第十三話
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バイロンは急いで胸を隠した。初めての客が昔のクラスメイトとは考えもしなかったのだろう、羞恥心と驚きでどうしていいのかわからなくなっていた。一方、バイロンの顔を見たベアーもパニックになっていた。
「その、友達に誘われて……こうなっちゃったんだ……こんな所で君に会えるなんて思わなかった……」
バイロンは下を向いてしまった。
この後、しばらく沈黙がおとずれた―――
「やめよう、こんなこと……お金は払っとくから」
「………」
ベアーがそう言ったがバイロンは変わらず沈黙したままである。
「女主人にはシタことにすればいいよ……ねっ?」
ベアーにとっては精一杯の優しい言葉のつもりだったのだろうが、バイロンにとってはそうではなかった。
「ベアー、私、どうしてもお金がいるの…今日、あなたが私を抱かなくても、明日になれば違う男に抱かれるだけ、だから……お願い…」
バイロンの表情はベアーにとって一生忘れられないものになった。少女のあどけなさ、これから起こることへの不安、そして普通の娘としてはこの日を境に生きていけないだろうという思い、それらが複雑に絡み合っていた。
バイロンは自ら、ベアーに抱きついた。甘い香りがベアーの鼻腔をくすぐる。柔らかな胸の感覚がベアーの着ている服の上からでもはっきりわかった。部屋に充満している媚薬の香りでクラクラしてきた。
だがベアーには一つの思いが沸き起こった。
「バイロン、いくらいるの?」
「えっ?」
「多少なら用立てできるよ、もし、きみが嫌だって言うなら、貸すっていう方法もある。」
「そんな…」
「それが嫌なら、君に投資するっていうことでもいい」
「ベアー、無理よ、大金だし……気持はとてもうれしいけど…」
ベアーは黒い衣装をバイロンにかけた。
バイロンはベアーの思わぬ優しさにほだされると正直に現状を話した。
「祭りのときの馬車おぼえてる? 私、あの貴族のところから逃げてきたの…でも病院に入院してる母さんの治療費がかかるから……こうした所でしか身を置けないの……ごめんね…こんな話…」
いろいろな感情が噴出してきたのだろう、バイロンは泣くまいと必死にこらえていたが一滴の涙が頬をつたった。
「もし、お金ができても、働くところがなければ、結局は同じことになってしまう。同じ場所で安定した生活は送れないの……私はどうしても逃げなきゃいけないから…」
祭りの晩に罵倒されていたバイロンの姿を思い出した。あの貴族と何かあることはすぐにわかったが、ベアーにはどうにもならなかった。
そんな時、ベアーには一つのひらめきが沸き起こった。
「いいかい、僕には考えがある、どの道、厳しい選択をしなくてはならないなら一日くらい遅れてもいいだろう、明日の午後は時間があるかい?」
「あるけど…」
「じゃあ、12時にバオバブって言う宿に来てくれるかい。」
「でも…」
「いいから、必ずだよ、いいね、場所はメインストリート沿いだからすぐわかるよ」
そう言うとベアーは部屋を出て行った。
*
バイロンが待合室に戻ると女主人がさりげなく近づき、囁きかけた。強い香水のにおいがバイロンの鼻腔を付いた。
「いい客、捕まえたんじゃないの、今日はもういいから、帰って休みな」
さばさばした表情で女主人、デロッサはカウンターに戻っていった。バイロンは不安な気持ちを抱えその晩を過ごした。
*
バイロンが起きると朝食が用意されていた。バイロンの置屋では60歳を過ぎたトロンという亜人が女たちの世話をしていた。トロンはもともと娼婦たちを守る用心棒だったが今は荒事から離れ、飯を作ったり雑用をこなす下働きとして仕えていた。
「あの、午後、出てきてもいいですか?」
「ああ、4時までに戻ってくれば……そうじゃないと大変なことになる」
5時を過ぎると『逃げた』と思われる。そうすると『猟犬』と呼ばれる男たちが捜索に出る。まともな連中ではない、猟犬につかまったら最後、そのあとは手ひどい仕打ちが待っている。言葉で表すのも酷なぐらいだ。
キセルをふかしトロンはバイロンを見た。
「体を使う商売を覚えると、まともな仕事ができなくなっちまう……逃げたらもっと酷い目にあう…もし、銭の用意ができるなら、足抜けするんだよ」
トロンは長くこの業界に身を置き、いろんな女を見てきた。様々な物を抱えた女がどうやって生きていくのか、そして死んでいくのか……
中にはうまくこの世界から抜け出る者もいるが大半はそうではない、鬼畜の世界の中で身を崩していく……
女主人、デロッサのように図太く生きていくのは普通の人間にできることではないのだ。トロンにはバイロンがこの業界でやっていくだけの器量がないことがわかっていた。
「戻れるうちに、娑婆に帰んな」
トロンは皿にスープをよそうと庭に出て行った。席に座るとバイロンはスープに手をつけず、しばらくの間そのままでいた。
*
精神に障害を持った母親の医療費を払おうとしたバイロンは町金に手を出した。正規の金融屋ではない。暴利をむさぼり、借り手をしゃぶりつくす連中だ。貴族の手から逃げていたバイロンはそうした所からしか金を工面できなかった。何とか働いて返そうと思っていたが、利子に利子が重なり元本を返すどころか借りた100ギルダーが1000ギルダーまで膨らんでいた。この間わずか1週間である。15歳の娘にそんな金が返せるはずもなく途方にくれた。
