第十八話
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アリーの頭の中は明らかに異常であった。思考が混濁し正常に働かない……視覚から入る情報もぼやけて自分がどこを歩いているかもわからなくなっていた。
『確か、ナターシャに変なものを刺されて……』
アリーはわずかに残る正常な感覚を頼りにしたがそれも判然としなかった。
そんな時である、頭の中で濁った声が聞こえてきた。
≪正直になりなさい……あなたをここまで貶めた人間を思い出しなさい≫
アリーは『天の声』が聞こえると耳を傾むけた。
『そうだ……バイロンだ、あの女が悪いんだ。それにリンジーも……』
アリーの中で急激に視界が開けた。そして30mほど先に真っ赤に光る人影がその眼に入った。
『アレだ、あれをやればいいんだ!』
アリーの瞳孔は開き、その口はだらしなく開いた。一般人が見れば明らかに狂人である。だが、アリーのいるところは照明の当たらぬ所で、その薄暗い環境は彼女の表情を隠していた。
すなわち、誰もアリーの存在にきずかなかったのである……
そしてふたたび天の声がアリーの脳裏に響いた。
≪さあ、あなたの想いを遂げなさい≫
アリーはそう言われるとラウンジの客席の方に向かって歩き出した。
*
一方バイロンであったが『しっとりコーン』の文句を言おうとラウンジから離れていたのだが……その視野に明らかにおかしなものが映っていた。
『何、あれ……』
バイロンはうつろな表情でラウンジを歩く人間がいることに気付いた、そしてその人物が見知った存在だと確信した。
『あれ、アリーさんだわ……』
バイロンが怪訝な表情を浮かべた時である、アリーは首をカクカクと揺らしながら歩くとリンジーとニックの後ろに立った。そして懐から刃をスルリと抜いた。
『ヤバイ!』
バイロンは内心そう思ったが距離があるため声を上げてもリンジーがアリーの一撃をかわせるとは思わなかった。
そしてその瞬間――別の考えが浮かんだ。
*
アリーは目の前に煌々と赤く光る対象を見ると、どす黒い感情が体を覆っていくのを感じた。それはとても不愉快で、何とかその感情を払拭したいと思った。
『そうだ、この赤く光るモノを壊せばいいんだ……そしたらきっと……』
アリーはそう思うと無意識の状態で懐から光るモノを抜いていた。そしてリンジーとニックの背後に立つとそれを肩の高さに掲げた。
『これで私は救われる、全て終わるんだ……』
*
刃物を持って振りかぶったアリーを見たバイロンは辺りを見回した。
『これに賭けるしかない!』
バイロンはそう思うと『しっとりスコーン』を食べようとしていた客の皿からそれを取り上げるとおもむろに振りかぶった。
『オラ!!』
バイロンは狙いを定めるとしっとりスコーンをアリーめがけて放り投げた。
しっとりスコーンはシュルシュルと空気を切り裂きながら美しい軌跡を描いた。
だが……
不幸なことにしっとりスコーンはアリーにあたるどころか……隣の席に着弾していた。
『あちゃ~、外した……』
『万事休す』再び危険な事態がリンジーを襲う……
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だが、思わぬ事態が生じた。
リンジーの隣のテーブルにいた客がバイロンの投げたスコーンにおどろいて卒倒し、その腕が後ろに飾ってあった観葉植物にあたったのである。
そして――その観葉植物が鉢ごと倒れるとその枝がアリーを襲った。
*
しばし何が起こったわからない空気がラウンジに流れたが、アリーの落した刃物が床に落ちると、止まっていた時が流れ始めた。
「キャッー、ナイフよ、ナイフッ!!!」
床に落ちた刃を見た厚化粧の女が凄まじい絶叫を上げるとラウンジ内にいた人間すべてがそこに注目した。リンジーとニックもその声に驚いて後ろを振り向くとなんとそこには棒立ちになったアリーがいた。
リンジーとニックは絨毯に転がる刃を見ると今までの和やかな空気が変わるのを感じた。
そしてニックは一瞬で顔色を変えた、
「あっ、俺……帰るわ……」
アリーを見たニックは小さな声でそう言うとリンジーをそのままにして脱兎のごとくラウンジから出て行った。その様は『尻尾を巻いて逃げる』という言葉通りのモノであった。
リンジーはニックの行動に唖然とし、そして意気消沈した。
以下は余談であるがリンジーはその日の日記にこの時のことを以下のように記している。
『有事の際、イケメンは役に立たない。一方、しっとりスコーンは命を救う!!』
素朴な文章であったが、その内容は実に的を得ていた。
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その後、アリーはホテルの守衛によりその場で捕縛された。
『よかった、誰も傷つかなくて……』
バイロンは連行されるアリーを見てこれ以上事が悪い方向に転がることはないと思い安心した。
『これで一難去ったわ……』
バイロンがホッと胸をなでおろし大きく深呼吸した時である、その脇腹に嫌な感触のするモノが突き付けられた。
不意を突かれたバイロンは反応できずに息をのんだ。
「こっちに来なさい」
ささやくように言われたバイロンが振り向くと、そこには髪を染めてメガネを外したナターシャがいた。
「これからが本番よ!」
