第十話
19
その時である、階下からシルビアが息を切らせて駆け込んできた。
「マークさん、ユリアが……」
シルビアの物言いは普通ではない、尋常ならざることが起こったのは間違いなかった。
「少し、失敬するよ、ベアー君」
マークはそう言うと席を外した。
*
ベアーはマークが席を外すと立ち上がった。
『今なら、この人を告発できる。こんな不道徳な人を放っておけない!』
ベアーは今までの言動からマークが明らかに僧侶の道を外れていることを感じた。
『きっと治療費の名目で得た金は脱税してるはずだ、税務当局に通報すれば、なんとかなる』
金がとれるとわかれば税務当局はハイエナのように業者を追い詰める、それはどの国でも同じはずだ、ベアーはその執拗さに賭けてもいいと思った。
『道を外した人が大きな顔をして僧侶としているのは間違いだ!』
だがそう考えたベアーをシルビアが厳しい眼で見つめた。
「あなたの考えていることは手に取るようにわかるわ」
ベアーが告発しようとしているのをその雰囲気から察したシルビアは声を上げた。
「だけど、告発するならマークさんの行動を見てからにして!」
シルビアに言われたベアーは袖をつかまれ階下へと連れて行かれた。
*
階下のカウンターの裏側にはスペースがあり簡易ベッドがおかれていた。従業員の仮眠用ものだがそこにはベアーと年齢の変わらない少女が寝かされていた。恰好から娼婦ということはすぐにわかったが美人というには程遠く、上客が付くとは思えない容姿であった。
『この年で体を売るのか……』
ベアーは気の毒に思ったが少女の容態は同情で良くなるようなものではなかった。顔色はすこぶる悪く、その皮膚には異様な斑点が浮かび、なかにはアズキほどに膨らんだ病変もある。
ベアーは思った、
『梅毒だ……』
梅毒とは性病の一種だが、この病が発症すれば薬師の調合した薬で治ることはない。すなわち『死』を意味する。さらにはこの病は感染する、周りいる人間たちにも危険を及ぼすのだ。
周りの人間はそれをわかっているのだろう、少女にむけて気の毒そうな表情を浮かべているが、それはうわべだけで、その眼は『速く隔離してくれ』と言わんばかりであった。
マークは少女に近寄ると、重々しい表情で問いかけた。
「なぜ、こうなるまで放っておいた?」
その口調は厳しく病を持つ少女にかける声ではなかった。
少女はそれに対し、か細い声で答えた。
「すみません……お金が必要で……」
「体を張って稼ぐのは悪いとは思わん……だが病になればそれも出来なくなる。お前には幼い弟がいるんだろ」
マークがそう言うと少女は苦しそうな顔を見せた。
「家賃をなんとかしようと……それで……お客を取って……」
マークは呆れた顔を見せた。
「お前の病は他人にも迷惑をかけるものだ、お前が死ぬだけでなく、お前の弟にも染るんだぞ!」
言われた少女ははっとした表情を見せた、自分の軽率な行動を今になって気付いたのだ。
「ごめんなさい……そんなこと知らなくて……」
『死』への恐怖と自分のしでかしたことの大きさに気付かされた少女は泣き出した。
マークはそれを見てフッと息を吐いた、そして左手を胸の高さに掲げた。
ベアーはそれを見て魔導の匂いをひしひしと感じた。
『魔法を使うのか……でも解毒の魔法じゃ、無理だぞ……こんな病気』
解毒の魔法は食中毒程度のものにこそ効き目はあるが、死病の類に効果はない。少女の梅毒を癒すことはできない……
ベアーはマークの様子を観察することにした。
*
マークは何やら文言を唱えた、それはベアーが聞いたことのないものであった。
『これは何の魔法だ……』
ベアーがそう思った時である、マークの左手が緑色のオーラに包まれた。マークはその左手を少女の胸にあてた。
緑光は少女の体の中に吸い込まれていく、そしてその光は体全体に仄かにひろがった。
『そんな……まさか……『癒し手か』……』
癒し手とは病や怪我を治すことのできる特殊な僧侶の事である。300年前、魔人との戦いでは数多くいたそうだが、現在のダリスでは癒し手は存在しないと言われている。
『……こんな魔法を使える人間がいるなんて……』
ベアーが目にしたのは『癒し手』以外の何物でもなかった。
「これで良くなるはずだ、一週間は安静にしろ、よく眠って栄養を取れ」
マークはそう言うとよろめいて、その場に片膝をついた。
「力を使いすぎたな……」
周りの人間はそれを見ると血相を変えてマークの肩を抱きかかえた。その顔は心底、心配しているようで演技には見えなかった。ベアーはマークを担ぐ連中をつぶさに見たがそこには打算的な嫌らしさはなかった。
『どうやら、この連中には敬われているみたいだな……』
ベアーは先ほど見せられたマークの不遜な態度と、ここで見せた僧侶として一面に著しいギャップを感じた。
20
その場にはシルビアとベアーだけが残された。
「今のを見たでしょ、あの人は特別な力があって私たちを影から支えてくれてるの、私たちみたいな人間にも奇跡の力を施してくれるわ……」
シルビアに言われたベアーは如何ともしがたい表情を浮かべた。
「あの人はあなたの思っている通り裏僧侶よ、金持ちから法外な値段で治療費を受け取っているわ。税金も払ってないし……それに酒も飲むし、博打もやる、女も抱くわ。僧侶の世界じゃ許されない存在でしょう。でもあの人は弱きものには施すわ、貧しいものだけじゃなく娼婦にだって……」
