第一話
1
祖父の話はうんざりだった。毎日、同じ言葉の繰り返しである。
『勇者と共に戦った僧侶の末裔として恥ずべき行為は慎め』
『ご先祖の誉れある行為を誇りに思え』
『魔道書を瞬時に諳んじられなければ、いざとなったときに役に立たない』
こうした説教が365日つづく。早朝5時にたたき起こされ、今は使われなくなった礼拝堂で何の役にも立たない魔法書を読まされる。
タイトルは『魔道学の初級』目次には6歳から10歳までと記されている。来月の誕生日でベアーは15歳。10歳でマスターしなければならない内容の半分程度しかまだ身につけていなかった。
「まさか、昨日、覚えた一説、忘れたわけではあるまいな」
祖父は詰問口調でいつものように問いただすとベアーは微妙な顔つきで目をそらした。
「この、たわけが! 一体、何度同じことを繰り返すつもりだ」
「そんなこと言ったって、もう魔法なんて役に立たないじゃないか」
実の所、魔大戦から300年が経ち、平和が恒久的なものになると人々の暮らしは様変わりした。それまでの魔法を中心とした文化は廃れてしまったのである。これは魔法が能力のある間にしか使えないという点と、その習熟が困難を極めるという点に起因している。学べば身につく学問に比べると魔法は学習者のセンスが問われる為、やる気があっても身につくとは限らなかったのだ……
その結果、人々の関心は学問へと移ってしまった。
「学校の先生も魔法より医学や本草学を学んだほうが将来のためになるって」
「馬鹿モン!そんなもん関係ない、我が一家は誉れあるライドルの一族だ、300年前、ご先祖の力が無ければ魔人は倒せなかったんだぞ、平穏無事な現在があるのはわしらのご先祖様の…」
最後まで言葉を言いかけたところで祖父の入れ歯が外れた。アフアフ言いながら急いで歯を嵌めるがうまくはまらない。
「そんなの、300年前の話でしょ、今はそういう時代じゃないよ、モンスターだってもういないんだし、もう時代遅れなんだよ魔法なんて!!」
実の所、祖父は魔法を学ぶことに意味が無いことをわかっていた、経済的にも将来を支える技法として役立たないことも……だがライドル家のプライドはそれを許さない。
入れ歯を嵌め終えた祖父は言葉を続けた。
「いいか、初級魔法が使えないということは一族としては恥ずべきことだ、とにかくすべての魔法が暗唱できるようになるまで、しっかりおぼえなさい!!」
祖父はそう言うと礼拝堂から出ていった。
ベアーはその後ろ姿を見て、わざと聞こえるような声を上げた。
「ああ、たまんねぇなあ、もう僧侶なんて流行んないよ!」
実際その通りだった。ここ40年でモンスター討伐のほとんどが終わり、人間が襲われる確率は格段に低くなった。それに応じてけが人の数も減少、回復魔法を必要とすることも減った。
下級モンスターはめったに人を襲わないため、人が死ぬという事態が発生することもほぼ無くなった。僧侶にとって収入であるお布施は回復魔法と蘇生魔法で成り立っていたのでこの事態は経済的に大きな痛手となっていた……
さらに追い打ちをかけるように枢密院から勅諚が宣布される、『蘇生魔法絶対禁止の詔』である。300年前の魔大戦の時は多くの死者が出たため蘇生魔法の使用を幅広く認めていたが、現在のように自然死がそのほとんどを占めるようになると蘇生魔法の使用は倫理的に適わなくなっていた。
元来、僧侶の世界ではみだりに蘇生魔法を使うべきではないという考えがある。自然の摂理に反する魔法の使用は人の道徳に背くという哲学だ。都の枢密院はこれを鑑み全面的に蘇生魔法の使用を禁止したのである。
だがこれは僧侶業界に致命的な打撃を与えた。医学や本草学の発展で、ただでさえ仕事が減少しているのに蘇生魔法まで禁止されてしまえば生きていく糧を失うことになる……
実際『蘇生魔法絶対禁止の詔』が発布されて30年を経た現在、僧侶という職業は風前の灯ともいうべき状態になっていた。各地にあった僧侶の養成学校はそのほとんどが廃校となり魔道書の管理さえおぼつかなくなっていたのだ。
「絶対、辞めてやる、僧侶なんて絶対、辞めてやる!」
ベアーは心に堅く誓った。貧しい生活も嫌だが将来的に見込みの無い職業に就いて飼い殺しにされるのは御免である。
