第九話
8
ベアーはロバに荷物をくくりつけ、手綱を引いて歩き始めた。意外に素直な出足で旅の伴侶ができたのをうれしく思った。しかしその喜びは3時間もしないうちに消え去った。
「こっちだって言ってんだろ、峠はこっちなの!」
二股に分かれた道でロバはベアーの行く方向に頑として進もうとしなかった。手綱をひこうがケツをたたこうが動かぬままだ。
「お前、一体なんなの、何で動かないの?」
ベアーは切れそうになったが、初日から切れては不味いと思い、動かす方法がないか考えた。
「やっぱり、ニンジンか?」
「それとも、干草か?」
「のどが渇いているのか?」
無反応のロバにカチンと来たベアーは恐喝行為を試みることにした。
「そういう態度ならこうだぞ!」
そう言うとベアーは鞭で叩く仕草をした。
だがロバは泰然としていた、ベアーに一瞥くれた後、大きな欠伸をした。ベアーはロバの不遜な態度に不貞腐れたが、ロバは唯我独尊ともいうべき態度を崩さなかった。
「どうやったら、言うこときくんだよ、もう30分だぞ」
ベアーは足をばたばたさせながら適当な言葉を連発した。それでも駄目なので最後には下ネタで勝負に出た。
「プリケツのロバがいるぞ」
無反応である。
「耳がセクシーなロバがいるぞ」
これも、無反応である。
「あっちに巨乳のロバが!」
ロバはちらりとベアーを見ると、口元をニヤリとさせた。その後、何事もなかったかのようにベアーの指した方向へ歩き始めた。
『巨乳に反応したぞ……あのロバ…っていうか、アイツ、趣向が俺と…いっしょなのか……』
これから先どうなるのか不安に思うベアーだった。
*
不安は的中した。次の道をどっちに行くかで再びロバと格闘となった。
「だから地図はこっちなの、お前、地図読めないだろ!!」
ロバは分かれ道の東側を選んでいた。地図では峠を越えるのに一番の遠回りである。
「そっち、遠いの、こっち」!
あまりに動かないのでベアーはあきらめ一休みすることにした。
「絶対こっちの道に行くからな!」
ベアーはロバに宣言し横になった。
それからしばらくして―――
『あれ、どうなってんだ、あいつ、いないぞ?』
木に縄をつながずにロバをほったらかしたのがマズかった。ウトウトしたすきにロバがどこかに行ってしまったのだ。
金目の物は身につけていたので問題なかったが、着替えやマント、食事をいれたバックパックはロバと一緒だ。
「あの、クソロバ、どこ行ったんだよ!」
周りを探してみたが気配さえ窺えない。ベアーはイラついたが冷静になるととりあえず落ち着こうとした。
『まあ、しょうがいないな、きっと村に戻ったんだろ…』
ポプリ村に戻ったと思うことでロバも荷物もあきらめようとおもった。
『峠を降りて最初にある町で買い揃えて再出発しよう。ロバ一頭いなくても困んないし』
心の中で自分にそう言い聞かせると、ベアーは道を登り始めた。少し休んで体力が回復していたので小気味よく歩けた。まだ昼を過ぎたくらいなので明るいうちに峠を越えて街までいけるとベアーはこの時思った。
*
サクサク歩くと一時間ほどで吊り橋のところまで出てきた。だがそこではほかの旅人が橋のたもとに集まっていた。
「こりゃ、危ねぇなあ」
「本当ねえ」
話をしているのは中年の夫婦である。彼らは吊り橋のほうを見ていた。ベアーもそちらに目をやると古い吊り橋の真ん中で若い男女が言い争っていた。
「浮気したのはあんたでしょ!!」
「うるさい、ほっとけよ、お前とはもう別れたんだから」
「そんなの、許さない」
女のほうは男以上にエキサイトしている。
*
「あの……どうしたんですか?」
ベアーは中年夫婦に尋ねた。
「キミ、いまは渡らないほうがいい」
「どうしてですか?」
「この狭いつり橋で3人も一緒に渡ったら、危ないわよ。真ん中の二人は雲行きが怪しいし…」