シルビアがそう言うとベアーは困った顔を見せた。
「トネリアは競争が厳しいの……自由競争って言ってるけど、実際は一握りの金持ちと、それ以外の底辺層の二つしかない。勉強して這い上がることもできるけど、そのためには上層の人間を満足させるだけの高い能力がないとだめなの……普通の人間じゃ這い上がれない構造なのよ……」
一部の優秀な層以外は構造的に這い上がれないダーマスの仕組みは自由競争という御題目の元、格差を生み出すシステムとして負の遺産を生み落していた。
ベアーはシルビアの目を見てその言葉に嘘がないと思った。
『弱きものに施すのは僧侶の務めだ……たとえ娼婦であろうと……』
不貞の僧侶を当局に突きだすことは簡単であろう、だが目の前で見せられた奇跡の力はその思いを揺るがすだけの価値があった。
ベアーはシルビアを見た。
「今日の事はすべて見なかったことにします。ですが、次はそうはいきません!」
ベアーがそう言うとシルビアはホッとした表情を浮かべた。
「この街の人間はマークの名を出せば黙るけど……あなたみたいな人間にはそれは通用しない……正直あなたの存在は厄介だったの……袖の下で納得するタイプには見えないから……」
「マークさんの行いが不味いことは同業としてすぐにわかりました。でもマークさんはそれ以上の善行も行っているようですし……それにあの少女を助けたことは評価されてしかるべきです」
ベアーがそう言うとシルビアは微笑んだ。
「一つ質問してもいいですか?」
ベアーがそう言うとシルビアは頷いた。
「あの商工ギルドの隠し部屋の事ですが……」
ベアーがそう言うとシルビアは訥々と答えた。
「昔、ギルド長をマークさんが助けたんだけど、その時に秘密の部屋の事を教えてもらったの」
「助けてもらった?」
「ええ、かつてのギルド長は不正に厳しい人で、オークションなんて許す人じゃなかったの、だけどそれが災いして……大きなけがを……」
シルビアは気の毒そうに言った。
「瀕死の重傷だったわ……でもマークさんの力で何とか一命を」
「そんなことがあったんですか……」
ベアーは権力者の不正を悪く思う正義感がいたことに若干だがホッとした。
「もう一つ、あなたが言った証拠とはなんですか?」
シルビアはさすがに『それは言えない』という表情を浮かべた。
「こういうやり方してると、いつ何が起こるかわからないでしょ。だから保険をかけておかないと」
何やら悪事の匂いを嗅ぎ取ったベアーであったが、これ以上関わり合いになるのも良くないと思い質問を止めた。
「せっかくだから、一杯飲んだら、どう。ミズーリのワインは値段の割には味がいいって評判なのよ」
ダリスの事を褒められたベアーは気をよくして一杯飲むことにした。ベアーは木製のグラスに注がれたそれを口に含んでテイスティング(味見)した。
「おいしい……ちょうどいい酸味ですね……」
ロイドとの食事を通し、多少ではあるがワインの味もわかるようになっていたベアーは口にしたワインが質のいいものだと判断した。
「これは当たり年のものですね」
『当たり年』とはワインに適したブドウがとれた年の事である。同じ産地でも毎年、気候や条件によりブドウの味が異なるためワインの出来というのは年によってブレる。ベアーは口にしたものが『間違いない』という確信を持った。
「ブドウが不作の年の方がいいワインを作れるって聞いたことあるわよ」
シルビアが知識を披露するとベアーはサラリと反論した。
「それは俗説ですね……不作、豊作は味にあまり関係ないんですよ。」
ベアーはロイドに教わった知識を披露した。
「不作の年はワインの数量が減るんで値段が上がるんです、ですから熟した質のいいブドウを使ったワインは高くなる。逆に豊作の年はワインの数量が増えるんで値段が下がる。みな値段の高い者の方がいいと思うから不作の年のワインを高く評価する……だけどそれは値段で判断しているだけでワインの味の問題じゃないんです」
ベアーが力説するとシルビアは驚いた表情を見せた。
「若いのに……いろいろ知ってるのね……」
「……見習いですけど貿易商ですから……」
ベアーがそう言った時である、ベアーの眼にシルビアのアレが飛び込んできた。カウター席で飲んでいるためシルビアの胸はテーブル上に載るような形になっていた。
『……すばらすぃ……』
ほぼゼロ距離というべき近さで見るシルビアの胸は想像以上のものであった。
シルビアはそれを見てフッと笑った。
「この後……付き合ってあげようか?」
『付き合う』という言葉の中に魅惑を感じたベアーは生唾を飲み込んだ。
「いいのよ、告発しないって言ってくれたから」
シルビアの怪しげな表情にベアーは顔を真っ赤にした。それを見たシルビアはあることに気付いた。
「あなた、ひょっとして……経験が……」
ベアーは『経験』といわれて鼻息を荒くした。それを見たシルビアは舌なめずりした。
「いいわ、教えてあげる」
ベアーは妖艶な微笑みを見せるとベアーの手を取った。
『ああ、俺、僧侶なのに、いいのかな……』
ベアーのなかで僧侶としての善なる部分と、貿易商としての悪の部分がせめぎあいを始めた。