ある日のガヴのお話
特に会話が古書調なので苦手な方はダメかもしれない。長いかもしれない。よく分からないかもしれない。僕は楽しかったです。
少年は頭を捻っていた。なんとも使い道がないのを拾ったものである。ひとつはじっこを左の手で持ったまま右の手を輪っかにしてくぐらせてみたが、やはりただの布切れに違いなく、しゅるしゅると音を立てたのみで、じきにすぽんと抜け落ちてしまった。彼はつい先程、サン・タントアーヌ街でそれを見つけた。ふつう大人の男が首に巻き付け、結んで使うものだったが、ある古い家の壁から突き出した鋭利な鉄の杭に引っ掛かり、ひらひらとはためいていた。今日は北風の唸る、まだ寒さの厳しい春の日だった。初め彼は誰かが故意に作った目印だと思い、こいつはまた珍しい、何の看板だろうと近づいたが、途端に引っ掛かっていたところがほつれ、ぴゅうと風に連れ去られてしまった。ぽつんと裸で残された杭を見て、なあんだうっかりの落とし物かと合点のいった彼は、哀れな小さい者たちが引っ掛からないよう足で蹴ってそれを曲げ、布切れのあとを追いかけたのである。
苦もなく追い付き、ぼろの看板を手にした彼だったが、早々にそれを持て余していた。ぐるぐると腕に巻いてみたり、頭を縛ってみたり、口を覆ってみたり、腰に巻いたりしてみたが、幅の狭く使い古されたそれは到底遊び相手にならなかった。それどころか寒さを防ぐものにもならず、道の隅っこのほうでぶるぶると震える子供たちにくれてやるには薄っぺらく、使い勝手の悪い代物だった。かといってそこらにほっぽりだすのも惜しいような気がして、結局それを首にかけたまま昼飯を探しに行くことにした。
街で会う知り合いたち、つまり親しげに声をかけてくる青年や目があった途端にしかめっ面をみせる老人をひっくるめて、彼をよく知る人々は皆、その首に垂れているものを指差して「小僧、そりゃなんだ!」と言った。ある者はげらげらと笑い、ある者はそれをよく見るため取り上げようとした。どれも彼にとって特別面白いものではなかったが、自慢げな顔で「こいつは風の向きを教えてくれる便利な目印だ、ちょいと糸が飛び出ているが、働き者の証にちげえねえ」と返し、笑いを誘っていた。また、「おもしれえ、汚ねえガキがぼろきれ拾っていっちょまえを気取ってやがる!」と叫ぶ自分の親父にも会ったが、息子であることには気付かないらしかった。彼は構わず気難しい顔をして、「だんな、おめえの髭よか、俺のぼろきれがよっぽど上等だぜ」と丁寧に述べ、縮れた髭をむしってやろうと手を伸ばしたが、いくらか背が足りなかった。やむなく彼は短気に吠えるその男をかわし、ついでにとんがった靴のさきを踏んづけ、そのまま意気揚々と走り去り、痛ましい叫びを背に「とんだ馬鹿親父だ!」と笑った。
「なんなんだあのガキは!ろくな教育を受けてねえ!親に会ったらとことん説教してやらあな!」
彼は空っぽの腹を抱えたままサン・ミシェル広場まで来ていた。そこには彼にとってちょっと特別なカフェがあったが、そこへ入る前に辺りをぐるぐるとうろついてまわり、食べられるものを探していた。今日は風が強いので、首にかけているだけの布はすぐ吹っ飛ばされそうになり、困った彼は少し考えるとそれを首のまわりに一周させるように巻いた。余った両端を肩の後ろへ流し、こうすりゃ邪魔にもならず洒落ていると得意に思ったが、いたずら好きな彼の子分たちがにやにやと背後へまわり、いたずらにごく強い力で布の端を引っ張るので、危うく首が絞まるかと思われた。彼はやっとの思いでミューザン珈琲店へ入り込んだが、その表情は実に明るく、いかにも楽しげで、満足しているようだった。
「さっきの大人は皆つまらない顔でつまらない話をして、そんで詰まった振りだ。奴ら、人から借りたものや真似っこで服をこさえて、他人とおんなじところを歩きたがるが、俺に言わせりゃ、そんなものは間違いだね。子供はどこを歩いたってまったく平気な顔だ!いや、俺もいつかは大人になるのか知らんが、構わねえ。俺は毎日パンを探して町中歩きまわってるだろう。酒に溺れてセーヌ川にぷかぷか浮かぶんじゃあ何にも詰まらない、ただの下手な小舟だ。それならも少し腹の足しになることの方がいいに決まってら」
「やあ、ガヴローシュか。」
カフェの奥室へ独り言を呟きながら入ってきた少年へ、初めに声をかけたのはフイイだった。深い洞察力と広い心を持つ貧しい青年は彼に、自分のよく知る国々について論じる時と変わらない、極めて真面目な顔で「君はいいものを持っているね、見たところ僕のより様になっている、羨ましいものだ」と言った。少年は少しの間口を開けてちょっと驚いているらしかったが、すぐに大きな声で笑い出した。そして、「あんたはなかなかだ、面白いや」と言った。
少年はしばらく若い男たちの論と論の間をすり抜け、ひとつの弁論に対する賛辞と異議の隙間を縫ってちょこまかと動いていたが、やがて一ヵ所に落ち着いた。そのテーブルの向かいには、この部屋で唯一の酔っぱらいが座っていたので、彼はすました顔で「やれやれ、酒樽がすっかり出来上がっちまってる」とぼやいた。男は半分瞼が閉じかかり、今にも眠りこけて翌朝まで意識を飛ばさんとしていたが、ひときわ若いその声ではたと目を覚ました。
