第二話
3
それから卒業までの2週間は毎日が巨乳とフェロモンとの戦いであった。言うまでもなく魔道書の内容は頭に入っていない。風に乗って嗅覚から脳を刺激するマギーの芳香は毎回ベアーの集中力を寸断した。初日と同じく、段落ごとにどちらが正確に詠めるか勝負したが、勝ったのは2回だけだった。
「今日で終わりね、この授業。結構面白かったわよ」
マギーはそう言うとベアーの前の椅子に座ってノートを覗いた。開襟のシャツを着ているため胸の谷間がことさら強調される。ベアーは見ないように努力するが…自然と視線が向かってしまう。
「どこ見てんの?」
バツの悪い状況にベアーはノートをしまって立ち上がった。
「もう帰ります」
急いで帰ろうとするベアーを艶かしい目つきでマギーは見ていた。
「帰っちゃうの」
どぎまぎしながら教室から出て行くベアーを見てクスリと笑った。自分の色香に混乱しているベアーを見て、マギーは女として満足感を得ていた。
*
卒業式が終わると村は祭りとなる、例年の習わしだ。卒業生たちは最後に用意されているダンスで踊ることになっている。参加は自由だが、付き合っている相手がいる者にとってはいい思い出になるだろう。
「ちょっと、あんた、わかってんの!!」
「何だよ」
口論していたのはルークとリーザだった。
「今日は最後まで付き合うって言ったでしょ」
「もう卒業したから、お前の言うことは聞かないの」
「そんな、話聞いてないわ」
リーザはそう言うとルークのケツを蹴り飛ばした。小気味のいい音が路地にこだました。
「おお、いい蹴りだね」
ケツをさすっているルークを横目で見ながらベアーは感嘆の声を上げた。
「何、文句あんの?」
「別に」
ベアーは何事も無いかのように返事したがその後、ルークに声をかけた。ルークはここぞとばかりにリーザから逃れるため急いでベアーのほうに来た。
「ちょっと借りるよ」
リーザはベアーを睨みつけたが、ベアーはそれを無視してルークとその場を離れた。
*
「お前の言ってたこと当たったぞ」
「えっ、何が?」
「マギー先生」
「えっ、禁断の授業と酒池肉林!!」
「ばか、違うよ」
「じゃあ、あれか巨乳とか?」
言われたベアーは頷いた。
それにたいしてルークは神妙な顔をすると口を開いた。
「そうか、卒業する前なら大発見だが…卒業しちゃったからな…それで触ったのか?」
「んな、はずねぇだろ、それよりリーザのことだよ」
「えっ、リーザ? もういいだろ、カンニングはばれてないし、無事に卒業、俺も自由なんだから」
ベアーはため息をついた。
「お前さあ、そろそろ気づいてやれよ」
「何が?」
「馬鹿だな、お前、リーザが答案用紙見せてくれたのは、お前に気があるからだろ」
「えっ?」
ルークは驚いた表情をしていた。
「リーザがお前に見えるようにわざと答案の位置を変えてたんだよ」
「えっ、そうなの?」
ルークは素っ頓狂な顔をした。
「踊ってやったらどうだ、お前から誘えばうまくいくんじゃねぇの」
ルークは微妙な顔をしていた。卒業できたのは確かにリーザのおかげである。借りを返さないのは気に食わない。ルークは頭のほうは弱いが、人に借りがあれば返すタイプである。
「じゃあな」
「おい、どこ行くんだよ」
「帰るんだよ、祭りは夕方からだろ」
ルークの顔つきは変わらずのままだった。
*
家に帰ると祖父が正装に着替えていた。村祭りに正装を着ていく必要はない。ベアーは何かあったのか心配になった。
「どうしたの?」
いつに無く神妙な面持ちで祖父は厳かに口を開いた。
「そこに座れ」
「えっ?」
「いいから座りなさい!!」
怒鳴った表紙に入れ歯が飛び出し、モゴモゴしだした。ベアーはそれを見て『プー、クスクス状態』になったが笑って説教されるのも嫌なので平静を装った。
祖父はベアーを見て若干怪しげな顔を見せたが咳払いすると本題に入った。
「よいか、これからお前は3年の旅にでる。そして僧侶としての研鑽を積むのじゃ。」
祖父はそう言うと骨董的価値のありそうな巻物を取り出して広げた。そこには各地にある僧侶関連の名跡が地図として記されている。
「各地に由緒正しき僧侶の学園や史跡がある。そうしたところを巡ってこい、以上だ。」
突然の話にベアーは面食らった。祖父はそれに構わず巻物を閉じるとベアーには渡さず片付けてしまった。
「それ、くれるんじゃないの?」
「馬鹿もん、これはライドル家の家宝じゃ、簡単にやれるか。無事に旅を終え、その後、修行を積めば譲ってやっても良い。」
「えっ…」
祖父が死なない限り手に入らないとベアーは思ったが、旅に出られる喜びに比べればそんなことはどうでもいいことだった。上級学校に行く気もなければ、見習いに入る気も無い、正直。プーでいいと思っていた。そんな時、別の選択肢が飛び込んできたのである。旅に出たいとは前々から思っていたがまさか実現するとは……
ベアーのテンションは一瞬でMAXまで上り詰めた。
「ああ、それから余り金は無いから自分で……その何だ、適当にやってくれ、アルバイトとか…」
「……えっ……」
瞬時にしてベアーのテンションは下がった。
「金ないの?」
祖父は目をキラキラさせながら頷いた。
「クソジジイ!」
ベアーはキレそうになったが祖父はそそくさと奥へと引っ込んだ。こうした時に見せる祖父の身のこなしは僧侶ではなく熟練した盗人である。
