太陽との迎合
二日後の日曜日。
人工的な黄色い照明に照らされる部屋。電球が切れかけているのか、あまり明るくは無い。醜は本を読んでいた。その顔にはおびただしい程の汗が浮かんでいる。畳の上には、垂れた汗で染みが出来る程だ。カーテンは開けてあるが、光を遮るビルのせいで昼間だと言うのに全く光は入ってこない。窓を閉め切っているので籠った熱気が充満している。人工的で仄暗い照明が、殊更息苦しさを強調している。
醜は休日には基本的に家で一人で本を読みふける事にしている。狭い室内、物が乱雑に置かれた畳の上に、無理矢理空間を作る。その空間で一日中知識や物語を貪るのが、醜の唯一の楽しみと言っても良い事だった。
その日は違った。本など、工事の音と蒸し暑さによりまともに読めた物ではない。窓を閉めれば密閉された熱に窒息しそうになり、窓を開ければ公害とも思える程の工事の音で集中がかき乱され、おまけにどこから湧いたのか知れない虫が嬉々として醜の部屋に入り込んでくる。クーラーなどと言う便利なものは備え付けていない。扇風機こそあるものの、この暑さではほとんど意味を成していなかった。
「……外、出るか」
熱。虫。騒音。そして向かいにあるビルのせいで、昼間でも暗闇になる部屋。前日の土曜日はまだ醜にも耐えきれるものだったが、ついに我慢が出来なくなった。
一言独り言を呟くと、醜は早々に読みたい本を鞄に詰め込みアパートを後にした。
醜は一人で静かに本を読める場所を探して彷徨っていた。暑い街中を、汗を垂れ流しながら徘徊する。もう既に家から随分と離れた所まで来てしまった。
図書館が家の近くにあるが、醜は休日に使う事は出来なかった。土曜日と日曜日、図書館にはたくさんの子どもも来る。静かに本を読んでいるだけでも、醜を見た子どもが泣き出してしまうのだ。子どもの親からは嫌悪と怪奇の目で見られ、幼児の悲鳴が館内に響き渡る。醜は読みたい本を探す時以外、自主的に図書館には寄らない様にしていた。
せめてあの工事の音さえ無ければ。醜はそう憎々しく思う。
高校の夏休みが終わってからあの騒音は鳴り出した。醜が家に帰ると絶え間なく鳴っている音。あまりにも長時間聞きすぎたせいで、醜は学校にいても聞こえてくるような気分になる時がある。
それだけの騒音が早朝から鳴っているというのに、醜が『工事中』とされた看板を見た事は無かった。醜の住むアパートの近くの道端でたまに井戸端会議をしている主婦たちがいるのだが、醜が見かけた限り音を気にしている様子は無かった。
『ならば何故彼はあの音が工事によるものだと思ったのか』
「……帰る、か」
醜はまたポツリと呟いた。どれだけ探しても一人で静かに本を読めそうな場所は見当たらなかった。それどころか、長い間太陽に光を浴びせられたせいで頭が朦朧としてきた。喉が渇き、口の中も干上がってしまっている。唇だけは元から渇ききっているので変わっていない。
秋だと言うのに、太陽は夏と変わらない暑さで醜を焦がしていく。あまりの暑さから、太陽に意識的に焼き殺されようとしている。そんな妄想さえ朦朧とした醜の頭に浮かんでくる。
フラリとしながら家へと踵を返そうとした時。一つの看板が醜の目に入った。暗く細い路地へと続く道の入口に置かれた、小さな看板。木の板でできた面に鉛筆で書かれた様な煤色の目立たない字で、『喫茶 ミート カム アクロス』と記されている。おおよそ客寄せの意味をなさないと思われる看板だった。
だが、それは醜の目に入った。まるで醜がそこを見る事が分かっていた様に。醜の為だけに設置されたかのように。
そう、醜はその看板に引き寄せられていた。この店に行かなければという強い強迫観念にまで襲われる。看板の隅に書かれていた、『この路地を真っ直ぐ』という文字に従い、醜は細い路地の中へと入って行った。
醜が看板に従い薄暗い路地を真っ直ぐ進んで暫くすると、開けた場所に出た。周りを高い建物で囲われているのに、この空間のみ不自然に明るい。