こたえてくれてのはおばちゃんのほうである。
口論している声は明らかにここまで聞こえるし、さっきよりも声色は高くなっている。若い女のほうはヒステリックになっていた。
「ちょっと待ってれば大丈夫よ、あのくらいの年は毎日、痴話げんかするのが当たり前なんだから。」
これは他の旅人の意見である。
確かにつり橋は狭く、一人が通るのがやっとだ。無理して渡れば口論している二人の真ん中を通らねばならない。触らぬ神にたたり無しである。ベアーはとりあえず待とうと思った。
*
「私の知らないときに、どういうこと、絶対許さない!!」
若い女はそういうと小刀を取り出した。
「道連れよ」
女はそう言うと橋のつり縄の傷んだ部分を切り始めた。
「ちょっと待て、橋を切ったら他の人に迷惑だろ!」
男は止めに入ろうとしたが女の力は凄まじく、止める前につり縄の一部を切り落としてしまった。それを見た男はその顔を真っ青にした。
「なにやってんだ、お前!!」
男はそう言って女からナイフを取り上げようとしたが、その時、橋が傾き始めた。地面に対し10度近く傾いたろうか、男も女も体勢を崩しつかまるのがやっとの状態になった。
「ああ、こりゃヤバイな、落ちるぞ、二人とも」
「助けようもねぇな」
見ていた旅人たちは冷やかし半分だったが、橋がこれ以上傾くと困るのでみな落胆の声を上げた。
「あんたが悪いのよ、あんな、あんな、やつと浮気するから、絶対許さない」
女は切り落としたほうとは逆のつり縄に刃物を向けた。
「わかった、俺が悪かった、だから……橋はやめろ。なあ、もう一回やり直そう」
男は長髪でいかにも遊び人という風体だが、女のほうはどこにでもいそうな街娘だった。特に不細工というわけではない。多少色黒だが目鼻立ちがくっきりしていて、むしろ美人の部類に入るだろう。
「嫌よ、ここであなたは私と死ぬの、ここで死ぬのよ!!」
女の目は開きらかに常人の域を超えていた。
「あんたが悪いのよ、あんな…あんな男と寝るから」
この女の言葉を聞くや否や周りの旅人から声が上がった。
「あの娘、彼氏を男に寝取られたのか」
気の毒そうな声色で歳を取った男が言った。
「そういうことなら、女としても立つ瀬がないわね」
これはさっきのおばちゃんである。
「あの男、女から男に乗り換えたのか…」
これは中年の旅人である。
「……」
唖然としているのはベアーである。
彼氏を男に寝取られた女の心境はさすがに14歳では理解しがたい。黙って見ていたほうがよさそうだ。
*
女の動きは明らかに最後の瞬間へ向けて加速していった。橋は傾き、さらに風で煽られた。あと一息でつり縄が切れてしまう。
周りの人間が『ヤバイ』とおもったときであった、『ヒュッ』という音とともに矢が飛んできた。矢は狙いを外さず娘の右肩に突き刺さった。
そして実に美しい声がその場に響いた。
「この峠の橋は個人の諍いでいたずらにされる物ではない。恥を知れ、貴様ら!」
声の主は峠の治安を維持する山岳警備隊のものだった。矢を射た隊員はポニーテールの黒髪を揺らして近づいてきた。若草色のベレー帽と同じ色の制服で身を固め、腰のベルトにショートソードを吊り下げていた。
『かっこいい』
ベアーは男だと想像していたが、切れるような冷たい瞳とすっと通った鼻筋、そしてベレー帽から飛び出た耳に驚いた。
「あっ、女の人だ。てっいうか、亜人だ、すげえ美人だ…」
瞬時にベアーの脳裏に言葉が浮かんだ。
『制服、ポニーテール、亜人』
『人妻、巨乳、エルフ』とは異なる響きが脳内再生された。
*
亜人は人に近いタイプもあれば獣に近いタイプもあり、その容姿は千差万別である。山岳治安官の女性隊員はハーフかクオーターなのだろう、その外見は人間やエルフにきわめて近いものであった。