だが、その一方でベアーには魔道書を読まずにはいられない理由もあった。
『……飯抜きはきついからな……』
祖父は兵糧攻めという戦略でベアーに圧力をかけていた。食べ盛りの少年にとってはいかんともしがたい攻撃である。
『しょうがない』
ベアーはそう思うと2、3時間後には忘れている魔道書の朗読を始めることにした。
*
礼拝堂の朝は空気が冷たく透き通っていて集中するには適している。ベアーは分厚い魔道書を開いて文字を追った。200年前の僧侶たちはいとも簡単に読み進めていたらしいが、魔法が使われなくなった昨今、読めるだけでも珍しい。
「何で、こんなに難しいんだ……」
いつもながらにその難解な言い回しや抽象的でとらえどころの無い文脈はいらいらさせる。これらの構造を理解し頭の中で整理できないと魔法の発動は無理なのだ。
文句を言いながらなんとか今日の単元を終えると、すでに時計は8時を回っている。
「やべえ、遅刻だ」
ベアーは礼拝堂を出ると母屋に向かった。
*
祖父はサンドイッチを弁当箱に詰めていた。卵とキュウリを挟んだもので、マヨネーズがパンに塗られている。卵は薄く焼いた卵を何層か重ねたもので厚みがある。パンも祖父が焼いたものだ。素朴な味だが余計な風味が無くマヨネーズとの相性がよい。シンプルなサンドイッチだがベアーの大好物だ。
「喰ってる暇は無いんだろ、遅れないようにしろ」
「わかってるよ」
ベアーは急いで着替え、ダイニングに置かれた弁当箱を鞄に入れた。
「いってきます」
母屋の戸を開けると勢いよく飛び出した。
2
教室に入ると幼馴染のルークが声をかけてきた。10年来の付き合いで卒業後は実家のパン屋を継ぐことが決まっている。
「どうだ、進路決まったのか?」
クラスのほとんどの生徒が進学するか就職するか決めているのに対してベアーは未だ白紙であった。
「お前、僧侶を継ぐんだろ?」
「いや……商人の見習いに入ろうか迷ってるんだ」
「僧侶って転職禁止されてんだろ?」
ルークの質問にベアーはバツの悪い顔をした。この時代、僧侶は転職が禁止されていた。正確には魔法を扱う職業すべての者が転職禁止であった。魔法は世襲というのが魔大戦の前から決まっている慣習であり、勝手に職業を選択ができないのである。
「上級学校行けばいいんじゃないの?」
「ヤダよ、学校なんて」
ベアーにも変なプライドがあって僧侶の職を奪った医学や本草学を学ぶのはなんとなく気に障った。
「俺は親の店を継ぐから、パンくらいは食わしてやってもいいぞ」
「いいよ、もう、前向けって!」
二人がそんな話をしていると教室に教師が入ってきた、授業の始まりである。
*
ベアーにとって学校の授業は退屈ではなかった。別に得意な科目があるというわけではないが割と成績もよく教師には進学を勧められている。
「旅……したいな…」
「何、独り言を言っているんですか、ベアリスク・ライドル」
フルネームを呼ばれてドキッとした。
「すいません」
「宿題はやってきてるんでしょうね?」
「いえ、その…」
33歳の未婚の教師、マギー ヘンプトンの眼鏡がキラリと光った。マギーが眼鏡をかけている日はたいてい機嫌が悪い、間違いなく鉄槌が下る。マギーはわざわざベアーの席までやってくると眼鏡を外してベアーの目を見た。
「放課後、残りなさい」
予感的中、ベアーはなんともいえない落胆の表情を浮かべた。前の席に座っているルークは忍び笑いをこらえていた。
*
このまま授業は進み昼休みとなった。ベアーがサンドイッチを取り出して頬張るとルークが嫌らしい眼をして話しかけてきた。
「マギー先生とマンツーマン、どんな放課後になるのやら」
「うるせーなあ」
「めくるめく官能の放課後、生徒と教師の禁断の営み、いいよねえ、マギー先生、女盛りだろ、なんか…あるんじゃないの、イイコトが」
ルークは言い終わらぬうちにベアーのサンドイッチに手を伸ばした。ベアーはぴしゃりと手を叩くと何事も無かったかのように食事を続けた。
「お前、すごい反射神経だな」
「お前の手は読めてる。何年、同じクラスにいると思ってんだ。」
ベアーの学校は小さな村にある。生徒の数は全校で200人程度で、みな顔見知りといったところだ。今年の卒業予定者は23人。ベアー以外は進路が決まっている。
