第二十八話
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バイロンは指定された日に暇をもらうと再びマーベリックに報告するべく街に出た。以前と同じく街の中心にある時計台に向かおうとすると、その途中に国立歌劇団の劇場があることに気付いた。
『これが、歌劇団の……』
バイロンの前に現れたのは劇場というよりは高級貴族の館といった方がいい建造物であった。高級感のあふれる外観と重厚さは今までバイロンが経験した劇場とは雲泥の差があった。
『ここで、ライラは稽古しているんだ……』
バイロンは裏口の方に向かって歩いていく研修生に目を向けた。まだ粗削りで洗練された感じはないが、やはりダリス全土から集められた逸材ばかりで一目見ただけで普通でないのは看破できた。
『この子達とライラはやりあうのか……』
バイロンはライラの置かれた世界が途方もなく厳しいことに気付いた。
『ポルカで評価されても……ここじゃ……』
短い間であったが女優として板を踏んだバイロンには目の前を歩く研修生たちの潜在能力が透けて見えた。
『世の中って、やっぱり広いんだ……』
バイロンはそんなことを思いながら劇場を眺めた。
『頑張ってね……ライラ……」
かつての友人に思いを馳せたが時間が正午に近づいたためバイロンは再び待ち合わせ場所に向かった。
*
以前と同じ場所に行くと烏帽子をかぶったマーベリックがいた。その手には紙袋を持っている。
「前と同じだ、食べながら歩いて話すんだ。」
マーベリックはそう言うと人通りが多い場所を選んでバイロンと肩を並べた。バイロンは袋の中から焼菓子を取り出すと、口に放り込みながら一週間の出来事を話した。
「そうか、3公爵の人間がメイドの派閥に揺さぶりをかけだしたか……」
マーベリックは想定通りだという顔を見せた。
「バイロン、懐柔されそうなメイドの名前を次回までに調べてくれ……無理をする必要はないができるだけ正確な情報が欲しい。」
マーベリックはそう言うとバイロンを見た。いつもなら爬虫類のような目を向けるがこのときはそうではなかった。そこには執事というよりダリスの行く末を案じる国士のような炎を瞳の中に灯していた。
『この人、一体、何なんだろ……』
バイロンはマーベリックの中に二面性があるのではないかと感じた。
「来週は時刻を変える。14時だ」
マーベリックは再びヘビのような目に戻ると人ごみの中に消えていった。
『あいつは……やっぱり普通じゃないな……」
バイロンはそんな思いを胸に帰路についた。
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バイロンが『待機所』に戻ると何やらざわついていた、いつもと違う雰囲気にバイロンは目を細めた。
『どうしたんだろう……』
バイロンがリンジーに状況を確認しようとするとリンジーは唇に指をあてた。どうやら『静かにしろ!』ということらしい。
バイロンが小さく頷くと食堂の方でベルが鳴らされた。
*
ベルを鳴らしたのはマイラであった。その顔はいつものごとくポーカーフェイスだったがその口から出た言葉は驚くべきものだった。
「先ほど、メイドの1人が階段から落ちて手を骨折いたしました。」
食堂に集まった連中はマイラに注目した。
「故意か不注意の事故かははっきりしません」
マイラがそう言うとみな沈黙した。謀略めいた響きを感じたからである。
「残念ながら、今は宮中で催事が行われています。我々はそれを滞りなく行う必要があります。事故か故意かの調査をする暇はありません」
マイラは淡々と言った。
「各自、自分の仕事にプライドを持って業務に打ち込んでください。」
マイラはわざと犯人を捜さない選択肢を選んだ。
「では、散開!」
メイドや庭師たちが落ち着かない様子でそれぞれの仕事にむかうとマイラはバイロンを呼びつけた。
「悪いんだけど、あなたには別の仕事を頼むことになるわ……行事が終わるまでの間」
そう言うとマイラは驚くべきことを口にした。
「一ノ妃様の雑用を手伝ってもらいます。」
「えっ?」
「少々、早いけど、やむを得ないわ……」
そう言うとマイラは『当番』の二人を呼んだ。
「バイロンを小間使いとして使いなさい。粗相があるでしょうが、止むをえません」
当番の二人は頭を下げた。
こうしてバイロンはダリスの最高権力者である一ノ妃の『当番』(身の廻りの世話や雑用など)を補佐することとなった。あまりの驚きにバイロンは閉口するほかなかった。
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当番の二人はベテランのメイドで一人は40歳を超えたサラ、もう一人は20代後半のアリーという女性であった。ともにピリピリした空気でバイロンを見る目は厳しかった。
「一ノ妃様はダリスを治める核となるお方です。何があってもお守りせねばならない存在になります。」
アリーはそう言うとエプロンの下に忍ばせていたものを見せた。銀光を煌めかせたそれを見たバイロンは沈黙した。
「不審な動きがあれば、これを用いることになります。躊躇もありませんし容赦もありません。ここではっきり言っておきます。」
バイロンはアリーの眼を見て脅しでないと確信した。
「では、これから一ノ妃様の部屋に向かいます。あなたは我々の指示に従うように」
サラに言われたバイロンはコクリと頷いた。
『ちょー、怖えぇ、マジかよ……』
短剣を見せられたバイロンは内心、震え上がっていたがすでに逃げられる状況ではなかった。
*
バイロンたち3人が昇降機から降りると、一ノ妃の部屋前にいた近衛兵にサラがバイロンを紹介した。
「行事が終わるまでミーナの代わりを務めることになったバイロンです。」
サラがそう言うと近衛兵の兵士はバイロンを見た。バイロンはスカートの裾を持ってメイドの挨拶をした。
兵士が小さく『わかった』と頷くとサラは声をあげた。
「では、参りましょう」
サラはそう言うと観音開きになった絢爛豪華な扉をゆっくりと開けた。重厚な扉には花鳥風月を思わせるレリーフが彫りこまれていたがバイロンはそれに気づくだけの精神的な余裕はなかった。
『あれが、一ノ妃……』
バイロンの視野には豪奢なアームチェア(肘掛のあるイス)に座り、窓を眺める一ノ妃の姿が映った。齢は70を超えているだろう、深く刻まれたしわと感情のない眼は独特のもので、その表情は妃というよりは権力者であった。
『なんという……』
バイロンは一ノ妃のまとうオーラに気圧された。
*
一ノ妃はバイロンにちらりと目をやった。
「ミーナの代わりにしばらくの間、一ノ妃様のお世話を手伝うことになった新しいメイドでございます。」
サラはそう言うとバイロンに挨拶するように言った。
バイロンは余りの緊張感に金縛りのようになっていたが、何とかぎこちない挨拶を済ませた。
一ノ妃はそれを見ると再び窓に眼をやった。
「さあ、あなたは下がって」
サラに言われたバイロンは頭を下げると部屋を出た。
『うわ~、マジもんだ、本物のお妃様を間近で見られるなんて……』
廊下に出たバイロンは興奮して鼻息を荒くした。しがない平民の娘がダリスの核ともいうべき存在に仕えるとは誰も想像しないであろう。
……だがそれと同時に別の思いも生じた。
『大丈夫なのかな……私なんかで……』
不安を通り越し、すさまじい緊張感がバイロンをおそった。