第二十七話
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敗北の味は苦々しく、ベアーは後頭部をかち割られたような心境になっていた。倫理や道徳を説く立場の人間が手練手管を使ってトーマスを貶めた事実はゆるし難い暴挙であった。
『なにが、大司教だ、守銭奴じゃないか!!』
『それに、あのマリーとかいう女……絶対、怪しいぞ』
ベアーはマリーと大司教が裏で組んでいるとしか思えなかった。だが、審問ではそれを暴けず証拠不十分でなおざりにされた。
『クソ……』
『でも、今の俺の力じゃ……』
ベアーは悔しさをかみしめたが、自分の持つ力では大司教一派に及ばないことも痛感していた。
『……何もできないじゃないか……』
トーマスを助けられなかった悔恨と寺院に対する怒りがベアーの中で渦巻いた……だが仕事をなおざりにするわけにはいかない。ベアーは気持ちを切り替えることはできなかったが、前に進むことにした。
『今は……仕事をしよう…………』
ベアーはそう思うとウィルソンの指示通りにまだ行っていない牧場に向かうことにした。
『ちょっと遠いから、弁当を買っていくか』
ベアーはそう思うと、街中にある茶屋でお土産用のサンドイッチを購入しようと列に並んだ。
その時であった、突然、ハンチング帽をかぶった男に声をかけられた。
「久しぶりだな、こんなところで会うとは」
ベアーは男が誰かわからず目を細めた。
男はそれを察したのだろう、帽子をとった。
「あっ、あなたは……」
ベアーに声をかけたのはかつてベアーとロイドの窮地を助けてくれた炭焼き小屋の主人(アトマイザーをベアーに渡した精悍な初老の男)であった。
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「こんな所で、何をしているんだ?」
尋ねられたベアーは羊毛買い付けのため牧場に向かうところだと答えた。
「あのときはお世話になりました……ところで御主人はどうしてドリトスに?」
ベアーが尋ねると炭焼き小屋の主人はにこやかに言った。
「うまい物を探しに来た。ドリトスは乳製品が有名だからな」
ベアーはかつて非常に美味なサンドイッチを持たせてくれたことを思いだした。
「それなら、おいしいチーズを売る店を知ってます。」
「ほう」
主人は興味津々な表情を浮かべた。
「案内しますよ!!」
ベアーはかつて助けてくれたこともありバーリック牧場まで主人を連れて行くことにした。
*
二人は道すがら取り留めもない話をしたが、炭焼き小屋の主人の話は面白くベアーは聞きいることが多かった。特に地方の食べ物の話は面白くベアーは驚くほかなかった。
「じゃあ、アガタ豚はカツレツよりもポークジンジャー(生姜焼き)の方がいいんですか?」
「いや、そうじゃない、肉の切る厚さによるんだ。薄くスライスした時は衣をつけて揚げるよりも、さっと炒めたほうが美味いんだ」
ベアーは肉の厚さで調理方法をかえるということに驚いた。
「カツレツにするなら2cmほどの厚さがいいな、そして衣は薄めだ。アガタ豚は豚自体のうま味が強いからそれくらいで揚げてほしいところだな。」
「それ以上厚い肉はどうするんですか?」
「分厚い肉はローストがいいな。ローストするときはゆっくり蒸し焼きするようにせんといかん。そうじゃないとパサパサになる。この辺りのさじ加減は普通の料理人じゃできん。ただ火を通せばいいってもんじゃない。」
炭焼き小屋の主人が力説するとベアーは深く頷いた。
「まあ、弱火でコトコト煮込む方法もあるが、アガタ豚はやはりローストのほうがいいな、ハーブで臭みを抑えて岩塩を振りかける。これが一番だろう」
確信に満ちた表情で炭焼き小屋の主人が言うとバーリック牧場の看板が見えてきた。
「あそこです、あそこのチーズが美味いんです」
ベアーはそう言うと早速バーリック牧場の店舗に向かった。
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店舗に入るとルナと老婆の両方がいた。
「あら、いらっしゃい」
老婆に声をかけられたベアーは早速、炭焼き小屋の主人を紹介した。
「こちらの方がおいしいチーズを……」
ベアーがそう言った時である、老婆と主人との間に微妙な雰囲気が生まれた。それは食にたいするこだわりを持った二人が見せるプライドのぶつかり合いであった。にこやかな表情を見せているが互いを牽制する雰囲気が漂った。
ベアーとルナはその雰囲気を嗅ぎ取ると二人のやり取りに目をやった。
*
老婆はまず生チーズを試食に出した。
「どうだい?」
ドヤ顔でいう老婆に対し炭焼き小屋の主人は小声でつぶやいた。
「マズマズ」
老婆はその様子を見て目を細めると、今度は違うチーズを出した。
「これは?」
老婆が試すにように言うと乾燥チーズを出した。バーリック牧場で一番人気の品である。
