第十二話
11
翌日もベアーは図書館に通った、貿易商の仕事を具体的に調べるためである。参考図書を2冊選ぶと席に座った。
最初の本で気になったのは船を使った交易と陸路で山を超えていく交易の違いである。海路のほうが運べる荷物の量は多いが、座礁の危険性、台風や強風のお天気リスクは回避できない。
一方、陸路は険しい山は登れず、運べる量は多くはない。馬車で運べば馬の餌代などもかさむことになる。まれに夜盗が出ることもあるのでその点も考慮しなければならない。どちらがいいかというのは商人にとって悩ましい所だ。
『むずかしいな…でも運賃が安いほうが…いいよな』
ベアーはそう思うと次の項目に進んだ。商品の価格についてである。商品には相場というものがある。一般的に豊作や豊漁というのは喜ばしいと考えがちだが、実際、商売をするようになるとそうでもない。市場に出回る量が増えてしまい、値段が下がってしまうのである。こうなると売るほうにとっては芳しくない。単価が下がって利益も減少するからである、俗にいう豊作貧乏だ。
『買う側と、売る側と全く違うんだな…』
今までは買う側だったベアーにとって商売をするということはかなりの思考形態の変化が必要だとわかった。
*
こうしたことを考えていると意外と時間は速く過ぎるもので、気づくと13時を過ぎていた。ベアーは腹が減ったので図書館を出た。3日目となると多少慣れてきて、街の風景もしっかりわかるようになっていた。
『あれ、あれって、ロバじゃん……』
なんとベアーの視界に入ったのは初日にわかれたロバであった。背中にはあのときの男の子が乗っている。なれた様子でしっかりと手綱を取っているのはなかなか様になっていた。母親が後ろからオロオロしながら見守っているが、それも含めてユーモラスな光景が展開していた。
『うれしそうだな……あの男の子…』
ベアーは声をかけないでおくことにした。楽しそうにしているので水を差したくなかったのだ。
『さて、なんか喰うか』
ベアーは気を取り直し再び昼食に神経を集中した。
*
結局、ベアーは昨日と同じ店で汁ソバを食べることにしたが、トッピングを蒸し鶏に変えてみた。臭みもなく、この街に来て食べたものの中では一番美味いと思った。
『これ入れてみるか…』
ベアーはテーブルに置いてある香味油を入れてみた。
『入れすぎると、だめだな…』
大していれたつもりはないが想像以上に味が変わり失敗したと思った。薬味と違った香味油の効能はベアーを驚かせたがその量に関しては熟考する必要があると学ぶことになった。
それから街を一回りするとベアーは宿に戻った。宿では楽団員が芝居の準備をしていた。昨日の少年はせっせと荷物を運んでいる、忙しそうなので話を聞くのは明日にしようとおもった。
*
翌日は昨日と同じで、午前中は図書館、午後は観光といった感じで一日過ごした。商いに関することはだんだんと専門的になり退屈になってきたが、新たに公用語を学ばなくてはならないことに気付いた。ベアーはとりあえず単語帳を造ろうと思った。
ベアーは図書館を出ると、今度は違う店でスープ麺をたべてみた。昨日、一昨日のものは塩味だったのに対し、こちらは牛コツで出汁をとっているため乳白色のスープであった。多少臭みはあるがカウンターに置いてある薬味を入れるとだいぶおさまった。
『色が、こんなに違う……骨からとるとスープってこんな風になるんだ……結構クセがあるな』
驚きとは思っていた物と現実の物との開きが大きいほど強いようだ。マギーの巨乳にあれほど悩殺されたのもスープ麺で驚いたのも原理としては同じかもしれない。ベアーはそんな風に思った。
*
ベアーはその後、まだ見たことの無い住宅街に行くことにした。ミズーリは規模の大きい街なのでベアーのいた田舎とは全く異なる建物が数多くあり、住宅もさまざまであった。
住宅街は高級、中級、下級とわかれ、見た目にもはっきりその差が出ていた。
『すごいな、なんでこんなに違うんだ』
ベアーの村でも貧富の差はあったがこれほどの違いはない。