そこに綺麗な白い建物が建っていた。
大きくは無く、醜から見て奥に長い。限りなく存在感が薄く、ともすれば空間の不自然な光に溶けてしまいそうだ。
まるでついさっき完成したかのごとき、汚れ一つ見当たらない店だった。少なくとも、醜にはそう思えた。
入口につい先程醜が見た看板と同じ物が立て掛けられている。醜は熱に浮かされた様な気分に成りながらも、カランカランと音を鳴らしながら店の中へと入って行った。
夢でも見ているか、暑さにやられて幻覚にでもあっているのだろう。醜がそう思う程に、この店は存在自体が非現実的だった。
店内は外と比べ軽く靄が充満している様に薄暗かった。醜の部屋と似た色の照明が店内を照らしている。店内は驚く程に整然としていた。クーラーが設置されている訳でも無いのに、醜には少し寒く感じられる。木製の机も椅子も全て神経質なまでに均等な間隔で並べられていた。どの机にもメニューらしきものは置いていない。窓が一つもなく、店の最奥の壁を背にマスターらしき男が一人で椅子に座って新聞を読んでいる。その右隣りには腰ほどの高さの薄汚れた木製の茶色い棚が置いてある。
他には誰もいない。客も、従業員も。誰一人。肌に刺さる程の静寂が空間を支配していた。
ふいに強烈な既視感が醜を襲う。この店内は、醜に自らの住む部屋を連想させた。茶色い棚に置かれた、煤の様なものが付着しているポット。入口周囲は明るく照らされているのに、その光は決して中に届かない空間。充満した暗闇とはまた違った仄暗い息苦しさ。閉じた世界。
醜は入口から入ってすぐ、二人掛けの席に座った。座りながら、何故自分はこの店に来たのだろうかと考える。まるで何かに導かれている様だった。
「ご注文は?」
そして次の瞬間、店の奥で新聞を読んでいた筈のマスターが醜のすぐ横に立っていた。新聞を置く動作も歩いて来る様子も無く、醜が席に座って一つ瞬きをすると、そこに居た。
白髪で口髭を蓄え、ギャルソンを着ている。正にマスターと言えば、大多数の人間がイメージする様な出で立ちだった。
「ご注文は?」
醜が驚愕で大きさが不揃いの目を見開いていると、マスターはメニューも渡さずに同じ質問を全く同じニュアンスで繰り返した。
「あ……、コーヒーのブラックは、ありますか?」
「承りました」
困惑しつつもそう返すと、マスターはそう答え、醜が瞬きをして。
また一瞬の内に醜の目の前から消え、店の奥で煤けたポットにお湯を注いでいた。
「な……ん」
「あー、ごめんね。ここのマスター馬鹿みたいに愛想無いから。その代わりコーヒーは凄く美味しいよ?」
「……え?」
そして醜が驚く間もなく、前の席に若い男が座っていた。右手の細い人差し指と親指でコーヒーカップを持っている。
「特にブラックは絶品でさ。メニューも無いのに頼んだ当たり、君は勘と運が良いね」
男は言葉すら出ない醜に対して、微笑ましい物を見た時につくる様な笑みを浮かべて話し掛けて来る。深いテノールの声だった。
綺麗な男だった。かっこいいや整っているでは無く、綺麗。見る人間によれば女性にも思える程中性的で、髪の毛はとても自然な、太陽を思わせる金色をしている。服装は純白のスーツを着ていた。生地を見る限りコスプレめいた物ではなく、とても上質な一品の様だ。
綺麗な人間とはこういう物だろうと考えて作られたのかの様な男だった。
醜の混乱は極限へと達していた。この男は何時店内に入ってきたのか。入口のベルは何故鳴らなかったのか。最初から店内にいたのか。自分に気付かれずどうやって目の前に座ったのか。自分にはコーヒーがまだ来てないのに何故優雅にコーヒーを楽しんでいるのか。あのマスターは瞬間移動でも使えるのか。醜が、ともかく席を立とうとした時。
「動かないで? 僕は君と話がしたいんだ」
その言葉で醜の体は硬直した。立ちたいと言う意志さえ無くなる様な、暖かくも深く圧倒的な声。逆らえない逆らいたくない、逆らうな。そんな思いが醜の中に渦巻く。男は醜のその様子を見て満足めいた顔で笑った。