炭焼き小屋の主人は香りを確認したあと口に放り込み、ゆっくり咀嚼した。
そして一言、
「なかなか」
主人は口にこそ出さないその目は『美味い』と知らしめていた。
老婆はニンマリとすると炭焼き小屋の主人に声をかけた。
「どうやら朴念仁じゃないみたいだね……どうだい、母屋でお茶でも?」
老婆に言われた主人は厳かに言った。
「いただこう」
その言い方は艱難辛苦を乗り越えてきた賢者のような響きがあった。
二人のやり取りを見ていたベアーとルナは年寄りのもつ知恵と老獪さを目の当たりにして何とも言えない思いをもった。
*
母屋でグリーンティーを飲みながらチーズ話に花を咲かせていると炭焼き小屋の主人が唐突にベアーにはなしかけた。
「なかなか、いい店だ。」
「はい」
ベアーがそう答えると炭焼き小屋の主人はベアーを見た。その眼には明らかにベアーの抱える問題を見通す眼力が宿っていた。
「話してみろ、なにかあるんだろ」
「えっ?」
「お前の様子を見ていれば、心中、何かがあることは想像に難くない。うまいチーズの店を教えてくれた礼だ」
問題があることを悟られていると思ったベアーは素直にトーマスの一件を話した。
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「そんなことがあったのかい……」
いつもポーカーフェイスで驚かない老婆が声を上げた。
「羊毛ギルドが横暴になったって話はちらほらあったけど……寺院とかかわりがあるとは」
ベアーが審問でのやり取りを話すと老婆は神妙な顔をした。
「使途不明金を隠すのに、突然、借用書が出てくるのはありえないね。なにかあるとしかおもえないねぇ。だけど……」
老婆の顔には『どうにもならない』という表情が浮かんでいた。
「僧侶の世界は貴族と一緒で特別だからね、一般の法律家が入り込む隙間がないんだよ……しかし、ルナの一件であんたの人間性を疑うやり方はゆるし難いね」
老婆が憤ってそう言った時である、ルナがシュンとして肩をすくめた。自分のせいで審問で敗れたと感じたのだろう。いつになくしおらしくなった。
「ルナが悪いわけじゃないよ、魔女の話を持ち出して帳簿の話を誤魔化したのは寺院の方だ。あんな僧侶と同業だと思うと……」
ベアーが言葉を詰まらせた時である、炭焼き小屋の主人が声を上げた。
「力を持つ寺院の権力者に正攻法は通用せん。お前の言うとおりギルドとの癒着があるならなおのことだ。」
言われたベアーは大きなため息をついた。
「だが、手がないわけではない。」
ベアーは炭焼き小屋の店主の顔を見た。
「正面が駄目なら搦め手から攻めればいい。」
「搦め手?」
「そうだ、倫理や道徳の規範となる人間が、かりに不道徳な行いをしたとすればどうなると思う。」
ベアーは『マズイ』という表情を浮かべた。
「そこをつけばいい、羊毛ギルドが悪徳ならば、そこに金を貸している寺院も倫理的に問題になるはずだ」
ベアーは『なるほど』という顔をした。
「僧侶にとって『倫理』の問題は一番つかれたくない点のはずだ。ギルドのアラを探せ。そしてそれを公にすれば寺院側もただではすまん。」
「なるほどね、法的処理ではなく、あくまで道徳面をついて道義的責任を追及する方法ってことかい。僧侶をヤルには一番、賢いやり方だ」
老婆は炭焼き小屋の主人の案に舌を巻いた。
「それから、もう一つ、トーマスという元司教の名誉を回復したいなら客観的な証拠を見つける必要がある。」
ベアーは再び主人の顔を見た。
「信者や一般客のお布施を使途不明金として扱うぐらいなら、他にも怪しい点はあるだろう。証拠がでれば、大司教一派にとっても申し開きができん。不正が明るみになれば、大司教の行ったことは不問にされるはずだ。」
そう言われるや否やべアーのなかでひらめきが生じた。
『ひょっとしたら……いけるかもしれない!!』
ベアーの体に熱い血潮がめぐり始めた。
『ロイドさんの工作がうまくいけば……』
ベアーは炭焼き小屋の主人に頭を下げると母屋を元気よく飛び出した。
*
ベアーが勢いよくドアを開けて出て行ったあと、老婆は炭焼き小屋の主人に話しかけた。
「大丈夫かね、あの子……」
「善意は暴走すると歯止めがきかんからな……」
「頭の悪い子じゃないけど……大司教相手に立ち回れるとは……」
「悪意はコントロールできるが、良かれと思って行ったことが裏目に出ることもある。吉と出るか凶と出るかは何とも言えんところだな」
「まだ、若いからね……」
老婆は心配そうな顔を見せた。
「だが何事も経験だ。良かれ悪しかれ、あの少年にとっては人生の糧になる。」
炭焼き小屋の主人がそう言うと老婆は同意した。
「そうだね、見守ってやろう」
炭焼き小屋の主人は頷くとチーズを口に運び、グリーンティーの入ったカップを手に取った。
「ほほう、これは面白い」
なんと手にしたカップの中では茶柱が立っていた。