ミズーリの高級住宅地は宮殿のような屋敷、3階建ての塔、きらびやかに装飾されたサロン、噴水のついた邸宅などがあった。ベアーの村にも屋敷はあったがミズーリの邸宅のように洗練された佇まいのものはなかった。経済力のある者はこれほどゴージャスな暮らしができるのかとベアーは思った。
一方で貧しい人たちの暮らし向きはベアーの村よりもはるかに悪そうだった。雨がしのげる程度のあばら家で、狭くて汚い。物乞いをする者も複数いて、見ていて暗い気分になった。特にあばら家をつなげたような集合住宅はその雰囲気も悪く近寄りがたいものがあった。中には目を覆いたくなるような家庭も垣間見えた。
『子供のいる家族は大変だろうな…』
ベアーはスラムを見たことがなかったのでこの光景はかなり衝撃的だった。光と影があるとすれば、まさにここはミズーリにおける影の部分であろう。
ベアーは宿に戻ると食事を取った。相変わらずのメニューに文句も言いたくなったが、喰うに事欠く家を見た後ではそれでも充分な夕餉に思えた。
*
そんな時である、
「よお、元気?」
声をかけてきたのは楽団員の少年であった。今日は長髪を束ねていた。
「あっ、君」
「どうだい、職探しは?」
「いや、なんとも…ところで公演はいつからなの」
「ああ、明々後日の夜から」
「あれ、君は出ないの?」
「まだ、出れないんだよ」
「そうなんだ」
まだ舞台に立てるほどの技量はないのだろう、ベアーは深くつっこまないことにした。
「あの、君の名前は?」
「俺? 俺はラッツ、お前は」
「僕はベアー」
「僧侶のベアーか、そうだ、ベアー魔法使えんの?」
「いや……ほとんど…」
「なんちゃって僧侶ってこと?」
「まあ…」
ラッツは爆笑していた。少しムッとしたが『なんちゃって僧侶』であることは否めない。ベアーは状況を変えるのにラッツに質問することにした。
「ところで、楽団ってどんなことやってんの?」
「ああ、俺たちの場合はミュージカルってやつだな」
「何それ?」
「音楽だけじゃ喰えないから芝居を入れるんだ、そのほうが客が見やすいんだよ」
「そんなのあるんだ…」
「今、流行ってんだよ、お前見たことねえの?」
ベアーは頷いた。
「まあ、チケット持ってんだから見にこいよ」
「そうするよ」
このあとベアーはラッツにいろいろなことを聞いたが、面白かったのは他の町や、都のことそして他国のことだ。楽団として様々な土地を行きかっているラッツの話は具体的で、どこの店の飯が美味いとか、土産物屋は高いから買うと損をするとか、冬になると海がしけるので船旅は秋がいいとか、旅慣れていないベアーにとっては実に興味深かった。
「いつまでこの街にいるんだい?」
「そうだな、あと2週間は興行するだろうけど……その後はまた違うところだな」
「ベアーはいつ出発なんだ?」
「あと3日だね、明日と明後日で調べ物もおわるから…」
「そうか、一回くらい夜遊びしといたほうがいいぞ、明後日の夜連れて行ってやるよ」
そう言うとラッツは意味深な目を向けてから食堂を去っていった。
『夜遊びか……何するんだろ』
少し楽しみであったが、予算の都合のほうが気になった。
*
翌日、翌々日と公用語に関して調べ、単語帳を作り、知識として身についてないものを書き込んでいった。この一年はとにかく単語と熟語をたくさん覚えようとおもった。貿易商は浅く広く世界の知識を知ることが重要である。公用語でそれらが理解できなければ商売は厳しいだろう、とにかく言葉である。
さて、明日が出発となったわけだが、一つ気になることがあった。ロバのことである。一週間前の約束では明朝、ロバを返してくれることになっているが、果たしてどうなるのだろうか。
実の所、ベアーはロバが返ってこないならそれでもいいかと考えていた。確かに荷物を運ぶには便利だが、厩があって世話をしてくれる家においてくれるなら自分と一緒に旅をするよりも環境的には良いだろうし、子供に大切にされて飼われるならロバとしては悪くないだろう……ベアーはそんな風に考えていた。
12
夕方になり食堂に行くと既にラッツが席に座っていた。
