景は、この一週間のものだった。
あれから。
体育館前に犇めいていた骸骨は、そのほとんどが九条和也によって掃討された。地面を粉々に砕け散った骨が埋める光景は、紅い月の光も相まって、かなり不気味なものだった。だが、不思議なことにしばらく経つと、まるでそれらは幻だったかのように、風に吹かれるかのように、霧散して消えた。気が付けば、そこに在ったのは月明かりを除けばいつもと何ら変わらぬ光景だけだった。
溝渕佳祐は、完全に姿を消してしまった。学校の敷地内は、校舎の中も含めてすべて捜索したのだが、その姿はおろか、手がかりの一つも見つかることはなかった。その瞬間を目にしたのは、岩滝仁に八坂八尋、加えて向井速人が遠目に、というだけ。あまりに馬鹿げた話に、影を見て避難していた者たちでさえ、受け入れるのには時間を必要とした。けれど、否定し続けるには、今の現状はふざけすぎている。冗談など言っている雰囲気でもないことから、最終的には全員がそれを真実と認めた。
さて。
そんなことがあっても、睡魔は否定できない。出来事が出来事なだけに、警戒を解くことはなかったが、しかし一晩経ち朝を向かえ、とうとう何かが起こるということはなかった。
朝になろうと、現実に変わりはない。あまりに現実離れした出来事の連続に、大なり小なり皆、これは夢なのではという思いは抱いていた。だが、とうとうそれは、完全に消えることになった。
これは、現実の出来事だった。
現実と認めれば、次に行うことができてくる。それは、これからどうするか、というものだった。混乱はありすぐさまに、とはいかなかったが、神代修司が先頭に立って導くことで、どうにか話し合いを成立させて、どうすればいいのか、どうするのかを話し合った。
そうして、結論が出る。彼ら――彼女らは、立ち止まらないことを選んだ。
具体的に説明すれば、
一つは周辺の調査。これは、屋上から見えないだけで何かあるのではないか、という願望はもちろんとして、食料や水も無限には存在せず、また捜索しなければ外へと繋がれないからという現実的な理由から。
一つは生活拠点の整備。生活の拠点とするのは、体育館――その二階にある柔道室と決めた。昨夜は疲れていたこともあって畳の上にそのまま寝たが、どれほどになるか分からない今、何かしら敷物を用意する必要がある。他にも、再び何があるか分からないことからバリケードを、男女が一部屋では問題があるとしてどうにか仕切りを、などなど。
大雑把には、こんなところ。その中で、あまり遠くに行っては戻ってこれない、風呂はどうする、トイレは、洗濯は、他色々と問題が溢れてきて作業が膨らんでいくのだが、それはそれ。
思いは様々。納得している者などほとんどいない。取り乱し泣き喚かないのは、あまりに意味不明すぎて先が見えないから。もしかしたら、その可能性は吐き捨てるほど小さくない。
とにもかくにも、こうして動き出した。行うことが尽きることはなく、また一人で行うには限界で。協力しながら日々を過ごせば、一週間はすぐであった。