そんな時である、トロンが来た。
「お嬢ちゃん、内で身請けすることになったから、荷物をまとめてくれるかい」
町金の高利貸しは置屋にバイロンを売ったのである。買ったのはデロッサだ。彼女もこの道のプロである。バイロンを仕込めばかなりの額を稼げると踏んでいた。
*
こうしてデロッサの店でバイロンは働くことになった。最初は店の掃除やトロンの手伝いだったが、仕事のイロハを覚えると本業のほうへといざなわれた。デロッサはその辺りの抜かりがない。嫌がる女を客にあてがったところで収益に繋がらないのを見抜いているからだ。徐々に慣らし、最後に客を獲らせる。借金の返済の話をせずとも、仕事の流れの中で自然とそうなるように仕向けていくのだ。
だが、ベアーの存在でデロッサの気が変わった。5000ギルダーの預り証を見せられたからだ。デロッサの哲学は『金に勝るものなし』である。
*
バオバブという宿はすぐにわかった。バイロンが入り口を見回すとバックパックを背負ったベアーがいた。
「あっ、おはよう、ちょっと紹介したい人がいるから」
そう言うと、ベアーはラッツを紹介した。
「はじめまして、ラッツです」
ラッツは挨拶しながらもバイロンの全体を隅から隅まで観察した。
「カワイイじゃん、こんな知り合いいたのか? ベアー」
小声でベアーにささやいた。
「まあね……どうかな……座長さんに頼んでもらえる?」
「いける、これだけ器量があるなら、歌がだめでも芝居に使えるとおもう」
そう言うと、ラッツは座長に呼びに言った。
「ベアー、どういうこと?」
不安そうに尋ねるバイロンに計画を打ち明けた。
「この仕事なら定住する必要ないし、貴族には見つかりにくいよ、それにうまくいけばお金も稼げる。裏方に入れば顔も表に出ないし…どうかな…旅芸人って?」
そんな選択肢を全く考えてなかったのでバイロンは眼が点になっていた。
「でも」
「『でも』は無し、それから見受けのお金は女主人に渡してあるから」
「えっ…」
「これで借金はチャラ、就職もOK。一石二鳥でしょ」
ベアーは昨晩のうちにデロッサにバイロンの借金の額を聞いていた。
『手持ちのお金をすべて使えば何とかなる』
そう思ったベアーは午前中に預り証をすべて現金化しデロッサのもとに届けていた。
「どうして……どうして、そんなにしてくれるの…」
「俺……僧侶辞めるつもりなんだ、だから最後に僧侶として何かしたかったんだ、人助けって僧侶の専売特許だから。」
バイロンは泣いていた。
「じゃあ、バイロンさよなら」
ベアーに礼を言おうとバイロンが思ったときである、ちょうど座長がやってきた。
「ラッツどいつだ?」
めんどくさそうな態度で入ってきたがバイロンをちらりと見ると目つきが変わった。
「こっちです、座長、このバイロンって言う娘です。」
座長はすぐに面談に入った。手招きするとバイロンに付いて来いと指示した。バイロンは座長のすぐ後ろについて食堂のほうへ入っていった。ベアーに何とか感謝の思いを伝えたかったがタイミング的に難しかった。
座長は厳しい顔でバイロンをみた。正確には睨んだというほうが近いかもしれない。だがこうした姿勢を見せるときは間違いなく採用である。
「じゃあ、ラッツあとはよろしく」
「ああ、またな、どっかであったら、酒でも飲もうぜ」
ベアーはラッツと握手を交わし次の目的地へと歩みをすすめた。バイロンが窓越しに横目でベアーを追っていたが、ベアーは荷物を背負うとさっさと歩き出した。礼を言われるのが気恥ずかしいからである。
*
一週間しか過ごしてないがなかなか面白い町だった。旅芸人の一座に会ったり、美味い汁ソバをたべたり、バイロンと会ったりと充実していた。金銭面では出費が多かったので次の町ではバイトしないと食えないだろうが、それもまたいい経験になるだろう。
元来、楽天主義のベアーはあまり都合の悪いことは深く考えないようにしている。考えたところで結果は同じだからだ。
ベアーは住宅街を抜けゲートに向かった、ゲートは荷馬車でごった返していたが、往来はスムーズでさほど混雑には巻き込まれなかった。ゲートを出ると街道がすらりと伸び、その脇には見慣れた田園風景が広がっていた。この辺りはビラ川の支流から灌漑用の水路を引いている。ビラ川は山の養分をたっぷり吸い込んだ土を含み、それが農業用水路に流れ込んでいる。作物の収穫は豊かで、ダリスに住む人々は黄金地帯とこの辺りを呼んでいた。ベアーは田園を眺めながらゆっくりとした足取りで進んだ。野菜を作っている農家がうまそうにトマトを頬張っていた。
そんな時である、ゲートの脇で草を食む動物が目に入った。
「あれ、お前なのか?」
名前をつけているわけではないので『お前』と呼んでいるが、どうやら様子からして、『お前』らしい。ロバは鼻をフルフルさせていた。一週間ぶりの再会に喜んでいるとは思えなかったが、旅支度はできているようだ。
「お金、全部つかっちゃったから、餌はなし。」
ベアーはそう言うと荷物をロバの背にのせて手綱を引いた。
また旅の始まりである。