「あんたたち、何、下らない話してんの」
話しかけてきたのは学年長のリーザだ。上級学校に進学が決まっている。村一番の優等生だ。
「うるせぇな、あっち行けよ」
「いいじゃない、話の中身くらい教えなさいよ」
「マジでウザイ、あっち行けよ、ブス」
ルークの物言いが気に食わなかったのだろう、リーザの目が三白眼に変わった。この目になったときのリーザは舌鋒鋭く相手の傷口をえぐり、そこに焼き鏝をあてるほどの激しさを見せる。
「あんた、卒業テストのとき私の答案見たでしょ」
「えっ…」
ルークは目が点になっていた。何か不味いことがバレるといつもこの状態になる。
「誰のおかげで卒業できると思ってんの!!」
最終学年になると卒業テストがあり、これにパスできないと留年である。ここ何年かは留年する生徒はいなかったが、ルークは久しぶりの留年候補生だった。
リーザはさらに詰め寄った。国語能力の低いルークにとっては不利だった。
「留年、大変でしょうね、下の学年の子たちに『先輩どうして卒業してないんですか』なんて聞かれるわけでしょ」
嫌味たっぷりにリーザは続けた。
「あんた、一つ下の学年の子、フットボールでしごいてたでしょ、『腕立て100回』とか、『スクワット300回』なんて言って。同学年になったらどうなるのかしら、『おい、ルーク、ボールとってこいよ』『一つ上のわりにはへぼいよな』なんて言われるんでしょうね」
ルークの目は泳いでいた。ルークはフットボール部に在籍していたが万年ベンチであった。後輩に大きな顔はしていたが実力のほどは言うまでもない。仮に留年したとするとレギュラーになれる望みは薄い、というか、まずない。リーザの言ったとおり後輩のパシリになる確率が高い。
「リーザ、見せたほうもカンニングになるんじゃなかったっけ?」
切り返したのはベアーである、アワアワしているルークを見かねての助け舟である。
リーザはベアーに一瞥をくれた。
「うまいこと言うじゃない、でもあたしがルークに見せたっていう証拠は無いでしょ」
「もちろん無いさ、だけどルークがカンニングした証拠も無いんだろ」
一種の水掛け論だが引き分けといったところだろうか、見たほうも見せたほうも罰せられるわけだから、喧嘩両成敗で両者留年である。リーザは鼻を鳴らしてその場を去った。
「助かった、さすが僧侶、口のうまさは説法するだけあるな。」
「説法だけじゃ喰えないの。それより、リーザがお前になんで答案見せたのかわかってんの?」
「あれは、たまたま見えただけだし、俺の視力が冴えてたからだろ、視力は1.5だぞ」
ルークはちびっ子のような顔をして答えた。
「リーザが文句言ってくるのも当然だな」
「それどういう意味だよ?」
「自分で考えろ」
ベアーはあきらめたように言うと放課後のための用意をし始めた。
*
ルークと分かれた後、ベアーは職員室に向かった。職員室には10人の教職員と校長がいる。小さな学校のため教頭はおらず、校長室も無い。ベアーは一礼して職員室に入るとマギーのところに向かった。
「教室に戻ったら、これをやっときなさい」
「えっ、これなんですか?」
「おじい様から預かった物です」
マギーはそう言うと羊皮紙のカバーがかかった本を取り出した。表紙には『僧侶の心得』と書いてある。ベアーは一瞬にして血の気が引いた。
「おじいさまは、あなたの将来を心配しています。卒業まで3週間。そろそろ進路を決めなさい。」
「先生、俺、僧侶になるの嫌なんですけど…」
「そんなこと、顔見ればすぐわかりますよ」
「えっ、わかってたんですか?」
「当たり前でしょ、あんたたちのクラスを3年間持ってんのよ、わかんないはず無いでしょ」
マギーはあきれた表情を見せた。
「あなたの家は国から遺跡登録されてるから、観光でやっていけるんでしょ?」
「国からの費用は施設管理費でほとんど使われて、残らないんです。」
確かに国からの補助金で施設管理費をまかなっているが設備費でほとんどを費やし給料分はすずめの涙である。家で飼っている鶏がいなかったらたんぱく質にも事欠くだろう。