「それじゃあ、君の事を話そうか。あ、僕の事は太陽って呼んでね」
そして醜と太陽の奇妙な対談が始まった。
「君はごく普通の容姿をしたごく普通に相手と愛し合うごく一般的な家庭に生まれた。そしてご両親は当然の様に、生まれた時の君の容姿に恐怖した。暴力を振るわれる事は無かったけれど愛された事も無い。そして、君が一人暮らしを要求した際にはこれ幸いとして安いアパートを借りて厄介払いをした。ここまでは合ってるよね?」
太陽は醜の事をほぼ全て知っていた。醜が普段部屋でどう過ごしているのかだけは曖昧だったが、生い立ちや醜が両親から向けられていた感情、何日に何をしたかまでをも当てて見せた。その中には金曜日に総司、美優、藤堂と会話した事も含まれていた。その間太陽は常に、微笑みを綺麗な顔に貼り付けていた。
「……間違っては、無い、けど」
「うん、そうだろうね。僕は君の事は何でも知ってるから。それにしても酷いよね。厄介払いをした上に碌に仕送りもしないなんて。虐待じゃないかい?」
「……別に、気にして、ないし」
「それは嘘だろう? 表には出さない嫌悪感。夜毎に嘆く両親の声。憐憫と見下した視線。君はそれを痛い程に感じていたはずだよね?」
「……」
醜にとって太陽と名乗った男は謎だった。何故自分の事をこれほどまでに知っているのか皆目見当もつかない。そもそも誰なのかすらも分からなかった。ただ、今尚太陽が浮かべている笑顔に正体不明の嫌悪感を覚えた。自分の醜い部分を生身で曝され引き摺り回される気分になる。今まで好奇心によって醜に近づいて来た人間は他にもいた。見下しながら更に愉悦に浸ろうと、表面上親しげに接して来た人間もいた。そういった人間も、醜と長時間一緒に居る事に耐えきれなくなり、最終的に離れていった。
醜にとって、美優と総司だけが特別だった。藤堂の様な人間こそが普通だった。
太陽はこの誰とも違った。見下している訳でも、好奇心が働いている訳でも、憐憫の情を持っている訳でもない。かと言って美優や総司の純粋なる親しみとも全く違う。
この男は自分と話がしたいと言いながら、自分に対して特に感情を抱いていないのでは無いか。唐突に醜にそんな確信に近い疑念が湧き上がった。
「そんなことは無いさ。君と話をしたかったから、態々こんなことまでしているんだから。ねぇどんな気持ちなんだい? 誰にも生きていいって認められた事がないのは」
……今、この男は自分の心の中を読んだのか? 醜は我慢できずに席を立った。これ以上太陽と話すのには耐えられない。太陽は今度は止めようとはしなかった。
「もう帰るのかい? つまらないなぁ。まぁいいや、またね」
「……もう、ここには来ない」
「来るさ、直ぐに。具体的には明日に。君の友達に起こった事を聞きにね。本当は、僕に知らない事なんて無いんだ」
「……?」
太陽は変わらず顔に笑顔を貼り付けている。醜は今の言葉を疑問に思いながらも、速足で店から出て行った。残されたのは太陽と、コーヒーカップを持っていつの間にか席の近くに立っていたマスターだけだった。
その次の日の朝。醜に工事の音が聞こえる事は無かった。
異常な暑さは終わり、秋らしい涼しくも体が冷える日だった。
『青年と少女の関係を快く思わない男が居ました。その男は前々から少女を自らの物にしたいと考えていたのです。男は二人が嫌われ者のトロルと仲が良いという事を知って、ある悪巧みを思いつきます』
『青年はあのトロルと手を組んで少女に無理矢理言う事を聞かせている。頻繁に二人でトロルの下へと行っているのがその証拠だ。 青年を村から追い出し、トロルを殺せ!』
『トロルは自分の所為で青年に謂れの無い疑いが掛かっていることを、何より二人の間の純粋な愛情すらも疑われた事を悲しく思いました。そして自分さえいなくなればと思い、姿を消してしまいました。青年と少女がどれだけ探しても、トロルは全く見つかりませんでした』