「軽めに飯は食っといたほうがいい、酒を飲んだときに二日酔いになりにくいんだ」
ベアーはまともに酒を飲んだことがないのでラッツの言うとおりにした。人生初めての夜遊びである。祭りや村の行事で夜出歩くのとは違いドキドキした。
ラッツが最初に連れて行ってくれたのは酒場であった。年齢確認されるのかと思ったがそうでもなかった。ラッツは慣れた感じでつまみとビールを頼んだ。ベアーはそれを見て同じくビールを頼んだ。
ラッツは楽団の人間関係や他の町の事を話し出した。下端のラッツはこき使われているようで鬱憤がたまっているのだろう、2杯目のビールに手をつけた頃には毒を吐いていた。
「ベアー、次、行こう。さあ」
その後、ラッツは怪しげな一角へとベアーを誘った。妙な篝火が店の前にたかれている。
「この店はいいぞ、料金次第でなんでもOK、ベアー、今日、お前はここで大人になれ」
そう言うとラッツは怪しげな一角に足を踏み入れた。
*
「お兄さん、どう、よってかない」
露出度の高い女が声をかけてきた。暗がりで顔はよくわからなかったが明らかにソレとわかる店である。ベアーは『マズイ』と思ったがラッツに勢いよく肩を押され、結局その怪しげな店に入る事となった。
店に入ると香水の匂いがしてきた、ラッツは女の持ってきた名簿のようなものに目を通している。
「これで好みの女を選ぶんだ」
そう言うと細かに描かれた似顔絵つきの名簿見せた。
「ねぇさん、コイツ初めてだから、いいヤツつけてね」
ラッツはやらしい目をベアーにむけた。ベアーが童貞であることをわかっているのであろう……
「お客さん、初めてなら、この子なんかどうです、慣れてるし、技術もありますよ」
ベアーに声をかけたのは店の女主人だ。百戦錬磨といった雰囲気を醸し出していて、でっぷりとして迫力がある。こうした娼婦の世界を知らないベアーをどう扱えばいいか見抜いていた。
「あまり慣れてないほうがいいかしら」
女主人はそう言うと、名簿にない娘を呼んだ。黒いベールで顔を隠しワンピースのような衣装をつけていた。
ベアーの酔いはすっかり醒めている、予定外の夜遊びに困った表情を浮かべた。
「あの、僕、こんなつもりじゃ…」
「大丈夫、いい勉強になるわ」
女主人は優しく、甘く、怪しげな声で話しかけた。
ベアーはまさか夜遊びがこうした意味を含んでいるとは思わなかった。顔が紅潮し期待と不安で一杯になった。
『初めてだし、ほんとにいいのかな、こんなこと…俺…まだ僧侶なのに…』
ベアーはおもわず下を向いた。
女主人はドギマギしているベアーをやさしく包み込むようにささやくと黒いベールの女に個室に連れて行くように目配せした。
*
黒いベールの女は慣れていないだろうか、ぎこちない足取りでベアーの手を取った。ベアーは緊張してベール姿の女をまともに見れなかった。
個室に入ると薄暗い感じでポツポツと照明がおかれていた。オレンジ色の光がゆらゆらしている。独特の香が焚かれ、あきらかにソレという雰囲気になっていた。
黒いベールの女はベアーに話しかけた。
「私、初めてなんです、お客さんを取るの…」
「僕も…女性が…初めてなんですけど…」
二人の間に沈黙がながれた。
慣れてない者同士というのは微妙なものでお互いを緊張感が支配し次の行動になかなかうつれなかった。
「私、抱いてくれないと、困るんです。お金が必要なんです、だから、あまり気にしないで」
女はそう言うとベールを取って衣装を脱いだ。ベアーはずっと下を向いていたが衣装の落ちる音ははっきり聞こえた。
ベアーは勇気を出しゆっくりと顔を上げた。白くて均整の取れた足、そして絹の下着を着けた下半身。視線を上げていくと引き締まったウエストと形のよい乳房が見えた。はじめてみる女性の裸身にベアーは興奮を抑えるのに荒い息を吐いていた。
そして最後に女の顔を見た。
この時のことをベアーは一生忘れないだろう。なぜなら神様のいたずらが本当にあると感じたからだ。
「バイロン!」
目の前に美しい裸身を晒したのは祭りの夜に馬車に乗せられ、村を去ったかつてのクラスメイトであった。