『ったく…しょうがねぇ…』
どうこう言ったところで金が出てくるわけではない、ベアーは気持ちを切り替えた。
『とりあえず明日から計画を立てて準備をしよう……よし、今日は祭りに行くぞ!』
少ないながらも小遣いは貯めてある、ベアーは着替えると母屋を出て村に向かった。
*
ベアーにとって祭りの楽しみはなんといっても食である。アガタ地方は山海の幸の宝庫であり、祭りの屋台ではその食材を使った品々を食べることができた。アガタ豚の串焼き、岩塩を使ったふかし芋、桃のプディング、小鯵の南蛮漬け、見るだけでも価値がある。
ベアーが狙っているのは鮮度のいい秋刀魚や鯖を炭火で炙った品だ。そのままでも十分いけるが柑橘系の果実を絞ると風味が加わり余分な脂が落とされ、実に美味い。まずこの辺りから攻めていこうと思った。
*
村に着くと祭りはすでに始まっており、すでに多くの人で賑わっていた。年に一回ということもあり近隣の町から足を運ぶ観光客もいて広場は人で溢れていた。
早速ベアーは屋台の一軒に寄った。ベアーが選んだのは鯖を燻して炙ったものだ。塩焼きとどちらにするか迷ったが昨年が塩焼きだったので今年は燻したものに変えてみた。ベアーは鯖の燻製を買うとその身にかぶりついた。燻してあるため青魚の臭みは無く、骨抜きも丁寧に行われているので刺さる心配も無かった。
『うまい、マジでうまい』
わざと軽く燻して一手間かけた鯖は極上に仕上がっていた、一品目は大成功である。
ベアーは次にアップルパイを売る店に移った。ベアーの村はリンゴの産地ということもありアップルパイの種類はバラエティーに富んでいた。丸ごと一つのリンゴをシロップに漬け、それを生地で包んで焼き上げたパイや、シナモンや粉糖でデコレーションした品、ペースト状にしたさつまいもとリンゴを合わせたパイなど様々なものがある。
ベアーは薄く切ったリンゴを扇状にして焼きあげ、そこに生クリームを載せたパイを買おうと並んだ。
*
その時であった、ふと気になる影が視野に入った。クラスメイトのバイロンだ。勉学、スポーツともに優秀で容姿端麗、才色兼備の女子である。卒業後は本草学を学ぶため都の上級学校に進むと聞いていた。
ベアーは呼びかけようと思った……
だがバイロンの表情からはそれを許さない厳しさが窺えた。どうやら誰かと話しているようだ、ベアーは移動して様子を覗いてみた。
*
バイロンの隣には30歳ほどの紳士がいた、彼はバイロンの二の腕を掴んでいる。この村の人間でないのは間違いない、村人ならあんな高級な服を身につけているはずが無い。
「離して、お願い」
「君は一体、何様のつもりだ!」
紳士は怒りの表情を浮かべていた。
「誰が君たち親子の面倒をみてきたと思っている。この3年間の生活費のすべてはレイドル侯爵のお情けからだぞ!!」
「わかっています、そんなこと」
「なら聞き分けのよい行動を取られるのが筋でしょう、捨て猫に餌をやるほどレイドル侯爵は心の広いかたではありませんよ」
様子からすると壮年の紳士はレイドルと呼ばれる人間の小間使いだろう。だが小間使いでさえあれだけの衣服を身につけているとなると、レイドルという人間は相当の資産家である。
紳士はバイロンを引き寄せると耳元で何かささやいた。遠目でみているのでベアーには何を言ったかわからない。
バイロンは紳士を睨みつけたが肩を落とし、紳士の言うとおりにした。外灯の下には馬車が止まっている、そこに向けて二人は歩き出した。
複雑なやり取りを見たベアーであったが二人のいたところにイヤリングが落ちているのに気付いた。急いで渡そうと拾ったがバイロンはすでに馬車に乗り込んでいた。一瞬、彼女と目があったがバイロンはすぐに目を伏せた。彼女はベアーの存在に気づいていたのだろうが顔をあわせたくなかったのだろう、すぐに下を向いた。
馬がいななくと馬車は暗がりの中に消えてしまった。心残りな別れになってしまったとベアーはおもった。
『人生っていろいろあるんだな』
楽しく祭りを楽しめる者もいれば、そうでない者もいる。この小さな村でも様々な人生ががそれぞれの中であるのだろう。
『俺が何かできるわけじゃないしな……』
ベアーはそう思うとその場を歩き出した。
*
ベアーは広場のほうに向けて歩いた。この時間帯はそろそろダンスパーティーが始まるころだ。学校を卒業すると公のデートもさほど咎められないので、今日の祭りが彼らのデビューとなる。クラスのうち半数はこの篝火のもとでダンスを共にするだろう。ベアーは付き合う相手どころかデートもしたことはない。だが楽しそうにしている人を見るのは好きだった。
ベアーは篝火で照らされた会場に足を向けた。一瞬、脳裏にバイロンの表情がよみがえったがそれはすぐに消え、眼前の光景に目を奪われた。
なんと踊っているのはリーザとルークであった。かなりぎこちなく、他の連中と比べればおぼつかない。二人の微妙な距離間は彼らの踊りにあらわれていた。
「ちょっと、足踏まないでよ!」
「しょうがないだろ、よくわかんないんだから」
ルークは鳴きそうな声を上げていた。このまま行けば一生尻に敷かれた人生を送りそうだ。
『楽しそうだな、あの二人』
良い思い出を胸にベアーは帰路についた。