醜さと命の重さの等価
醜が学校に向かうと、校内は異常な騒がしさで満ち満ちていた。ほぼ全ての生徒が、一つの話題に集中しているようだ。醜のクラスではケータイにクマのストラップを付けた少女がすすり泣き、男子の一人は顔に悔しさと怒りを浮かべている。醜に話し掛けて来る生徒は居らずとも、会話の断片は耳に入ってくる。『総司が』『美優が』話題の主役になっているらしい二人の名前が聞こえる度に、醜の胸に得体の知れない胸騒ぎと、昨日の太陽の言葉が蘇ってくる。
『君の友達に起こった事』
担任の教師が現れ、クラスの生徒は体育館に集まる様にと告げられた。全校集会をするようだった。体育館でも、女子には泣いている生徒が多かった。男子では、サッカー部に所属している生徒の殆どが顔に憤りを見せている。
ただ一人、藤堂だけが何処にも見当たらなかった。醜にはそれが何かの証拠の様に思えた。
体育館に生徒が集まりきると、壇上に校長が立って話し始めた。
「昨日の夜に、男子生徒と女子生徒それぞれ一名のご両親から学校に連絡が来ました。連絡網で既に知っている事と思いますが、この二人が一緒にいる所を、不審者に襲われました。生徒の皆さんは各自自衛の意識を持ち、登下校時には単独行動を避ける事を肝に……」
『光屋、右足の腱切られた上に頭怪我して意識不明らしいぞ』
『美優、顔に酷い傷があるって……。ショックで口が聞けないって……。金曜日には普通に話してたのに、誰がこんな事』
醜の頭には、教師の話も、周りの生徒の声も聞こえなくなっていた。ただ、太陽の言葉のみがぐるぐると回っていた。
醜は学校の授業を放り出して、あの喫茶店に来ていた。太陽に話を聞く為に。喫茶店に入ると、太陽が訳知り顔で微笑しながら前回と同じ席に座っていた。マスターも同じく壁越しに椅子に座って新聞を読んでいる。
「やぁ。ほら、言った通りまた来ただろう? 学校の授業を抜け出すのは感心しないけどね。取り敢えず座ったら?」
太陽は着席を促したが、醜は座らなかった。落ち着く余裕など無かった。今まで感じた事の無い感情が醜の中に渦巻いていた。
「……教えろ」
「何をだい? あぁ、次のテスト範囲とか?」
「……ふざ、けるな。誰が、やったかって、聞いている」
「知ってどうするのさ。仮に藤堂君がやった、と言ってそれを信じるのかい? 何処にいるのかも教えてあげられるけど、君が知って意味があるのかい?」
「……」
知ってどうするのかも、意味があるのかも醜自身分かっていなかった。太陽の言う通りに、本当に藤堂がやったのかも疑わしい。それでも、何かをしたかった。醜の胸に在るものはざわめきを増している。耳元で、何かの羽音がする。太陽はそこで初めて微笑を止め、真剣な顔で醜を見た。
「……藤堂君は君の家の近くの公園にいるよ。あまり人目には入らない小さな公園。君の家から三百メートル東に行った所だよ。教えて欲しい。君は藤堂君を見つけてどうする? 彼にも、様々な事情があったとしたらどうする?」
「……分からない。会ってから考える」
「……そう。それじゃあ取り返しの付かない事になるかも知れないよ」
太陽は、最後の言葉だけ醜に聞き取れない小さな言葉で呟いた。その顔には、また笑顔が貼り付けられていた。
太陽が言った場所に向かう途中で、醜は一つの絵を思い出していた。絵。そう、それは一つの完成された絵画だった。
醜が太陽と知り合ってからしばらくしてからの事だ。放課後、醜は総司と美優が手を繋いで帰っていく所を少し離れた所から眺めていた。その日は総司の練習が早く終わったのだろう。いつもは総司が部活の練習を遅くまでしている為、二人が一緒に帰っている姿は珍しかった。そのせいか、二人はとても楽しそうにしていた。
夕焼けの中、自分と相手以外の何者も存在しない世界。後に訪れる暗闇など想像もせず、ただただ大切な人と手と手で繋がっている。
醜の記憶に在る中で、最も美しい風景だった。
『青年と少女は結婚する事になりました。村の総出を挙げての、盛大な結婚式が開かれます。とてもとても煌びやかな結婚式。青年も少女も、とてもとても幸せそうです。離れた所で、醜い少年がその二人を見守っていました』
『あぁ、二人とも凄く綺麗だ。これが見れただけでも、僕は生まれて来た事に感謝出来る』
『そう。トロルは村人に見つからない様に結婚式に紛れ込んでいたのです。嬉しいのか悲しいのか良く分からない気持ちを抱きながら、それでもトロルは幸せそうな顔で二人を見つめています』
『トロルが満足して村から離れ隠れた住処に戻ると、後ろをつけていた数人の村人達に囲まれてしまいました。その中には青年を嵌めようとした男も混ざっていました。村人達は言います』
『神聖な結婚式にお前の様な醜い物が来るとは何事か』
