第十九話
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その時であった、
ナターシャの顔面に何やら薄茶色い物体がぶつかり『ビチャリ』という音を立てた。どうやらその欠片はナターシャの片方の目に入ったらしく、ナターシャはその場でうずくまった。
『……くそっ……目が見えない……』
ナターシャが右目をおさえて顔をあげるとその左目に雄々しくそびえるリンジーが映った。何と気丈にもリンジーはバイロンを助けるためにはせ参じたのである。
*
リンジーは満面の笑みを見せるとバイロンにそそくさと近寄った。
「大丈夫、バイロン?」
リンジーはそう尋ねたがバイロンは薬の効果でうまく口がきけなかった。
「変な女に連れていかるのが見えたから、来たんだけど……」
リンジーはそう言うと『しっとりスコーン』を見せた。
「これをぶつけてやったんだ!」
リンジーは嬉しそうにそう言うとうずくまっていたナターシャに眼をやった。
「アレ……」
リンジーが振り向いた時である、なんとナターシャはその視界から消えていた。
「……嘘……」
リンジーは訓練された兵士ではない。それゆえスコーンの一撃でナターシャをの動きを封じたと考えていた……だがその思いは最悪の結果を導いた。
「……痛っ……」
盆の窪(首の後ろにある窪んだ部分)に手刀の一撃をくらったリンジーはそのまま昏倒した。
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「馬鹿が!」
ナターシャはそう言うとリンジーのケツを蹴り飛ばした。
「お前が先だ!」
ナターシャは狂犬のように吠え散らすとリンジーの髪をつかんで屋上のヘリまで引きずった。
「このブサイクめ!」
ナターシャはリンジーの上半身を手すりの上に乗せるとそのまま突き落そうとした。
『リンジー!!』
バイロンに希望をもたらしたリンジーは自らが死神に魅入られてしまったのである。
『お願い……神様!!』
体の自由を奪われたバイロンには祈るほかなかった。
*
その時であった、乾いた声がナターシャの耳に届いた。
「イタズラが過ぎるんじゃないのか、年増のメイドさん」
なんとそれはマーベリックであった。非常階段のヘリに腰を据え、明らかな殺意を浮かべた眼でナターシャを睨みつけた。
それを見たナターシャは一瞬で状況を把握して歯噛みした。
「もう逃げられないぞ!」
マーベリックがそう言ってひとさし指を立てるといつのまにやら忍んでいた『草』たちがナターシャの廻りを固めた。
「全部、話してもらおうか、いままでのこと、そしてシドニーの計画を!!」
マーベリックがそう言うとナターシャは逆上して手にしていた針を振り回した。
『往生際の悪い女だ……』
マーベリックはそう思うと自らナターシャを捕縛するべくその足を運んだ。
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その時であった、マーベリックは背中に殺気を感じ振り向いた。
ヒュッという音とともに、マーベリックの頬を一本の矢じりが掠める。
『マズイ!!』
マーベリックがそう思った瞬間である、その矢じりは吸い込まれるようにしてナターシャの胸に刺さった。
屋上の空気が凍りつき、その場の全員に沈黙が訪れる……
ナターシャは目を白黒させると自分に突き刺さった矢を見た。
「何で……何で……私が……」
ナターシャはそう言うとそのままフラフラとあとずさりした。そして体制を崩すとそのまま地面に向けて落下した。
間をおかずして……形容しがたい轟音がバイロンの耳に響いた。それはナターシャの体が石畳の地面にたたきつけられた音であった。
『自分で言ったことが……自分の身に起こったのね』
バイロンは何とも言い難い思いが胸から沸き起こるのを感じた。
『ざまぁみろって言いたいけど……あんな死に方は……』
自業自得とはいえエージェントとして切り捨てられたナターシャの最後はあまりに無残であった。
*
一方、マーベリックはそれに構わず口笛を吹いて『草』に合図した。それは矢を放った相手を『捕獲』しろという意味である。配下の『草』は瞬時にそれを悟ると、その場を疾風のような動きで離れた。
マーベリックはその背中を見るとひとりごちた、
「トカゲのしっぽ切りか……」
マーベリックは70mほど離れた所にある時計台の屋上に目をやった。
『あそこが狙撃場所か……』
相手のあまりの鮮やかな手腕を悟ったマーベリックは『草』の報告を待たずして『捕まらない』という結論に至っていた。
『この距離からの狙撃、それも動く対象を……よほどの手練れだな……』
マーベリックはそう思うと別の考えが脳裏に浮かんだ。