ナターシャはそう言って邪悪な笑みを浮かべた。そしてアリーと同じく薬物の付着した針をバイロンの腕に突き刺した。
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マーベリックはナターシャ追跡というミッションに自ら乗り出した。通常『草』からの情報を分析する立場の人間はありえない行動である。なぜなら客観的な立場から指示を出す管理者が必要になるからだ。
だが今回はそうはいかなかった。
『どこにいる、あいつは……』
マーベリックの中で焦りが募る。
『ここであいつを失うわけにはいかない……』
病の母親をエサに宮中で情報収集する『草』として活用していた人物は、すでにマーベリックの中で打算的に活用する道具ではなくなっていた。
『まだ、働いてもらわねば困るのだ……』
マーベリックはそう自分に言い聞かせたが、自分の中で生じた別の感情にも気づき始めていた。
闇に生き、そして人知れぬところでその身を骸に変える存在もやはり人の子である、異性に対して特別な感情を抱くこともあるだろう。バイロンが渡したホットジンジャーはマーベリックの心を揺り動かしていたのである。
だがそれは同時に許されぬものであった……『管理者』と『草』との間には倫理上、超えてはならぬ壁がある……
*
マーベリックが焦燥感に襲われいかんともしがたい思いに駆られた時である、いつのまにやら現れたゴンザレスがマーベリックに紙片を渡した。その顔には明らかな自信が見て取れる。
マーベリックはその紙片を見るや否や顔を紅潮させた。
『でかしたぞ!!』
言うや否やマーベリックは走り出した。
その後ろ姿を見たゴンザレスは『フッ…』と息を吐いた。
『若いな……大将も……』
バイロンの居場所を突き止めたゴンザレスは若人の『熱気』に何とも言えない表情を見せた。
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バイロンは何とか意識を保とうと必死になった。
『頭の中に膜がかかる……』
ナターシャの用いた針の毒はバイロンの思考と運動能力を著しく奪っていた。
「これは神経毒の一種なの、量を多くすれば死んじゃうんだけど、この程度なら死なないの……使い方によっては別の楽しみ方もできるけど」
そう言ったナターシャは一目で異常とわかる顔を見せた。
「あなたのせいで、全ての計画が狂ったわ……」
ナターシャはそう言うとバイロンの脇を抱えてモットランドの昇降機に乗った。
「ナイフで刺して返り血を浴びるのは嫌なのよね……この後、逃げる時に困るから」
ナターシャはすでに逃げる算段をしているようでバイロン殺害に荒事を用いる気はないようだった。
*
『クソっ……体がおもい……』
歩くことがやっとの状態で、運動を制御しようにも脳が働かない……
ナターシャに腕をつかまれたバイロンはフラフラと進むことしかできなかった。
「ねぇ、私がこの神経毒であなたを殺さない理由、わかる?」
ナターシャはバイロンの耳に囁いた。
「それはね、あなたに楽な死に方をしてほしくないからなの……」
そう言うとナターシャはメイドの訓練所に連れてこられたバイロンを初めて見たときのことを語った。
「あなたを見た瞬間だった、反吐がでそうになったわ」
それはバイロンの持つ若さや容姿に対する嫉みや妬みから生じたものではなかった、もっと人としての根源的な部分に根差していた。
『人の持つ好き、嫌いという感情は後天的に生じるものではなく、先天的であり直感的である』という風に表現した人がいるが、ナターシャがバイロンに対して抱いた不快感はまさにそれであった。
「――不愉快だって感じたの、あなたを見た瞬間、心の底から!」
ナターシャはそう言うと屋上に着いた昇降機からバイロンを蹴り出した。
「何もかも気に喰わない、顔も、動きも、考え方も!」
ナターシャはそう言うと憤怒の感情を浮かべた。
「あなたのせいですべてが狂った……そう、すべて!!」
ナターシャの思いの根底にはバイロンに対する本能的な不愉快さがあった。そしてその不快な思いはバイロンを貶めようとした花瓶の一件へと帰結したのである。
ナターシャはバイロンの髪をつかんで立たせるとその耳元で口を開いた。
「この高さから落ちたらどうなると思う?」
三十路になった女は血走った眼でバイロンを見た。
「きっと頭から落ちるでしょう、そうすればあなたの美しい顔もザクロのように裂けるわ」
ナターシャはそう言うと目を細めて高笑った。
「頭蓋骨が割れてそこからあなたの脳が飛び出すの、グシャグシャになったあなたの顔は原型を留めてないわ……眼球が飛び出して、砕けた骨が地面に突き刺さるのよ」
ナターシャは興奮した面持ちで続けた。
「そして、その顔見て、街行く人々が気持ち悪そうに眺めるの」
ナターシャはそう言うと満面の笑みを見せた、そこには人としての矜持など微塵もない、悪鬼と思える醜さが浮かんでいた。
『この女……狂ってる……』
バイロンはそうおもったが、ナターシャはそれにかまわずバイロンを引きずり屋上の淵まで追いやった。
『クソッ……体が……力が……入らない……』
死の恐怖に苦しむバイロンの姿はナターシャにとってこの上ない悦びをもたらした。
「あなたはここで死ぬの……頭から落ちて」
ナターシャはそう言うとバイロンの顔を覗き込んだ。
「さようなら、バイロン!」
まさに『絶対絶命』バイロンの中で時間が止まった。