『怒った村人達にトロルは何度も蹴られ、殴られ、ついには動かなくなってしまいました。それでも最後まで、トロルは幸せそうな顔を崩しませんでした。最後の最後まで、トロルの頭の中に残っていたのは二人の幸せな姿でした』
太陽の言った通りの場所に、小さな公園はあった。木々に囲まれた、光の当たりにくい公園。この場所に通じる道は少なく、確かに人目には付きにくい。
藤堂は、居た。古ぼけた、所々インクの剥がれた青いベンチに茫然自失とした様子で座っている。そのすぐ近くに血の付いたバットが転がっている。
その瞬間に醜は藤堂がやったのだと確信した。耳元の羽音が、更に大きくなる。藤堂は醜が近づくのを見ると口を開いた。その声色からは憎々しげなものが感じられる。
「あぁ、何となくお前が来るんじゃないかとは思ってた。本当に来て欲しくは無かったけどな。何しに来たんだよ」
「……何で、だ。嫉妬、か?」
「あぁそうだよ。あいつはやる事成す事何でも上手くいった。誰にでも好かれた。推薦だって決まった。恋人だって、あの霧島を手に入れた。そんなもん、嫉妬しない訳無いだろうが。だからあの日、二人で幸せそうに歩いてる所をグチャグチャにしてやった。お前もせいせいしたろ? あんな恵まれすぎた奴らが不幸な目に遭って」
「……どれだけ恵まれてたとか、そんなのは、関係ない。あの二人は、傷付いたら駄目な、人間だったのに」
ブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブ
耳元の、羽音が。虫が。蝿が。飛び回っている。
「はぁ? 意味分かんね。持ってる奴らは別に傷付けても良いんだよ。恵まれてるんだから。大したこっちゃねぇよ」
そう言う藤堂は、自分に言い聞かせている様に見える。自分は悪くない。あいつらが悪い。
「……そんな事、思ってもいないくせに」
藤堂の体は、最初からブルブルと震え、顔は真っ青だった。手に持ったカッターナイフを、自らの手首に当てていた。
醜は一歩ずつ藤堂に近づいて行く。
「恵まれてるから、尊いんだ。持ってるから、眩しいんだ。あの二人は、尊かった。だからこそ、傷付いたら駄目だった」
「……来るんじゃねぇよ」
「あの二人が眩しいから、尊いから、恵まれているから」
「来るなって!」
藤堂は声を震わせ醜に言い放つ。体の震えも大きくなっている。醜は止まらず、大きく息を吸い込んだ。
「優しいからっ、俺は救われていたのに!」
叫び、藤堂に走り出し。
「………………………………………………………あ」
醜の腹から血が滲み出ていた。カッターナイフが刺さっている。藤堂の荒い息が、醜の顔に当たっていた。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁ」
「い、た」
藤堂は醜から勢いよく後ずさりした。血が数滴ぽたぽたと醜の靴とズボンを汚す。
「ご、ゴミ虫が、く、来るなって言ったのに。馬鹿じゃねぇの。じ、自業自得だ。お前みたいのが死んでも、誰も悲しまねぇし、は、ははっ」
藤堂はカッターナイフを投げ捨て、走り去って行った。
醜は激痛で倒れていた。意識が、朦朧とする。途切れる意識の中最後に浮かんだのは、美優と総司の事だった。あの二人の、幸せな姿だった。
太陽が沈みゆく中で、自分達が傷付く事など想像もせず、手を繋いで帰っている姿。
醜の顔には自然と、悲しくとも綺麗な笑みがこぼれた。
季節通りの寒い日に、季節外れの醜い虫が、体を虚しく蠢かせながら命を終えていった。
『醜』が倒れている所を、太陽は遥か上から眺めていた。
『彼』を醜と呼んだのには意味など無い。ただ醜かったから単純に醜と名付けた。『蝿』も、醜も同じだ。太陽にとっては同じ醜悪。本名すら覚えていない。
藤堂の居場所を教えれば、醜がそこへ向かう事は分かっていた。藤堂が醜を勢い余って殺してしまうだろうという事も。そもそも、それが目的だった。醜が死んでいく様は中々に見応えがあった。少なくとも、虫を戯れで殺す程度には。気まぐれで会ってみた甲斐は在ったと、太陽は笑う。醜が汚い顔に浮かべた、あの笑顔の可笑しい事可笑しい事。
醜が死ぬことによって、喫茶店も消えるだろう。内装は気に入らなかったが、コーヒーが飲めなくなる事だけは惜しかった。出来るのには時間が掛かる上に騒がしいのに、無くなるのはあっという間だと、太陽は溜息をついた。
醜を見て、もう一度くすりと太陽は笑う。総司と美優が今後立ち直るという事だけが、醜にとっての救いだろう。あの二人が傷付きながらもお互いに励ましあい、果敢に生き、より素敵な人間になっていくという事が太陽には分かっている。しかし、醜はそれを見る事は出来ない。そう考えると、太陽はまた可笑しくなった。
醜いものが一つ消えて、綺麗なものが二つ増えた。
主人公にとって例のリア充カップルが幸せである事が一番なので、一応、彼は救われています