第十一話
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シルビアに手を取られたベアーの頭の中では善(僧侶)と悪(貿易商)、それぞれが火花を散らした。
以下はベアーの脳内で行われたやり取りである。
『貿易商なんだし色々経験したほうが話のネタにもなるぞ。さっさと童貞なんて捨てちまえよ!』
『駄目だ、君はまだ僧侶だよ。倫理と道徳をつかさどっているんだ、娼婦と寝るなんてダメだよ!』
『見ただろ、あのおっぱい。あんなのそうそうお目にかかれないぞ、ここでいっとけって!』
『胸なんかに騙されちゃだめだ、あんなの脂肪の塊だよ!』
『きっと柔らかいだけじゃなくて、ハリもあると思うぜ』
『そんなことないよ、巨乳はたいていハリがないんだから』
ベアーは脳内で行われるやり取りに胸をかきむしられた。
『善』と『悪』の部分はさらに続けた。
『熟女で美人そして巨乳、三位一体とはこのことだ。こんなチャンスはもう二度とないぞ!』
貿易商の部分(悪)が脳内でそう語りかけたときである、ベアーは目を点にした。
『三位一体……』
僧侶の教えの中で三位一体とは
≪『神、魔法、人』の関係は不可分であり、全ての事象はそれらが相互作用した結果、生じている。≫
となっている。
すべての教えの中で最初に教えられる基本的な哲学でベアーも最初にこの概念を叩き込まれている。
だが今のベアーにはこの三位一体という概念は明らかに違う意味で脳内変換されていた。
『熟女、美人、巨乳……熟女、美人、巨乳………熟女、美人、巨乳……』
三位一体という魅惑の4字熟語はベアーの心の琴線に強く響いた。
そして……ベアーの中の僧侶の部分ははじけ飛んだ。
『よっしゃ、ここで、童貞卒業じゃ!!!』
ベアーの頭の中でファンファーレが鳴り響き『悪』の部分が『善』の部分をやり込めた。
ベアーは興奮した面持ちでシルビアを見た。
そして……全身を震わせながら、口を開いた。
「お、お、おね、お願い……し……」
シルビアは艶やかに微笑むとベアーの言葉の語尾に耳を澄ました。
その時であった、
ベアーは背中に突き刺さる何かを感じた、それは殺気といって過言でない。ベアーはおそる、おそる、振り向いた。
*
そこには朗らかな表情を浮かべたおかっぱの少女が立っていた。
「おにいちゃん、いまの『お、ね、が、い、し、ま……』って、どういう意味?」
ベアーはその顔をみて一瞬で悟った。
『これはマズい……』
「どういう意味、お兄ちゃん?」
ルナが目をキラキラさせてそう言うとベアーは直立不動で答えた。
「……何でも……ありません……」
「よく聞こえないんだけど?」
ルナはそう言うとベアーに『ツラをかせ!』と目配せした。
ベアーは如何ともしがたい表情を浮かべた。
『この展開……ニャンニャンどころじゃ……ないな』
ベアーはそう判断すると店から脱兎のごとく逃げ出そうとした……
だが、それはできなかった……
タイミングよくルナが出した足にベアーは躓いたのだ
「お兄ちゃん、逃げられると思ってるの、私から!!」
つんのめったベアーは背中から届く魔女の言葉に戦慄した。
「夜はまだ長いわよ!」
この後、ダーマスの夜街に少年の悲鳴が轟いたことは言うまでもない。
22
2人の命がけコントを見終えたシルビアは二階の個室に向かった。
「大丈夫なの?」
まだ呼吸は荒く、精神的に摩耗した状態だったがマークの様子は先ほどよりもはるかに改善していた。
「僧侶の童貞を食い損ねて残念だったな」
「あなたが落とせって言ったんでしょ……」
シルビアはそう言って仏頂面になったがマークの言ったことが的を射ていたらしく、口をとがらせた。
「初めての経験って記憶に残るでしょ。そうすればあの子は私の事を一生忘れないわ……そういうのって……素敵じゃない」
シルビアがそう言うとマークはフフッと笑った。
「娼婦らしい発想だな」
マークはそう言うとシルビアを引き寄せた。
「駄目よ、休んでなきゃ」
「こういう時はひと肌が恋しくなるんだ」
そう言ってシルビアの腰に手を回すとシルビアが真顔になってポツリともらした。
「でも、珍しいわね……ほとんど他人の事なんか興味ないあなたが気をかけるなんて……あの子は別みたい」
シルビアがベアーのことを指摘するとマークは不敵な笑みを浮かべた。
「あの少年は特別だ……バックパックに見え隠れしていたマントの紋章を見たか」
「マント、紋章……?」
シルビアが怪訝な表情をするとマークが口を開いた。
「あれはライドル家の紋章だ」
「ライドル家って……確か300年前の魔人との戦いで……でも、あれはおとぎ話でしょ」
シルビアがそう言うとマークは向き直った。
「確かに300年前の魔人討伐の話は定かじゃない、眉唾という人間もいる。……だがライドル家が特別なのは間違いない」
マークは真剣な表情で続けた。
「俺の生き方は……ライドル家の哲学をもとにしているんだ」
言われたシルビアは良くわからないという表情を見せた。
「ライドルは『破戒僧』という生き方を実践した僧侶だ」
破戒僧とは5つの戒め(飲酒、女犯、窃盗、虚言、殺生)を破る僧侶の事である。不道徳な存在としてどの宗派からも忌み嫌われ、破門されている。