『ひょっとすると……あれは……捕縛できなかった傭兵じゃないのか……』
ゴンザレスから『すでに国外に逃走した』とは聞いていたがマーベリックの勘はそう告げていた。
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さて、九死に一生を得たバイロンであったが、薬の効果がキレてきたようで何とか口を開くことができるようになっていた。一方、当身を喰らったリンジーもマーベリックの助けで正気を取り戻していた。
「リンジー……ありがとう」
バイロンがたどたどしい言い方でそう言うとリンジーはかぶりを振った。
「さっき助けてくれたお返しだよ、バイロンがあの時、助けてくれなかったら……死んじゃってたしね」
リンジーはアリーの狂気浮かべた表情を思い出して身ぶるいした。
「あんな風にはなりたくないね……」
リンジーはそう言うと今度はあっけらかんとした表情を見せた。そして愛らしい顔で一言もらした。
「イケメン、全然、使えないわ」
この状況下で空気を読まないリンジーの一言にバイロンは苦笑いしたが、そうしたメンタルがなければ、ここまでバイロンを助けに来ていなかったであろう。バイロンは素直に感謝の言葉を述べた。
「ありがとう、本当に」
バイロンはそう言うと命の恩人を抱きしめた。
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バイロンたちが巻き込まれた一件によりシドニー一派のマルス暗殺は露見して、その関係者は粛清されることになった。近衛隊の退職者、盾持ち、庭師、メイド、秘密裏に処理されたとはいえ、かなりの数の人間が絡んでいた。
だが肝心のシドニーは姿を消し、事件の全貌は明るみになることはなかった。特にその動機は解明されず『シコリ』のようなものが残った。ダリスの宮中に渦巻く闇の一端は晴れたものの、その真相はいまだ深く沈んでいるのである。
マーベリックから報告を受けたレイドル侯爵は事件の黒幕、すなわちシドニーの計画に思いをやった。
『あの女は一体、何を考えていたんだ……』
執事長というすべてのメイドと執事を統括する人間が首謀者となったマルス誅殺は結局のところ解明できないまま収束した。
『これで終わってくれればいいのだが……』
レイドルがそう思った時である、豪奢な馬車がやってきてその前で止まった。
そして観音開きの扉が開くと一ノ妃がその身をあらわした。
「報告を聞きましょう!」
言われたレイドルは馬車に乗り込むと一ノ妃に事の顛末を語った。
*
「3年にわたりメイドとして仕えてくれたサラがまさか裏切るとは……」
サラの話を聞いた一ノ妃が寂しげにそう言うとレイドルは答えた。
「金の話で『落とし穴』に落ちるものは多くいますが、サラの場合は獣道に自ら入った……借金があったとはいえ情状酌量の余地はありません。一ノ妃様のお気持ちはわかりますが……国体に弓を引いた者に配慮はできません」
『国体』というのはダリスという国の形の事を指す。特に帝位についた人間を中心にして出来上がった権力構造、それ自体を指すのだが、そこに弓を引く行為はいかなる人間であっても『万死』に値する。
一ノ妃はフッと息を吐くと影のある表情で口を開いた。
「確か、サラには子供がいたわね」
「ええ、今年、上級学校に入学したばかりです」
「健やかに育ってくれればいいのだけれど……」
一ノ妃の様子を鑑みたレイドルは口を開いた。
「善処しましょうか?」
「そうね……母を奪ったのだから……多少のことは」
ダリスの国体を守るとはいえサラを死に至らしめる命令をだした一ノ妃はその胸に苦しみを抱えた。だが国の総攬者としてそれはやむを得ないことである……
一ノ妃はすぐにいつもの表情に戻ると話題を戻した。
「シドニーが裏にいたとのことですが、彼女の意図は?」
「……実はわからんのです……」
首謀者の目的がぼやけていてレイドルにもそれはわかりかねた。
「まだ何かありそうね……」
一ノ妃は沈痛な面持ちを見せた。
その時である、レイドル侯爵は一つの質問をぶつけた。
「一つ解せぬ子ことがあります。マルス様の事ですが……」
レイドルがそう言うと一ノ妃は『フフッ』と笑った。
「気付いたのですか?」
言われたレイドルは一ノ妃の言葉の中に『含み』があることに感づいた
そしてそれを悟った一ノ妃はレイドルを真顔で見つめた。
「死人には興味ありませんよ」
そう言うと一ノ妃は『これで話は終わりだ』という表情を見せた。その姿にレイドルはすべてを理解した。
『恐ろしい人だ……この人は』
レイドルは深く一礼すると馬車を下りた。
『一杯喰わされていたのか……』
レイドル侯爵は走りゆく馬車を見て何とも言えない表情を見せた。
次回で終わりです!