贅沢はできないし節約しなければならない。死ぬことはないが祖父の後を継げば間違いなく貧しい生活が保障される。ベアーにとっての最悪の選択肢である。
「そう、じゃあ、僧侶を辞めてどうするの」
「それはまだ…」
「厄介ね……やっぱり上級学校のほうがいいんじゃないの?」
「それは嫌です!」
きっぱりベアーは言った。
ベアーは上級学校で特に学びたいものもないし定職につく気もない。決まっているのは僧侶を辞めることである。
マギーはため息をついた。
「まあ、いいわ、多少ほかの事を経験したりするのも良い勉強でしょ」
そう言うとマギーは渡した僧侶心得を読むように命じた。
「えっ、勉強するんですか?」
「そうよ、あなたが上級学校に行くようならこの授業は無し。だけどそうじゃないなら僧侶の勉強を続ける。おじい様と約束したの」
「そんな、勝手な約束しないで下さいよ」
「しょうがないでしょ、進路が決まってないんだから」
ベアーは何ともいえない顔をしたがそれを見たマギーはニヤリとした。祖父と結託し強制的に進路を決めさせようというマギーの方針がその表情からうかがえた。
「私、魔法、興味あるのよ、やってみましょ、さあ」
こうしてマギーとベアーの魔導書精読が始まることとなった。
*
マギーは本を開くと冒頭部分を読み始めた。ベアーはマギーが魔導書を詠めると思っていなかったが、それとは裏腹にマギーはどんどん詠み進めていった。
「先生、詠めるんですか?」
「多少はね、死んだおばあちゃんが宮廷魔術師だったのよ、小さいころに教えてもらったの」
「そうだったんですか」
マギーは教師という立場上ベアーよりできなければいけないと思い、一方ベアーのほうは毎日のように魔道書を読まされている手前、自分のほうができるという自負があった。
二人の間に妙な火花が散り始めた。
「どっちが、先にこの部分を理解できるか競争しましょう」
「いいですよ!」
2ページ目の3段落までどちらが速くそして深く理解できるか1時間程度の勝負がはじまった。
*
一般的な本を読むのとは違い魔道書の場合は『読む』というよりは『詠む』という作業になる。音楽の楽譜を読むといえば近いのかもしれない。だがこの『詠む』という作業は詠み手の適性が強く出るため、一般人が読めることはまずない。
ベアーがマギーを見ると悪戦苦闘しているのがわかった。
『このままなら、俺の勝ちだな!!』
ベアーがそう思った時である、マギーが着ていたドローナ(職員着)を脱いだ。午後の西日が教室に射し、気温が上がったためである。ベアーはちらりとマギーに目をやった。
マギーは麻でできたノースリーブのシャツを着ていた。ボディーラインを強調するタイプでうっすらと下着のラインも見える。ベアーの位置からだと脇の部分が丸見えだった。
『あれ、こんなに…胸…でかかったっけ?』
心の中の自問自答はエスカレートしていく。羽織っていったストールのような職員着は上半身をすっぽり隠すためマギーの体型に関しては今まで想像がつかなかった。
『もう少し確認しよう』
ベアーは横目でチラチラとマギーのほうを見出した。
そして数度のチラ見の結果、『大きい』という結論に至った。昼休みのルークの冷やかしがまさか現実になろうとは……
一度、気になりだすと魔道書どころではなくなる。いろんな意味で多感な14歳である、当然といえば当然だ。魔道書を読もうと集中するが気が散る。まさか巨乳がこれだけ精神に大きな影響を及ぼすとは……
さらに事態を悪化させる事態が発生する。それは窓から入ってきたそよ風である。マギーのほうが窓に近いため風に乗ったマギーの体臭がベアーのほうに流れてくるのである。ある意味これは巨乳以上の力があった。熟れかけた女の放つ体臭はフェロモンを含み14歳の男子の脳を破壊しようとしていた。
『ああ、何なんだ、この…匂い…』
視角からは巨乳、鼻からはフェロモン、ベアーは平静を保とうと必死だったが如何せん厳しいものがあった。
『たまらん…』
集中するどころか頭がポワポワしてきた。
そんな時である、
「はい、おわり」
元気の良い声がベアーの耳に入った。
「私の勝ちのようね、ベアー」
ベアーが巨乳に気を取られている間にマギーは着実に成果を上げていたのだ。
「……負けです……僕の……』
敗北宣言がベアーの口から放たれた。