「そんなの聖職者じゃないじゃない」
シルビアが非難の声を上げるとマークは笑った。
「普通はそう思うだろうな……だが真理を求めるものはそうではない。欺瞞に満ちた聖職者の道を歩んだところで悟りは開けんのだよ」
マークは楽しげに続けた。
「ライドル家はその道を辿り『闇』を見つけ、そしてその闇の底、『深淵』に行きついたんだ」
マークは謳い上げるようにいうと狂気を浮かべた表情で続けた、
「そして、ライドルは呪われたんだ……」
童貞を奪おうとした少年がそんな一族の血を引いているとは思わずシルビアはおののいた。
「心配するな、あの少年は呪われていない。だが俺は……ライドルの生き方に……闇を見つめるその生き方に……惹かれている……」
そう言ったマークの表情は恍惚としていた。今まで一度も見せたことのないマークの表情は癒し手と呼ばれる僧侶のものではなかった。
『この人……狂ってる……』
シルビアは率直にそう思った。
23
無事、ルナにシバかれたベアーはケツを押さえながら宿屋に向かった。
その途中、街の様子を眺めてみたが煌々とした街灯に照らされた街には人があふれ、楽しげに酒を飲む荷夫や娼婦に声をかける客の姿があった。ポルカと違う人の様相は異国独特のもので見ていて飽きが来なかった。
そんな中、ベアーの脳裏にダーマスでの経験が泡のように浮かんだ。
刃傷沙汰を起こして逮捕された青年、オークションで売られていく少年少女、不道徳な僧侶、そして童貞喪失失敗など様々なことが生まれた……
『世の中って……一体どうなってんだ……』
わずか一日半でこれほどの多くの事を経験するとは夢にもおもわなかった。だがその眼で見たものを解決する力も知恵もベアーにはなく、15歳の少年には厳しい現実が突きつけられただけだった。
『疑問の解はダーマスの闇の中にあるのかもしれない……』
ベアーはふとそう思った。
そんな時である、突然、ルナが声を上げた。
「何……あの超イケメン……」
イケメンセンサー(ベアーの巨乳センサーよりもするどい)が働いたルナはそのを目を街灯の下にいる少年にロックオンしていた。
ベアーは歩きながらその少年に目をやった。
『あれ……あの子……オークションで……落札された……』
ベアーは『商工ギルド』の壇上にいた少年だと気付いた。
何を思ったのであろうか、ベアーは思わず駆け寄っていた。
*
その少年は実に美しかった。すらりとした手足にはうっすらと筋肉が付き、引き締まった体の上には艶やかで麗しい顔がのっていた。パトリックの持つ雰囲気とは違うが街を歩けば誰もが振り向くであろう。
ルナは少年を見て嘆息した。
『大好物!!』
ベアーは目をキラキラさせるルナを制すると少年に話しかけた。
「君……あそこにいたよね?」
ベアーの『あそこ』という単語に少年はたじろいだ。素知らぬ顔を少年は見せたががベアーはそこに畳み掛けた。
「商工ギルドの……オークション……」
美少年は体をビクッと震わせた。
「……知ってるのか……」
少年が怪訝な表情を浮かべるとベアーは続けた。
「告発する気なんてないよ……ただ……」
ベアーは僧侶として不道徳な行いをやめるべきだと力説しようとした。
だが美少年はベアーを睨んだ。
「君は何もわかってないよ……ダーマスはね、一部の金持ち以外は貧しいんだ。喰うに事欠くことなんてよくあることさ。自由競争で勝ち抜いた連中以外はゴミ、クズなんだ」
少年の言い方は腹が据わっていてベアーの持つ倫理観が役立たないことを示唆した。
「でも、寺院や教会に行けば、食べるくらいの手は差し伸べてくれる。こんな仕事につかなくても……」
ベアーがそう言うと少年は鼻で嗤った。
「喰えるだけだろ、自分の足で歩けるわけじゃない。」
少年はベアーを睨み付けた。
「君は外国人だからわからないだろうけど、ここでは競争に勝ち抜けない奴は底辺に落ちるしか選択がないんだ。勉強したって普通の努力じゃ這い上がれない……」
『トネリアは社会福祉という点では手厚いが競争という点ではダリスよりもはるかに厳しい、勝ち抜くことは至難の業だ……』
ベアーはロイドがそう言ったのを思い出した。
「でも、今の生き方は人としての尊厳を欠いている、別の方法を探すべきだよ」
ベアーがそう言うと少年が声のトーンを変えた。
「それは君が養ってくれるっていう意味かい?」
少年に言われたベアーは黙って少年の目を見た。
「体を張って何が悪いんだ、そうすれば飯も食えるし、暮らしも良くなる。胡散臭いきれいごとじゃ、生きていけないんだよ!!」
少年は吐き捨てるようにそう言うと向かいの通路から出てきた馬車へと向かった
ベアーは駆けていく少年の背中を見ていたが、金で買われていく少年の心境には理解しがたいものがあった。
「あの子、『一線』越えちゃったんだね……」
ルナがポツリと漏らすとベアーは厳しい表情を浮かべた。
「ああなったら、もう無理なんだ……あの生き方を覚えたら」
ベアーはかつて祖父が言っていたことを思い出した。
『安易な道には見えない泥沼がある。一度その沼に足を取られれば、抜け出すことは不可能だ』
ベアーは既に少年がのっぴきならないところに至っていると思った。