ベアーは女性隊員をつぶさに観察した。
『メッチャ、美人だ……それに……』
女性隊員の足は長く腰が引き締まっていた、均整の取れた体は制服で隠されていたが胸のふくらみはその上からでもくっきりしていた。
『ひょっとして……巨乳か…』
ベアーの脳裏ではマギーの巨乳との比較が始まっていた。
*
一方、矢で肩を射られた女はその場に泣き崩れていた。
「おい、お前、その女を連れてこっちに来い。」
隊員の女ははっきりとした口調で男に命令した。
「急ぐとつり縄に負担がかかる、ゆっくりだ。」
男は女の肩をだいて四つんばいで這った。傾いた橋は微妙なバランスを保ったままである。必死の思いで男は女を連れてベアーのいるほうの岸に着いた。
山岳警備隊の女は矢で射た女の傷の具合を見た。肩口に刺さった矢が大きな血管を傷つけたかどうかを確認している。傷は深くないが出血がひどい、女の顔から見る見るうちに血の気が引いていった。
山岳治安官は困った表情を見せた。
ベアーはそれを見て声を上げた。
「あの、初級の回復魔法なら使えますけど」
治安維持官はベアーを見ると一言発した。
「頼む」
言われたベアーは呪文を詠唱し始めた。初級回復魔法なら何度も使ったことがある。自信を持って言霊をこめた。
女の傷口が青白く光り、傷口が徐々にふさがっていく。完璧ではないがかなり出血は食い止められた。
「まだ傷口が開いていますが、これ以上は僕の魔法では無理です。後は医者にかかってください。」
「すまんな、キミのことはおぼえておこう」
そう言うと山岳警備隊の女隊員は傷を負った女を馬の背に乗せ颯爽とその場を去った。
*
後に残されたのは旅人たちと例の若い男である。みな微妙な沈黙状態に陥ったが、それを破る出来事が起こった。なんと橋が落ちたのである。もともと古く補強もしてないつり橋である、今の娘の行いがきっかけになったのだろう。
「あっ、これじゃあ、渡れないじゃないか!」
「ったくよ、痴話げんかのせいでこんなことに」
旅人全員、若い男にむけてブーイングである。当然といえば当然だ。男の浮気がなければみな橋を渡れたのである。男はいたたまれなくなってその場を走って去っていった。
文句を言いながら取り巻きの人々は東回りの道に行くために元来た道を下っていった。
「ああ、ロバの道に最初から行っときゃ良かったな。」
ベアーもため息をついて元の道を戻っていった。
*
降りるほうは思いのほか速く、登るときの半分の時間で東回りの道に着いた。しかし、すでに時刻は夕方になっていて周りは薄暗い。明かりを持っていないベアーはこの辺りで一晩過ごすほうが安全だと思った。
「困ったな、マントもないし、飯もないぞ……朝起きたら…風邪引いちゃうな…」
どうしようかと思い、辺りを見回すと、なんとロバがいた。それものんびり草を食んでいる。その表情は『我、関せず』という感じで一定のリズムで草を咀嚼していた。
「あっ、お前!」
ベアーが声をかけるとロバはまた草を食べだした。ベアーはロバの手綱を引くと今度はきっちり木に縛った。
*
ベアーはバックパックから乾パンとチーズを出した。食べ始めると相当腹が減っていることに気づき、夢中で食べた。腹が落ち着くと小枝を拾い、火をおこして湯を沸かした。ベアーはお茶を飲みながら今日の出来事を日記帳に記すことにした。
『しかし、あの山岳警備隊の隊員、きれいだったな……年上っていいな……でも、やっぱりローリスさんは忘れがたいな……』
今晩は美人を想像して眠ることができそうだ。亜人とエルフ、どっちがいいかは決まらなかったが、美人は大歓迎だ。ベアーはどちらかというと『かわいい系』より『美人系』である。
『また、あの人と会えるかな…』
淡い希望を胸にベアーは眠りに落ちた。