「なんだ、ガヴローシュか、お前も酒を飲むといい」
「ばか言え、俺は酔いに来たんじゃあないぜ。あんたらをからかいにきたのさ」
「どんな風に」
「どんな風にだって?そうだな」
そこまで言って彼はごほんごほんと二度咳払いをした。そして、彼らのリーダーである美しい男の、ごく機嫌の悪い時の声色を真似て、叫んだ。
「グランテール、酒を置け!」
「なるほど面白い!」
「君たち!」
三つめはまさに本物だった。酒好きな彼の狂信者はそれでも声をかけられたことが嬉しかったらしく、へらりと微笑んでうやうやしく謝り、それを見た少年は心底可笑しそうにけらけら笑った。
「ところでお前さん、どうやらその首もとを見ると、巻き方を間違えているらしい」
「なあにこれで合ってるんだ」
「嘘を言え、俺が立派に着けてやろう」
「おい、こら、よせ!」
飲んだくれは身を乗り出して、少年が逃げる前にと手早くそれを巻きつけ始めた。一度首から外した後、ぐるりと首の後ろに回すときに、抵抗の細い腕が邪魔をしたが、構わず結び目を作ってしまった。その頃には彼も諦めて大人しく巻かれていたが、ほらよと声をかけられるなりぱっと顎を引き、自分の顔の真下にある交差したリボンを確認すると、またすぐに顔を上げた。それは一見むすっと拗ねた表情だったが、気のいい大文字のRにはまた違って見えたらしい。
「どうだい?男っぷりが上がったぜ」
「おい、このぴろっとしたのはどうするんだよ」
「ああ、そいつの好きなようにぴろぴろさせておけ」
「面倒なやつ!」
しかし少年は暫くそれを眺めたり、たまに形を整えたりして、唐突に顔を上げては「こんなびろびろの何が洒落ているのか俺には全く分からねえ」というようなことも言っていたが、その言葉に目の前の男がもっともらしい顔でふむふむと頷くのを見て、満足げにまた視線を落とした。
「お前は一人前だ、もう俺たちの仲間だな」
グランテールは思わずそう呟いたあと、下を向いているので表情は伺えないが、ほんのわずかに少年の肩が動いたのを見逃さなかった。彼は不意に自分の右手が動くのを感じた。本当に自然な流れでその手は少年の古ぼけた帽子の方へ向かったが、ぱしんとはたかれてしまった。
「ふん、そんなのはお断りだ」
その時彼は初めて、さっき自分が少年の頭を撫でようとしていたことに気づいて呆気にとられた。全く無意識の内だったのである。
「うん、でも、思っていたより悪かあない。礼を言うぜ、大文字のR」
「おい、そういうときはな、ガヴローシュ。ありがとうと言うんだ」
「馬鹿いってらあ、まあせいぜいセーヌ川に浮かばないようにすればいいや、この酔っ払い!」
少年と青年はそれぞれ愉快そうに短く笑った。ガヴローシュは椅子から立ち上がり、勢いよくフイイの方へ駆けていった。どうやら彼の新しい服飾を自慢しているらしいということは、遠目からみても明らかだった。酒飲みの頭には再び眠気が襲いかかってきたが、自分の背後にたたずむ天使の存在に気付いて霧散した。眠った振りをするのもいいかもしれないと思ったものの、いかにも何か言いたそうな彼を背に、勿論そんなことは不可能だった。ひとまず彼は、やあアンジョルラスどうしたんだい、と声をかけることにした。
「彼はあれをどこかで拾ってきたんだろう。俺はさっきそれを結んでやっただけさ。」
口をついてでたのは全く違う言葉だったが、まあそれでもいいと彼は思った。聞きたかったのはそれかい?と問うように、ちらっと視線を送ったが、アンジョルラスは少し俯き気味で、此方を見る素振りもない。それどころか全くの無表情で、微動だにしていなかった。違うのか、と呟いたグランテールは、机にほぼ突っ伏していた体を起こし、代わりに右肘をついて顎に手をおき、うーむと唸った。かれこれ数十秒考えたのち、絞り出したのはこの一言だった。
「あー………彼は腹が減っているみたいだった」
一瞬の沈黙の後、アンジョルラスは詰めていたらしい息を短く吐いた。彼は白く滑らかな眉間にしわをよせ、グランテールと目が合った途端少し口を開いた。しかし何も言わないまま閉じてしまった。アンジョルラスは足早に扉の方へ向かい、目的をもった足取りで部屋を出ていく。惜しかった、とグランテールは思った。彼もあの少年も、ありがとうと言うのは苦手らしかった。もしくは相手が自分だからかもしれないが、まあそれでもいいとも思った。今度こそ彼は強烈な睡魔に襲われ、だんだんと意識が遠のき、仲間たちの喧騒が小さくしぼんでいくのを感じた。彼はパン屋へ行くのかもしれないと思った。
前作のエイプリルグラアン読んでくださった方はまずうえーい!そして今回のも読んでくださった方うえーい!そして読んだよと一言下さればもっとうえーい!ただしもしそんな嬉しいの頂けたら僕は舞い上がって執拗にりぷ返す派なので、気にせずバッサリ切っちゃって。ください。うおおおお本当にありがとうございます。